2006年07月

アフリカ人と柔道を

 こういう異国の地で柔道をするのが私の夢の一つでしたので、少し落ち着くと柔道場を探しました。町には大きな柔道クラブが一つあり、それはIBMのクラブでしたので訪ねてみました。社員以外にも解放されており、私も歓迎されましたが、アフリカ人はオフリミットで白人だけの世界でした。私もしばらくそこに通いましたが、そのうちに、せっかくアフリカに来たのだから、何とかアフリカ人と柔道をやりたいものだと考えましたので、まず事務所にいる屈強なアフリカ人のスタッフに話をもちかけて、その友達を集め、最初は空き地の草の上で相撲をするように柔道の手ほどきをしました。そのうち見物人が多く集まり、柔道をしたいというアフリカ人もふえましたので、何とか自分たちで柔道場を持ちたいと思うようになりました。道場に使える民家か空き地がないかと、あちこち相談していると、キンタンボという地区の区役所から青空市場に使っている区域の隅の土地なら無料で使ってもいいとの話があり、そこに道場を作ることになりました。土地をかりても、道場の建物を建てるほどのお金はありませんでしたから、皆で、無料の勤労奉仕をして、杭や板を持ち寄り、それで道場の型の吹き抜けの建物の枠組みを作り、そこにマットを敷きました。マットも本物ではありませんから、大きな布の袋に枯れ枝やおがくずを詰めて、縫い合わせ畳みくらいの大きさにしたものを何枚も作りました。畳のようにすり足は出来ませんが、それでもクッションの役にはなります。その袋を40個くらい敷き詰めてそれで道場です。稽古の度にあちこちの袋の一部が破れるので、稽古が終わるとそれを縫って修理するのが稽古後の作業の一つになりました。メンバーは50~60人くらいいて、私はほとんど毎日、仕事を終えてから、晩の7時頃に来て、2時間ぐらい稽古をしたわけです。ザイール人は柔道に非常に興味を持ち、力もあり運動神経もいいですから、いろいろの技をすぐに覚えました。また、それ以上に、礼儀に関心を持つので驚きました。彼らは、正座、黙想、礼、など、かけ声をかけて、儀式のように静かに座り黙想をします。黙想は特に好きで、5分くらいでも全く動かずに正座しています。それは後に他のアフリカの国に行っても同じでした。日本語を覚えるのも早く、後にケニアで私が柔道を教えていた道場では、私が道場の彼方から歩いて道場に近づくと、リーダーが稽古を止めて、大声で、先生に向かって礼!といいます。
 キンシャサの道場では準備体操をする前に、全員で町のなかをランニングで走ることにしていましたが、音感がいいので、歌を歌いながら走ると皆がよくリズムに乗りました。柔道日を着ているものは少なく、ほとんどが上半身裸で、裸足のものもいます。こういう人たちが40~50人くらいで歌を歌いながらリズムに乗って町のなかを走るのはなかなか爽快でした。道場では、日本で私がやっていたのと同じように体操をして、腕立て伏せや、うさぎ跳びや、受け身などをやり、その後、乱取りをします。湿度が高く、温度も高いですから、かなりの運動量で、私にはかなりこたえましたが、当時は私も若く、また、彼らの熱意を感じで夜遅くまで、柔道場にいることが多かったです。すっかり夜になり、星空のもとで、ビールやバナナの酒を持ち込んで皆で車座になり、いろいろの話をしたものです。仕事がない、お金がないというものが多く、可哀想でしたが、日本でも柔道をしているものは金のないのが多いけど、一生懸命に柔道をしているとそのうちに神様が見ていて、きっといいことがあるなどと、いい加減なことを言って対応していました。
 いま、思うとやはりあのころに私のアフリカ化の基礎が出来たのだと思います。日曜日はいつも朝から道場に行きました。彼らも張り切っていつも来ました。彼らにとっても柔道が面白かったのだと思います。私が道場に来るとそれまで広場でサッカーをやって遊んでいた連中が走って道場に集まります。柔道着はまだたくさんはありませんから、ほとんどのものは裸で、あるものはジーパンで上は裸、あるものは上着だけで下は短パンだけと、あるものは帯だけ身につけて、稽古をするのですが、とくに奇異にも感じません。日曜日には特に見物人が多くて、道場の周りに鈴なりです。何重にも人垣が出来て。時々後ろから押されて列が道場に倒れ込むことがあります。やはり、日本人が珍しく、柔道も神秘的で面白かったのだと思います。ザイール人は力が強く、運動神経もいいですから、私が技を教えるとまもなく私がその技で投げられるのです。私は大学で随分寝技をやったものですから、彼らによく寝技も教えて、これは待ったなしだぞ、決してあきらめるな、それをコンジョウだと教えてかけ声をかけました。ザイール人は力はあるのにすぐにfatigue fatigueというのです。疲れた、疲れたというのです。私は、あんた達は力があるのにすぐに疲れた、疲れたでは情けない。これは柔道だけでなく、仕事も生活も、もっとコンジョウを持って頑張れ、そうしないと立派な人間になれないぞ、と気合いをいれました。そのうちに私の方が疲れて休もうとすると、逆に、コンジョウ!コンジョウ!と気合いをいれられました。柔道の稽古はその町内の名物のようになり、町内の人々ともお互いに親しみを持つようになると、誰も私のものは盗らないようになりました。普通はその地域は物騒だといって、日本人は勿論、外国人は近づかないところで、人々も、みな貧しいからなんでも盗るのですが、私が道場の隅に靴や時計や衣類を投げるようにおいても、不思議と誰も盗りませんでした。あんな連中でもなにかルールがあるのかなと思います。
 柔道の稽古が終わるともう夜の10時過ぎになりますが、それから時には、有志を募って、10人前後でナイトクラブ巡りをよくしました。ナイトクラブといっても、たいがいは星空の下で屋根もなく、ドラムやエレキギターの大音量をバックにザイール人がはち切れるような声で歌って踊っています。ザイールはアフリカでももっとも音楽がすぐれていて、かれらの音感とダンスのセンスはアフリカでも抜群といわれます。クラブでは歌手が大きな音量で夜空に向かって叫びあげます。それは日本などの加工された歌や音楽と違い、何か魂を揺さぶる叫びに聞こえました。そこで踊る人たちの輪はどんどんと大きくなり、踊りもリズム感にあふれ、私はいつも圧倒されました。


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〈 一目惚れしたというキリマンジャロを皮切りに、アフリカの山に登りまくっていた清水さんですが、もともと登山の趣味は無かったのだそうで、日本の山は昨年奥様と登った富士山が初めてだったといいます。目の前の興味に即夢中になる清水さんらしいエピソードです 〉



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キンシャサ時代

2. キンシャサ時代

 キンシャサは昔のベルギー領コンゴで独立後はザイールという国名でしたが、最近はまだコンゴといっています。ザイールはアフリカでも海岸線が少なくて国土のほとんどが内陸ですので、西欧文化の影響が他のアフリカの国よりも少なく、アフリカの本来の姿が多く残っている国で、いろいろ不思議な事も多くアフリカのブラックホールともいわれています。国はコンゴ川をかかえ、大きな草原と森林地帯があります。かつて、リビングストン、スタンレーなどの宣教師や探検家が入って最も苦労した国だそうです。また銅、コバルト、金、ダイヤモンドなどの資源が豊富でしばしば欧米の利権争いの舞台になってきました。私は1972年の10月にキンシャサに向かいました。飛行機がキンシャサに近づき、空からみると、一面が緑の絨毯でその中をコンゴ川が大きく迂回しながら、とうとうと流れていました。飛行機から出ると、まだ早朝でも大変暑くて蒸すので驚きました。キンシャサにはすでに会社の年上の駐在員が1年ほど前に来ており、私はその増員できたわけです。最初は住居も定まりませんでしたからホテル住まいをして、自炊でしのいでいました。温度が暑い上に湿度が高く、言葉はフランス語だし、泥棒は多いらしいし、これはなかなか大変だなと思いました。そのころはアフリカの各国は植民地から独立して旧宗主国に反発し、アフリカの人々は今まで虐待されたため、外国人に敵意を持つことが多かったです。ザイールはベルギーの植民地で、植民地時代はベルギー人葉ザイール人を動物のように扱い、日中も市街地の道路を歩くことさえ許さず、アフリカ人が、その辺でたむろすると水撒きホースで追い散らしたりしていました。まだ独立間もない頃でしたから、贅沢な生活をしてザイール人を家畜以下にこき使うベルギー人の生活と、仕事もなく、裸足で、ボロをまとい、目だけをぎょろつかせて、ひっそりと生活するザイール人の生活はあまりに極端にかけはなれていました。
 これだけ遠くの国に来るといかにも勝手が違いました。いくつかを紹介しましょう。キンシャサに着いてまもなくの頃に、トレーニングの為に、毎朝早く、コンゴ川のほとりにそってランニングをしていました。大変、蒸し暑いので、私は上半身は裸で柔道着のズボンだけをはいていました。ある朝、いつものように走っていると様子がおかしく、鉄砲を持った兵士があちこちから、私の方に接近してきて、私は取り囲まれました。何が起きたかさっぱりわからず、とっさに走って逃げ出したいような衝動におそわれましたが、走ったら、あの鉄砲で撃たれるかもしれないと思って留まり。覚悟をして、彼らに連れられて行きました。何を聞いて現地の言葉で話しますからさっぱりと事情がわかりません。川縁の大きな建物の中の地下に連れて行かれ、その一室に入れられました。
 言葉ほとんど通じず、何故かと聞いてもいっさい説明はされません。外部と連絡を取ろうとしても電話もかけさせてくれません。私もパスポートもお金も持っていませんから、なにも証明出来ないわけです。まさか、殺されたりはしないだろうけど、不安でたまりません。兵隊の態度がひどく、捕虜か罪人を扱うようなやり方です。一番下のクラスの兵隊らしく英語は勿論、フランス語も出来ません。それでもだんだん時間が経ってくると、そこの兵隊の部隊の幹部が出勤してきて、ようやく話が出来ました。お前は中国人かと問われ、日本人だというと、急に親しそうな態度に変わり、捕まえられた理由を聞くと、早朝にこの地域を上半身裸で草履を履いて走ったのは何の目的かと聞かれました。これはトレーニングで柔道の為だと説明すると、その幹部は、私の住所、氏名、国籍、親の名前、この町に滞在している理由などを詳細に聞き取り、その上で、また、他の部屋に行き、戻ってくると、よし、一応、スパイ活動はしていないと判定するので、これで解放するとのことで、釈放されました。私が走っていたところは大統領の官邸から近く、早朝にその辺を裸で走るのはスパイだと思って兵隊が捕まえたのでした。そのころのキンシャサでは町のあちことによく、兵隊による検問があり、身分を問われたり、お金を要求されたりしましたが、急いでいるときなど、ついついお金を渡してパスさせてもらったものです。また、兵隊の方も、相手が外国人となると必ずお金を取れると考えて、しつこくあれこれと尋問をしてきます。運転証を開いてみてから、いや、これではないと突き返してきます。何が悪いのかと聞くと、この免許証には不備があるという。何が不備かと問うと、不備は不備だ、そんなことがわからないかというだけです。そこで、ハタと思いつき、免許証の中に100円くらいのお金を挟んで渡すと、OK、さっさと行けとのことです。こんなことはいつもありました。
 会社の事務所では雨が降るとほとんどの社員が出勤してきません。何故かと問うと、傘がないという。それではと、傘を買って与えても雨が降るとやはり来ない社員がいて、私はカッとなりそのものの家に行き、何故に傘もあげたのに事務所に来ないかと糺すと、相手は、きょとんとして、あの傘は確かにもらいましたが、自分の弟があの傘を使って学校に行ったので、自分は会社には行けないとのこと。まあ、争っても勝ち目はないとあきらめました。
 また、こんなこともありました。キンシャサでは通常はどこの役所も店も朝は8時頃から12時まで働いてその後12時から3時頃まで休みでほとんどの人々は家に帰り昼食をとって昼寝をしてそれから事務所に来てまた3時から5時頃まで働きます。最初は私はそういうやり方になじめなかったので、昼も事務所で簡単に食事をして、昼休みも、町であちこち、それでもやっている店や工場に仕事で出かけました。相手が休んでいても、ちょっと失礼に起こしたりしていました。ある時、親しい取引先のザイール人が私にいいました。あのね、昼のこの時間に、カンカン照りの太陽の下で働いているのはトカゲと日本人だけだなといわれました。


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〈以前にお土産でいただいたアフリカのインスタントコーヒーと、先日現地の従業員だった方が日本まで持ってきてくれたという、アフリカの清水家の庭になっていたアボガドです。このアボガド、全く癖がなく、ちょうど食べごろで最高の味でした。娘のシオリが「なにこれ~!おいしい!ウチアボガド好きかも~」と大騒ぎ。一口で、わが家にアフリカの空気が広がりました。〉



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私のアフリカ

私のアフリカ

清水 孝

本稿は、故人が母校長岡高校での講演会用に作成したもので
故人のこれまでの人生、人柄や考え方がよく表れております。

残念ながらその後新潟県中越地震の影響などもあって
講演会は中止となりましたが、皆様に読んで頂ければ
故人も大いに喜ぶかと思い、配らせていただきます。

尚、本文中の誤字脱字などは修正いたしました。
その他の部分については失礼な内容もありますが
故人らしい部分でもあることから、敢えてそのままにさせていただきました。
どうかご容赦くださいますよう、よろしくお願いいたします。

2006年4月 遺族一同


1. 略歴

 私は1941年(昭和16年)に長岡で生まれ、父は城内町で開業医をしていました。8人兄弟の長男で、姉や弟・妹もこの学校で学びました。私は高校時代は成績は中くらいで、部活もせず、受験勉強が中心でしたが当時のいろいろの個性豊かな先生方の印象は今でも鮮やかに残っています。長岡の土地で育ったこと、そして、その中核ともいえる伝統のあるこの学校で学べたことは私にとって大きな誇りです。
 私は子供の頃から、自分の将来については、父の職業の医者にはあまり魅力を感じず、いつかはどこか遠くの未知の世界に行きたいと思っていました。大学は一橋大学の商学部に入学しました。大学時代は柔道部に入り、すばらしい師範のもと、稽古に励み、そこで生涯の友人を得ました。大学の寮での生活、柔道の合宿生活が、私の心身を鍛えてくれ、これがその後の私の人生でいろいろの場面をしのぐ力になりました。大学を卒業して、三菱商事という会社に入りました。こういう会社に入ればきっと遠くに行けると思ったのです。何しろ、開業医をしている父を見るといかにも世界が狭く、毎日、長岡や近郷から決まった患者さんが来て治療をするだけで、こういう平凡な刺激のない生活で生涯を終えるわけにはいかないと思っていました。
 三菱商事に入って、振り出しは大阪支社で繊維の輸出の仕事でした。仕事自体は大して難しくもなく面白くもなくそこで7年ほど過ごしていましたが、これオは本意でないからそのうち会社を辞めようかと真剣に考えていたところ、会社がキンシャサというところにある事務所に駐在員を増員したいがそこに行く社員がいないので、誰か希望者はいないかと社内の公募をしました。会社の支社や事務所は世界のあちこちにあるのですが、現地に風土病があったり、生活条件が悪かったりすると指名された社員が断ることが時々あるわけです。それでやむなく会社も社内で公募したわけです。よし、これだ、どこに行こうと今よりはいいだろうと手を挙げて、すぐに確定しました。そこで、キンシャサとはどこかと地図で調べると、アフリカでした。それもアフリカの裏側で大西洋に面し、もっともアフリカ的な未開の地域らしいことを知りました。これは少し行き過ぎたかなと思いましたが、もう、バックは出来ません。大阪から長岡に帰って、父にアフリカのキンシャサに赴任するけど、3年位したら、また帰ってくるといいました。そうしたら、父が、アフリカに行くのは大変いい、だから決して2~3年ではなく一生アフリカでやるべしといいました。父は人生は短く、2~3年では何も出来ない。アフリカでアフリカの人々の為になることをやりなさい。それほどやり甲斐のある事はない、と励ましてくれたのには驚きました。もっとも、その後、日本を出発する日が迫り、最後に長岡を出発する時には父は長岡駅に見送りに来て、出発する汽車の窓で私に、孝ね、ほんとに難儀いときはいつでも帰って来いやといいました。私がアフリカにでた歳の暮れに、父は俳句で、「長女、アメリカ、長男、アフリカ、歳暮れる」との句を読みました。その父は私がキンシャサに行った2年後になくなりました。キンシャサで、父が亡くなった知らせを、日本からのテレックスで受け取りましても、暑さのせいか、感情も干上がる感じで、特に涙は出ませんでしたが、それを知人のザイール人達に話すと彼らは大変悲しみ、私の肩を叩き、手を握って、励ましてくれました。

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〈横浜の自宅で。いつもこんな笑顔なのです。〉




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アフリカ愛して愛されて

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朝日新聞 2006年5月8日 『惜別/元商社マン 清水孝さん』より

アフリカ愛して愛されて

 「あのタフな人が、まさか交通事故で・・・」。悲しい知らせを聞いたケニアの友人たちは驚き、怪しみ、そしてがっくり肩を落した。
 アフリカ一筋に30年余。三菱商事の商社マンとしてザイール(現コンゴ)、タンザニア、ケニア、南アに駐在、各地を飛び回った。雄大な自然と厳しい環境を生き抜く人々の逞しさにほれ込んだ。
54歳で自ら望んで早期退職をしてからはナイロビに拠点を移し、日本製中古車の輸入販売業をしながらのアフリカ暮らし。11年間でざっと8千台を売ったという。「儲けはそこそこでいいから」と格安ビジネス。「ほとんどアフリカ人たちが買ってくれた」のが自慢だった。この話をする時はきまって「うれしいよぉ」と目を細めた。
 一橋大時代に鍛えた柔道がパワーの源だった。初任地のザイールで、さっそく若い現地スタッフを誘って柔道クラブを開設。小柄な日本人が屈強な大男を投げ飛ばす。原っぱでの連夜の稽古は評判になり、子どもから大人まで数十人が常連に。その後も、どの勤務地でもクラブを立ち上げた。教え子は200人を越す。「君たちが頑張れば、アフリカの未来は明るいぞ」と熱っぽく語った。豪快で繊細で、気さくな人柄が慕われた。
 ザックをかついで日本から来る若い旅人にも「うちにおいで」と気軽に声をかけ、泊まる所を提供するなど何かと面倒をみた。60歳からアフリカの最高峰キリマンジャロ(5895メートル)登山に挑戦。「次はウガンダの霊峰ルエンゾリに登りたい」。家族が住む横浜の自宅に電話をかけ、首都カンパラで雇ったハイヤーで下見に行った。その帰路、真っ暗闇の一本道でトラックに追突、ウガンダ人の運転手らとともに亡くなった。
 ホテルの部屋には、出かけ際に食べたのか、おにぎりの梅干しのタネが二つ、新聞紙にくるんで残されていた。
(大野拓司)
しみず・こう 1月29日死去(交通事故)65歳 4月29日お別れの会

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 奥様にうかがうと、あと数キロで到着という地点での事故だったそうです。クルマは大破したのにご本人はほとんど無傷、熟睡していたらしくとても穏やかなお顔だったそうです。すぐに現地入りした奥様は、何とかご主人の御兄弟たちに会わせたいと考え、苦労して御遺体を日本まで連れて帰り、長岡で葬儀を行ったそうです。
 生前、一年の半分はアフリカで過ごしていた清水さん。日本にいる時は毎週関越道を飛ばして長岡の実家に行っていました。高齢のお母さまを見舞うためです。私が訃報を聞いた時に、そのお母さまがどれだけ悲しんだことかと思い、胸が詰まったのですが、実はおかあさま、事故の一週間前に他界されていて、清水さんはその葬儀を済ませてアフリカに飛び、そしてすぐに・・・。

 明日からは清水さんが母校の長岡高校での講演会用に用意した文章を紹介しようと思います。講演会は中越地震で中止になったのですが、アフリカのパソコンに残されていた原稿を奥様が見つけたものです。やや長いので、数日にわたっての掲載になります。読んでいただいた全ての人に、素晴らしい“ 何か ”をプレゼントしてくれる内容だと思いますので、よろしくお付合いください。



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はるか未知なるもの

2006年2月22日  朝日新聞(夕刊) 『こころの風景』より

『はるか未知なるもの』 斉藤惇夫

 長年ケニアに住みつづけていた小学校時代からの友人が自動車事故で亡くなった。月の山というウガンダの幻の山の登頂を計画し、下見にいった帰り道だった。
 一昨年の暮れに、彼の「ちょっと来てみないか」という言葉に誘われて2週間ほどアフリカに行ってきた。商社の仕事でケニアに行っていた彼が、何故そこに住み着いてしまったのか、とても気になっていたものの、私の方も自分の仕事に忙しく、ゆっくりと会うのはほぼ50年ぶりであった。会ったらその何故を聞こうと思っていた。
 だが言葉は無用だった。キリマンジャロを背景に、朝靄のサバンナを無数のヌウが歩き始め、そこにシマウマやゾウの家族が加わり、日の出とともに静かに草を食む姿を見た時、突然、ああこの穏やかな高雅としか言いようのない光景こそ、俺たちが小学校の頃から夢見ていた世界だったと思った。そしてアフリカの人々の眼差しには、私たちが子どもの頃焼け跡で沢山見た、はるか未知なるものをのぞむ不思議な強い光が、確かにまだ宿っていた。互いに異なる道を歩き、今、同じ場所に立てたことを、我々は喜び合った。
「英国の友人でここに住む民俗学者がいる。彼と君の求めるケニアの神話や昔話について語り合おう。もう一度おいでよ」。それが彼の最後の言葉だった。私は準備を始めていた。
(作家)

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〈 アフリカご自宅でのガーデンパーティー 〉


 人は二度死ぬと言います。一度目は生物的な死で、二度目は生きている人の記憶からその人が消えたときです。年令が増すほど私の中で生き続ける人が増えてきて、その人たちの助言や励ましで、どれほど人生が豊かになっていることか。そして、清水孝さんも・・・。おそらく一生、私を励まし、正しい道を指し示してくださることでしょう。もちろん私だけではなくて、ものすごく沢山の、たぶん清水さんと関わった全ての人の心の中で生き続ける、そういう人なのです。先日奥様ともそんな話をしたのですが、「こんなふうに生きてこんなふうに死にたい」訃報を聞いた多くの人がそうつぶやいたのではないかと思います。

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〈 友人の民俗学社と共に、大統領にごあいさつ 〉




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アフリカの月

 アフリカの月という曲を御存じでしょうか。古い古いフォークの名曲です。作詞/KURO(西岡恭蔵の奥様)、作曲/西岡恭蔵で、知らなかったのですがお二人とももう他界されているとのこと。特に西岡ファンということではないのですが、年に何度かふいに口ずさんでいる曲です。最近では高田渡のDVD(結果的に追悼アルバムになってしまいました)で俳優の江本あきらが歌っています。なかなかいい感じです、機会があったらぜひお聞き下さい。


アフリカの月
作詞:KURO 作曲:西岡恭蔵

古い港町流れる夕暮れの口笛
海の匂いに恋したあれは遠い日の少年

酒場じゃ海で片足無くした老いぼれ
安酒に酔って唄う遠い想い出
俺が旅した若い頃はよく聞け若いの
酒と女と浪漫を求めて七つの海を旅したものさ

母さんは言うけど
船乗りは宿ぐれ海に抱かれて年取り
あとは寂しく死ぬだけ

僕は夢見る波の彼方の黒い大陸
椰子の葉影におどる星屑

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 このアフリカの月を口ずさむ時に必ず浮ぶ笑顔があります。それはお客さまの清水孝さんです。
 奥様から「実は清水が亡くなりまして」と電話をいただいたときにはもう葬儀もいろんな整理も終わっていて、奥様もいくらか平静を取り戻していらっしゃったのですが、こちらは突然の訃報に電話口で涙が止まりませんでした。

 清水さんとの出合いは5年前、うちが横浜に出店したばかりのころで、庭に池をつくりたいというご依頼でした。その後もおつき合いが続いて、ガーデンパーティーにお招きいただいたり、何度か店に立ち寄ってくださったりしました。
 ご主人はアフリカに中古車を輸出して販売する会社をやっていて、いつもアフリカの話を興味津々で聞かせてもらい、必ず一度アフリカに遊びに行きますと約束していたのですが・・・。
 清水さんのご主人は新潟の長岡出身で奥様は兵庫県の神戸出身です。うちは私が新潟の魚沼市、妻が兵庫の姫路なので組み合わせが同じということもあって、最初から何となく近しい感じでおつきあいさせていただき、親戚みたいな感覚になっていました。またご夫婦の人柄、ご主人の独特の人を引き付ける魅力がそうさせたのかもしれません。ご主人の独特の魅力、その一端を書きます。
 清水孝さんは走るのが好きです。最初は50才を過ぎてから医者に「少し歩きなさい」と言われて始めたウォーキング、その距離とスピードが徐々に伸びて、ついに江ノ島まで(横浜市栄区桂台から)ジョギングするようになって、さらに茅ヶ崎方面に距離を延していました。その行程をクルマで走ってみると、とてもじゃないけど走ろうなんて考えられる距離ではないのです。絶対に楽なはずないのにニコニコしながら「たいしかことないよ」と涼しい顏をしています。そして食事はものすごく質素で、肉はほとんど食べないで、毎日必ず豆腐を2丁、少しのお酒、あとは長岡の弟さんが作っている特大のアサツキをボリボリと、そして何にでも世界一辛いと言うとうがらし(タバスコにタカの爪の種と果肉が入っているようなものです)をかけて食べるという食事です。そしていつも豪快に笑っている、そんな人です。私に会うと必ず「あなたは天才だよ、すばらしい才能だ。いつか投資するから大きい会社にしなさい」と持ち上げてくれます。それから、アフリカでのいろんなエピソードは嘘のようなほんとの話の連続で、いつも爆笑と共に聞き入ってしまいます。“ 風の街港南台 ”で紹介した「アフリカではいい風が吹くところを捜して家を建てる」というのも清水さんから聞いたネタです。他に、現地の従業員とのトラブル話やアフリカの裁判で勝つには袖の下が必要とか、キリマンジャロに登った話、アフリカでは400坪のプール付きの家で、お手伝いさんが5人いるとか、現地の子供達に柔道を教えていることなど、ネタの宝庫なのです。
 常に限界まで何かに挑戦しながら、でもいつも笑っている。ご自身が光り輝きながら先頭切って走り続ける、そんな清水孝さんです。
 今日から数日を使ってこの清水さんを偲び、その生きざまを紹介することにします。しばらく“ 庭 ”はお休みになりますが、これをお読みいただくと、きっとあなたの心にすてきな“ アフリカの月 ”が見えてくると思います。


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〈 この山は氷ではなくて、塩で白くなっているのだそうです〉




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自然は生活の分母なのです

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 いつものように円海山から瀬上池に降りるコースを散歩中にこんなチラシを見つけました。以下転記します。


『横浜市域再大規模のホタルの里 瀬上の森に進む開発計画』

 横浜の南の森、円海山緑地。鎌倉から逗子へ、そして三浦半島へとつながる首都圏の大きな緑の回廊。その入口に位置する瀬上の森。横浜の原風景である大きな谷戸。横浜市域再大規模のホタルが流域約3キロにわたって自生するいたち川支流。昔の人々の治水の苦労を偲ぶ灌漑遺跡や世界的な学術教育価値を持つ貝化石の露頭。そしてホタルに代表される豊かな生態系との触れあいや憩いを求めるたくさんの市民。この市民の貴重な共有財産でもある瀬上の森に、横浜スタジアム8個分にも相当する21haの大規模開発が計画されています。港南台から上郷へと下る舞岡上郷線の両側の山を削り谷を埋めて、ショッピングセンター、宅地、高層マンションを建設しようとするものです。横浜市の環境部局は、この緑地には優先的に保全すべき高い価値があると認めながら、事業者の開発意欲を理由に保全のための十分な施策を行ってきていません。
 現在、横浜市は(1)事業者が所有する緑地の半分を寄付させて市有地とする。(2)舞岡上郷線の4車線化の拡幅を事業者の負担で行う。(3)ホタルの生息環境の保護をする。という3点を「開発を認める最低限の条件」と説明し、「これが実現しなければ開発の許可は出ない」と言っていますが、(1)(2)から見えるのは、道路を事業者負担で拡張する代償として、大規模な緑地と生きものの生息環境の破壊を容認する手続きに入ろうとする開発部局の姿勢です。これだけの規模の開発を、開発抑制の市街化調整区域から開発促進の市街化区域に変更してまで行おうとするのは横浜では最近は例のないことですし、開発計画地には、一昨年、栄区民の参画で決定された「栄区街づくり方針(都市計画マスタープラン)」で「緑と水の拠点」にすると明記された舞岡上郷線東側を含んでいるという都市計画上の大きな不整合もあります。またホタルの生息環境の保護をするという(3)の条件は、現存の川を工事中は埋め立て、商業施設の明かりもコントロールできない計画では流域全体のホタルを守れる根拠がありません。専門家の方々は、現在の計画では光の影響などでいたち川支流流域のホタルには大きな影響があり得ると指摘しています。
 このような状況の中で、今年の2月から、市民・自然保護団体・学識経験者などの強い訴えに応える形で、計画の環境への影響を審査する環境アセスメントのプロセスが始まりました。アセスの進め方(方法書)に対して意見書を出した市民は、横浜の過去のアセス条例でも一、二を争う400人を越える規模となり関心の高さを物語っています。私たちは、これから本格的な審査が始まるこの手続きの透明性と審査の合理性をしっかりフォローしながら、適切な環境保全措置が施された計画への見直しを求めていきたいと考えています。
 瀬上の森やそれにつながる円海山緑地を保全し、多様な生きものや文化財を次の世代に残していくにはどうしたらよいのか、一緒に考えてみませんか。私たちは、横浜そして瀬上の自然や生きもの、あるいは文化財に関心を持たれる広範な方々と開発計画についての情報を共有し、現地での観察会や勉強会・講演会を通じて考え、行政や事業者との対話も進めています。
 また運営にあたっては、この活動が特定の政治団体や思想に偏ることのないように努めています。是非、下記のホームページをご覧いただき、また毎月定例で行っている視察観察会にもご参加ください。

「瀬上の森パートナーシップ(SMP)」
  <連絡先>
 〒221-0835 横浜市神奈川区鶴屋町2ム24ム2
 神奈川県民活動サポートセンター
 レターケースNo.420 瀬上の森パートナーシップ(SMP)宛
E-mail:segami-ps@hotmail.co.jp
ホームページのURL:http://ameblo.jp/segami-ps/

<視察観察会>
8月19日(土) 俳句でハイク
9月16日(土) 秋の虫をさがそう
10月7日(土) 瀬上の秋の野草たち
11月18日(土) 冬の生きものさがし
 集合は当日10時に県立上郷高校の正門前。小雨決行。解散は12時頃。付近に手洗いはありません。当日受付も行いますが、事前にSMPまで、葉書かE-mailで参加の連絡がいただけると幸いです。

- 以上 -



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 瀬上の森とその周辺の自然を満喫している私にとっては直接的に心配な問題です。何とか環境を保全する方向での解決を願っています。

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 ある冒険家が「自然は生活の分母だ」と言っていました。全く同感です。豊かな自然がベースにあればこそ、豊かな生活が実現し、その分母が小さくなればどう取り繕っても豊かな生活は望めなくなる、そう思うのです。だいいち、この先急激に人口が減ってゆくことが予測できているのに、なぜ今、自然を壊してまで生活の場を確保しなければならないのか。10年後には日本中のマンションは空室だらけになり、20年後には渋滞や通勤ラッシュなど遠い昔のお話になるのです。それなのになぜ?答えはいつもの通りで“ 経済活動優先 ”ということなのでしょう。目先の金のために環境を破壊することの愚かさにまだ気が付かないということなのでしょうか。あるいはそんなことは給料が上がることに比べたら、たいしたことではないと考えているのかもしれません。だとしたらこれまた愚かとしか言いようがありません。連日起きている悲惨な事件、親が子供を、子供が親を、子供が子供をという悲劇の原因をたどってさかのぼると、多くの事件の種は高度経済成長期からバブル期までに、日本人が経済と引き換えに(自然だけではなく)いろんなことを破壊してきたことにある、そんな気がしています。「諸悪の根源は昭和時代、会社帰りに毎日ビールと枝豆でジャイアンツ戦を観ていた親父たちあるのだ!」という暴言を妻にたしなめられながら、でもやっぱり、あの頃の大人たちにもう少し日本の将来へのビジョンがあったら、そして途上国の貧困や戦争のこと、地球の健康状態にまで思いを至らせるセンスがあったら、今はもう少し豊かだったはず。少なくてもこんな事件が連日報道されるような国にはなっていなかったと思うのです。と、愚痴っていてもしょうがないので、今の大人である私たちはどう考え、どう行動するべきなのか。30年後の大人たちに愚痴られないように、『経済と環境』、真剣に取り組むべき問題なのです。

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 「自然は生活の分母だ」。もう待った無しの状況です。分母を食い潰すのではなくて、大きく豊かに育てていきましょう。そのために日々何をすればいいのか、理念を忘れずにそれを模索する、そういう生活でいいのだと思います。それが、エコロジーやロハスな生活ということです。



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 走る 環境ブログの現在1位『晴れの日、オーガニック日和』おすすめします。わたし、好きですこういうおじさん。

ヒーリングガーデン( 宮川邸 4)

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 この小物たちからも、日頃から庭を楽しんでいただいている様子が伝わってきます。お医者さんという仕事は強いストレスを受ける仕事で、同時にそういったことの専門家でもあるわけで、この庭の楽しみ方こそがヒーリングガーデンのモデルケースなのかもしれません。
 この積極的に庭のある暮らしを組み立てている様子、その力に敬服しました。「こういうすてきな先生とご家族だからこそ、地元で3代続くという信頼が築けているんだろうなあ」これは撮影の帰り道で妻カオリちゃんが言ったひとことです。同感!その感じを見習ってうちらもがんばらなくては。



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 走る

こちらこそ、感謝です( 宮川邸 3)

 お医者さんがガーデニングを楽しむ庭です。日頃は圧倒的にデッキやテラスがメインのリビングガーデンの設計が多いので、最初は頭の切り替えが必要でしたが、途中からはスイスイと楽しく夢中で仕上げました。設計しながらこのガーデンリフォームが宮川さんご一家にとって意義あるものになるようにとデザイン的な策略をちりばめた庭です。最も危惧したことは日常の生活導線から庭が離れているということです。意識しなければ庭に出ないまま過ぎてしまう。こうして2年後を拝見すると設計時の願い以上に楽しんでいただいていると感じて、とてもうれしく、ありがたく思いました。

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 撮影した写真をお送りしたところ、とてもていねいなお礼状をいただき、恐縮してしまいました。「こちらこそ、ほんとうにありがとうございました」

 庭のあちこちにおもしろい小物が配してありましたので、明日はそれをご覧下さい。



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 走る

時間が線を馴染ませてくれる( 宮川邸 2)

Before
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After
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Before
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After
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Before
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After
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 完成直後は空き地に大きなコンパスで線を描いたような感じだったのですが、時間がそれをなじませてくれました。レンガも風合いを増していて。2年がかりで安堵したのです。



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 走る汗           走る走る走る走る走る走る

あえて図形チックにしました( 宮川邸 1)

 今日から4回でご紹介するのは京急沿線の駅近くで3代続く医院のお庭です。一般的なリビング外の庭と違っていて、普通の生活導線から離れた場所に休遊地があるという感じで、だからでしょうか、あまり有効に使われていない場所でした。庭の裏手はすぐに川が流れていて心地よい風が吹きそうです。最初にご提案したのはご家族で川風を楽しみながらバーベキューや食事ができる場所というイメージだったのですが、リビングから離れていることから、そうではなくてガーデニングを楽しめるようにしたいというご要望、ならばこんな感じでどうでしょうとお出ししたのがこのプランです。

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 三角形の土地に円を組み合わせながら、ゾーン分けと敷地いっぱいの導線、まくら木のパーティションとアーチ、ウッドパネルと円形花壇などで厚みとフォーカルポイントをつくりました。かなり図形チックですが、時間が経ち、植物が育ってそれを薄めてくれることを期待しつつ、あえてそうしました。それは、今まで活用されなかった土地で、(必然的に)生活パターンを変えてまで「これからガーデニングを楽しむのだ」という挑戦のためのベースとして、線や形で場を和ませたり活気づけた方がいいと考えたからです。遊園地みたいに構成された空間がガーデニングへの意欲やモチベーションになれば、そう考えたわけです。機能性だけの構成ではなくて形や仕切りや質感で何かを仕掛けていく、ガーデンデザインのひとつの勝負どころです。でもこれをやり過ぎたり、方法を誤ると庭が台無しになってしまうので、設計は行きつ戻りつしながらの丹念な作業になり、描き上がる頃にはすっかり自分が図面の縮尺になって、この庭を歩き、腰掛けてお茶を楽しみ、しゃがんで植物の手入れをしていました。そんなときはまずOK!なのです。たいがいイメージ通りの庭ができあがります。

 明日はビフォー・アフターです。アフターは完成から2年後、期待通りに植物が図形を薄めてくれました。



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