帰社後すぐに設計作業開始。その日の設計はことのほかはかどりました。もうスイスイと、考えれば考えただけワクワクが増していくような時間。
森さんちの設計をしていたときにイメージしていたシーンが、そのイメージ以上の輝きを持って現実のものになっていることで感じた高揚感のままで、また次の設計に向かうという、あの日のあの時間の感じを、ぼくは大事に記憶しておこうと思いました。
できあがった庭での幸せな光景が、次に庭を生み出す良質なエネルギーになります。
そして再び夜の部の撮影に行くと、そこには日中と変わらない笑顔のままで、暗くなった庭で過ごすご家族の姿がありました。
子どもたちはまだまだ遊び足りないようで、縁側から庭に出てはしゃぎまわっています。
それにつられてお父さんとお母さんも庭に出て来ました。
これですよこれ。室内と同じに、夜も庭が「家族の居場所」になっているということのうれしさ。
夜庭に出ること、そこで時間を過ごすということに、何の抵抗も気負いもない。それが別に特別なことではない、ごくごく普通のことになっているという感じ。これなんです。
昼も夜も、部屋にいるのと変わらない感覚で庭にいるというのが理想。それが「庭を暮らしの場所にする」ということです。
こうして、庭がある暮らしを実現したご家族を、次々と目撃できることの幸せ。
それはぼくにとって、お気に入りの本を何冊か同時並行で読んでいるのと似ています。
本の中のドラマチックなストーリー展開にわくわくするとか、一行の言葉によって背筋がピンと伸びたり、感動したらり、心の底から清々しい気持ちになれたり、そういう言霊からのエナジーチャージに似ています。
本を読むってそういうことですよね。言葉が与えてくれるパワーで、イキイキできることがうれしいから読む。勉強だと思ったら、暗記しなければと思ったら、そんなに本に没頭できるものではありません。疲れますしね。
ということは、ぼくにとって読書も仕事も、自分がイキイキできることがうれしくて夢中になっているということ。いいでしょこれ、この状態。
庭を設計し生み出すという自分の仕事を、好きな読書と同列に感じられていることの幸せ。
これから庭をつくろうと思っている人たちとの会話からも、ぼくはエナジーチャージします。
一緒に、その方、そのご家族の理想の庭を思い描くとき、そこに幸せいっぱいのシーンをイメージして瞳を輝かせるお客様から、やはり、本に没頭しているときの異次元を漂う浮遊間みたいな感覚を得ることができます。それもまた次の設計の原動力になります。
幸せな庭をイメージして、それができあがって、そこで幸せに過ごす人たちの姿にパワーをもらって、また幸せな庭をイメージできる。幸せの自転車操業。
ありがたいことです。
自分の仕事が誰かを幸せにしていると思えるってこと、ありがたいですよね。ありがたいは「有り難い」、有り得ないこと、なかなかないこと、ということになりますが、ぼくはどんな仕事であっても、それが誰かの幸福に寄与しているものだと、そう思っています。
昨晩、妻とワインを飲みながら、「俺たちってさ、今の仕事してなくても、例えば豆腐屋やってたとしても、きっと同じようなこと考えながら仕事してるよな」と話しました。
妻はキッパリと言いました、「あったりまえじゃない。そうじゃなかったらわたしの人生は意味がないわよ」と。
ウ〜ン、さすがもと左翼活動家(今は家庭内左翼)。
誰かの役に立ちたい、多くの人の幸せに寄与する人生にしたい、これがぼくと妻との数少ない共通意識です。
左翼の妻と歩む人生、・・・有り難いことです。