私のアフリカ

清水 孝

本稿は、故人が母校長岡高校での講演会用に作成したもので
故人のこれまでの人生、人柄や考え方がよく表れております。

残念ながらその後新潟県中越地震の影響などもあって
講演会は中止となりましたが、皆様に読んで頂ければ
故人も大いに喜ぶかと思い、配らせていただきます。

尚、本文中の誤字脱字などは修正いたしました。
その他の部分については失礼な内容もありますが
故人らしい部分でもあることから、敢えてそのままにさせていただきました。
どうかご容赦くださいますよう、よろしくお願いいたします。

2006年4月 遺族一同


1. 略歴

 私は1941年(昭和16年)に長岡で生まれ、父は城内町で開業医をしていました。8人兄弟の長男で、姉や弟・妹もこの学校で学びました。私は高校時代は成績は中くらいで、部活もせず、受験勉強が中心でしたが当時のいろいろの個性豊かな先生方の印象は今でも鮮やかに残っています。長岡の土地で育ったこと、そして、その中核ともいえる伝統のあるこの学校で学べたことは私にとって大きな誇りです。
 私は子供の頃から、自分の将来については、父の職業の医者にはあまり魅力を感じず、いつかはどこか遠くの未知の世界に行きたいと思っていました。大学は一橋大学の商学部に入学しました。大学時代は柔道部に入り、すばらしい師範のもと、稽古に励み、そこで生涯の友人を得ました。大学の寮での生活、柔道の合宿生活が、私の心身を鍛えてくれ、これがその後の私の人生でいろいろの場面をしのぐ力になりました。大学を卒業して、三菱商事という会社に入りました。こういう会社に入ればきっと遠くに行けると思ったのです。何しろ、開業医をしている父を見るといかにも世界が狭く、毎日、長岡や近郷から決まった患者さんが来て治療をするだけで、こういう平凡な刺激のない生活で生涯を終えるわけにはいかないと思っていました。
 三菱商事に入って、振り出しは大阪支社で繊維の輸出の仕事でした。仕事自体は大して難しくもなく面白くもなくそこで7年ほど過ごしていましたが、これオは本意でないからそのうち会社を辞めようかと真剣に考えていたところ、会社がキンシャサというところにある事務所に駐在員を増員したいがそこに行く社員がいないので、誰か希望者はいないかと社内の公募をしました。会社の支社や事務所は世界のあちこちにあるのですが、現地に風土病があったり、生活条件が悪かったりすると指名された社員が断ることが時々あるわけです。それでやむなく会社も社内で公募したわけです。よし、これだ、どこに行こうと今よりはいいだろうと手を挙げて、すぐに確定しました。そこで、キンシャサとはどこかと地図で調べると、アフリカでした。それもアフリカの裏側で大西洋に面し、もっともアフリカ的な未開の地域らしいことを知りました。これは少し行き過ぎたかなと思いましたが、もう、バックは出来ません。大阪から長岡に帰って、父にアフリカのキンシャサに赴任するけど、3年位したら、また帰ってくるといいました。そうしたら、父が、アフリカに行くのは大変いい、だから決して2~3年ではなく一生アフリカでやるべしといいました。父は人生は短く、2~3年では何も出来ない。アフリカでアフリカの人々の為になることをやりなさい。それほどやり甲斐のある事はない、と励ましてくれたのには驚きました。もっとも、その後、日本を出発する日が迫り、最後に長岡を出発する時には父は長岡駅に見送りに来て、出発する汽車の窓で私に、孝ね、ほんとに難儀いときはいつでも帰って来いやといいました。私がアフリカにでた歳の暮れに、父は俳句で、「長女、アメリカ、長男、アフリカ、歳暮れる」との句を読みました。その父は私がキンシャサに行った2年後になくなりました。キンシャサで、父が亡くなった知らせを、日本からのテレックスで受け取りましても、暑さのせいか、感情も干上がる感じで、特に涙は出ませんでしたが、それを知人のザイール人達に話すと彼らは大変悲しみ、私の肩を叩き、手を握って、励ましてくれました。

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〈横浜の自宅で。いつもこんな笑顔なのです。〉




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