こういう異国の地で柔道をするのが私の夢の一つでしたので、少し落ち着くと柔道場を探しました。町には大きな柔道クラブが一つあり、それはIBMのクラブでしたので訪ねてみました。社員以外にも解放されており、私も歓迎されましたが、アフリカ人はオフリミットで白人だけの世界でした。私もしばらくそこに通いましたが、そのうちに、せっかくアフリカに来たのだから、何とかアフリカ人と柔道をやりたいものだと考えましたので、まず事務所にいる屈強なアフリカ人のスタッフに話をもちかけて、その友達を集め、最初は空き地の草の上で相撲をするように柔道の手ほどきをしました。そのうち見物人が多く集まり、柔道をしたいというアフリカ人もふえましたので、何とか自分たちで柔道場を持ちたいと思うようになりました。道場に使える民家か空き地がないかと、あちこち相談していると、キンタンボという地区の区役所から青空市場に使っている区域の隅の土地なら無料で使ってもいいとの話があり、そこに道場を作ることになりました。土地をかりても、道場の建物を建てるほどのお金はありませんでしたから、皆で、無料の勤労奉仕をして、杭や板を持ち寄り、それで道場の型の吹き抜けの建物の枠組みを作り、そこにマットを敷きました。マットも本物ではありませんから、大きな布の袋に枯れ枝やおがくずを詰めて、縫い合わせ畳みくらいの大きさにしたものを何枚も作りました。畳のようにすり足は出来ませんが、それでもクッションの役にはなります。その袋を40個くらい敷き詰めてそれで道場です。稽古の度にあちこちの袋の一部が破れるので、稽古が終わるとそれを縫って修理するのが稽古後の作業の一つになりました。メンバーは50~60人くらいいて、私はほとんど毎日、仕事を終えてから、晩の7時頃に来て、2時間ぐらい稽古をしたわけです。ザイール人は柔道に非常に興味を持ち、力もあり運動神経もいいですから、いろいろの技をすぐに覚えました。また、それ以上に、礼儀に関心を持つので驚きました。彼らは、正座、黙想、礼、など、かけ声をかけて、儀式のように静かに座り黙想をします。黙想は特に好きで、5分くらいでも全く動かずに正座しています。それは後に他のアフリカの国に行っても同じでした。日本語を覚えるのも早く、後にケニアで私が柔道を教えていた道場では、私が道場の彼方から歩いて道場に近づくと、リーダーが稽古を止めて、大声で、先生に向かって礼!といいます。
 キンシャサの道場では準備体操をする前に、全員で町のなかをランニングで走ることにしていましたが、音感がいいので、歌を歌いながら走ると皆がよくリズムに乗りました。柔道日を着ているものは少なく、ほとんどが上半身裸で、裸足のものもいます。こういう人たちが40~50人くらいで歌を歌いながらリズムに乗って町のなかを走るのはなかなか爽快でした。道場では、日本で私がやっていたのと同じように体操をして、腕立て伏せや、うさぎ跳びや、受け身などをやり、その後、乱取りをします。湿度が高く、温度も高いですから、かなりの運動量で、私にはかなりこたえましたが、当時は私も若く、また、彼らの熱意を感じで夜遅くまで、柔道場にいることが多かったです。すっかり夜になり、星空のもとで、ビールやバナナの酒を持ち込んで皆で車座になり、いろいろの話をしたものです。仕事がない、お金がないというものが多く、可哀想でしたが、日本でも柔道をしているものは金のないのが多いけど、一生懸命に柔道をしているとそのうちに神様が見ていて、きっといいことがあるなどと、いい加減なことを言って対応していました。
 いま、思うとやはりあのころに私のアフリカ化の基礎が出来たのだと思います。日曜日はいつも朝から道場に行きました。彼らも張り切っていつも来ました。彼らにとっても柔道が面白かったのだと思います。私が道場に来るとそれまで広場でサッカーをやって遊んでいた連中が走って道場に集まります。柔道着はまだたくさんはありませんから、ほとんどのものは裸で、あるものはジーパンで上は裸、あるものは上着だけで下は短パンだけと、あるものは帯だけ身につけて、稽古をするのですが、とくに奇異にも感じません。日曜日には特に見物人が多くて、道場の周りに鈴なりです。何重にも人垣が出来て。時々後ろから押されて列が道場に倒れ込むことがあります。やはり、日本人が珍しく、柔道も神秘的で面白かったのだと思います。ザイール人は力が強く、運動神経もいいですから、私が技を教えるとまもなく私がその技で投げられるのです。私は大学で随分寝技をやったものですから、彼らによく寝技も教えて、これは待ったなしだぞ、決してあきらめるな、それをコンジョウだと教えてかけ声をかけました。ザイール人は力はあるのにすぐにfatigue fatigueというのです。疲れた、疲れたというのです。私は、あんた達は力があるのにすぐに疲れた、疲れたでは情けない。これは柔道だけでなく、仕事も生活も、もっとコンジョウを持って頑張れ、そうしないと立派な人間になれないぞ、と気合いをいれました。そのうちに私の方が疲れて休もうとすると、逆に、コンジョウ!コンジョウ!と気合いをいれられました。柔道の稽古はその町内の名物のようになり、町内の人々ともお互いに親しみを持つようになると、誰も私のものは盗らないようになりました。普通はその地域は物騒だといって、日本人は勿論、外国人は近づかないところで、人々も、みな貧しいからなんでも盗るのですが、私が道場の隅に靴や時計や衣類を投げるようにおいても、不思議と誰も盗りませんでした。あんな連中でもなにかルールがあるのかなと思います。
 柔道の稽古が終わるともう夜の10時過ぎになりますが、それから時には、有志を募って、10人前後でナイトクラブ巡りをよくしました。ナイトクラブといっても、たいがいは星空の下で屋根もなく、ドラムやエレキギターの大音量をバックにザイール人がはち切れるような声で歌って踊っています。ザイールはアフリカでももっとも音楽がすぐれていて、かれらの音感とダンスのセンスはアフリカでも抜群といわれます。クラブでは歌手が大きな音量で夜空に向かって叫びあげます。それは日本などの加工された歌や音楽と違い、何か魂を揺さぶる叫びに聞こえました。そこで踊る人たちの輪はどんどんと大きくなり、踊りもリズム感にあふれ、私はいつも圧倒されました。


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〈 一目惚れしたというキリマンジャロを皮切りに、アフリカの山に登りまくっていた清水さんですが、もともと登山の趣味は無かったのだそうで、日本の山は昨年奥様と登った富士山が初めてだったといいます。目の前の興味に即夢中になる清水さんらしいエピソードです 〉



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