家族との生活では厳しいことも少なくなかったです。家内が急性の赤痢になり、下痢が止まらず、ベンが血で赤くなり水のように流れて止まりません。目に見えて衰弱していくのをみて、家内を車に積んで、ベルギー人の病院に行きましたが、ベルギー人以外は診察しないとのことで断わられ、あちこち町中を走って医者を捜しましたがだれも処置が出来ず、途方に暮れて、貧民窟に入ったところ、多くの患者があふれている診療所がありました。そこで診察をしている中国人の医師は親切に診てくれて、これはアメーバー性の急性赤痢で早く処置しないと危険だとのことですぐに注射をして、のみ薬を投与してくれました。その甲斐あって、数時間後には家内の状態は快方に向かい、数日後には元気になりました。あそこの、あんな汚い貧民窟で平然と働いている中国人の医師はまさに神様でした。ああいう立派な人が誰にも知られずに人々を助けているのだと思うと、身が引き締まりました。
 ザイールは私にははじめての外国ですから、なにもかも目あたらしく刺激的でした。考え方も、やり方も全く違うことばかりで、いかに、それまでの常識が通じないかを思い知りました。言葉も英語が通じないだけでなくフランス語が公用語で、それも、通じる人は限られていました。モブツ大統領は1974年頃初めて国賓として日本に行きましたが、日本から帰ったとき、キンシャサの空港で多くの観衆を前に、帰国の演説をしました。曰く、日本では人々は英語でもフランス語でもなく、全く別の言葉をしゃべっている。我々ももっと本来の自分たちの姿に戻ろうと呼びかけました。AUTHENTICということが、国民の合い言葉になり、フランス語よりリンガラ語を重視し、アフリカの従来の生活様式を大切にする運動が盛んになり、これが、また外国人やその文化を排斥する運動につながりました。日本人がフランス語でも英語でもなく、日本語を使っているということが思わぬ影響を与えました。

 キンシャサにいて、腰巻きや缶詰めを売りまくり、晩には柔道の仲間と一緒に過ごしそれなりに落ち着いて行きましたが、それでも、時には不景気風がきて、なかなか商品が売れなくなります。そんなときは見本を鞄に詰めて、私はザイールの奥地に転売に出かけました。飛行機で行っても仕事に合わせてキンシャサに帰るようなスケジュールの飛行機便はありませんから、飛行場に行っては次の飛行機便の予定が入ってきたか調べて、なにもないと、また町に帰って、ブラブラ過ごします。ホテルの食事も毎回同じメニュー出し、町の映画館も一軒だけで、毎日、同じ映画をしています。読む本もなくなるし、キンシャサとは全く連絡は取れないし、娯楽も全くない状態で何日も過ごすのは楽ではなりません。町のマーケットでオウムを手に入れ、ホテルの部屋において、オウムをかまったりして過ごしました。当時はザイール国内の飛行機便はDC3といって、プロペラ木で10人乗りくらいの飛行機が使われ、いかにも古くて不安なのですが、一度、私がブカブという奥地に行ったときにDC3がバナナ畠に不時着しました。かなりの衝撃でしたが、幸い燃えもせずに、非常口から主翼の上にでて、そこから下に飛び降りて、外に出ました。それから、道にそっていつまでも歩いて、歩くうちにだんだんと連れの乗客も減り、最後は一人で、小さな村に着き、農家に泊めてもらいました。家は小さく、明かりはなく、かなり狭いので、私は庭先にいすを並べてその上で休みました。近所のザイール人が遠巻きに私を見に来ていて、なかなか寝つけず星空を見たりしているうちに、夜が明けて来ました。翌朝早くから、延々と細い道を歩いて、夕方にようやくブカブの町に着きました。そこで飛行機便を待って数日過ごして、キンシャサに戻り、さぞかし家族が心配しているだろうと、家に帰りましたが、家族は私が仕事が忙しくて帰りが遅れていると思って、全く心配はしていなかったことがわかりました。でもこと飛行機の不時着の経験をして、ふと、こんなところに長くいると、いつかは死ぬことになるかもしれないと、急に、寂しく里心が起きて、日本に帰ることにしました。自分で帰る時期を決めて会社には今年中に引き揚げるからと伝えました。
 4年間のキンシャサ生活を終えて、キンシャサの空港から出発するときに、多数のザイール人の柔道の仲間が見送りに来ました。彼らに、私は今は日本に帰るが、そのうちにまたキンシャサに戻って来るといいましたら、外国人は皆がそういってキンシャサをあとにして、その後は決して戻って来ないといいました。それなら私は絶対にまた来てみせると心に決めたものです。

 日本に帰ると、わずか4年の間に父は亡くなり、町は騒々しく、キンシャサと比べて、何か、根本的に落ち着かない雰囲気を感じました。アフリカは遠くて未開とはいえ、何か人間的なぬくもりをいつも感じていましたが、日本では皆がガムシャラに働いて、競争している生活だなと感じました。働いて、多少のお金を貯めて、郊外のマイホームに住んで、それで果たして幸福になれるのだろうか。そういう生活が私にはいかにも無味乾燥で一度しかない人生がもったいなく費やされる気がしました。何とかもっと刺激的でやり甲斐のある環境に移らねばと思いました。
 再び三菱商事の大阪で繊維部で仕事を始めましたが、仕事も簡単なものが多く、要するに、輸出とか営業といっても具体的な作業は小学生程度の算数で、原価や利益や運賃を足したり引いたりするもので、これなら大学まで出ることもなかったと思いました。また、会社の中での給与や昇進などで、なぜ、皆がそんなに必死なのかわかりませんでした。一度アフリカで見た世界に比べて日本の生活や仕事がいかにも安っぽい、偽物の世界に思えて来ました。大勢のサラリーマンやOLが毎朝必死で地下鉄の満員電車に乗り込み、会社でひたすら会議や計算に没頭する、そういう生活が本当に自分にとってやり甲斐のあることだとは思えず、あのキンシャサのような、貧しく激しい生活環境でも、生の人間がたくましく生きる世界に魅力を感じました。
 大阪で鬱々として、通勤する日が続きましたが、生まれて間もない次男が、6ヶ月目でもクビが座らない、寝返りも打てないので、病院で診察してもらったところ、医師は子供を裸にして片足を持って吊るし、ぐったりとたれている状態を見て、これは重症の脳性麻痺だと診断しました。あっと驚きましたが、嘆いても始まらず、よし、日本では面倒だから、この子を連れてアフリカに戻ろうと考えました。たまたま、尼崎に訓練所を紹介され、そこに毎日通い、手足の麻痺を回復させる為に激しい訓練を繰り返しました。会社にはこういうわけで毎日、半分しか出勤出来ないと申し出て、許可をもらいました。訓練所では多くの障害児が通って訓練を受けていました。赤ん坊を裸にして、机の上で仰向きにおき、体を押さえ込んで押しつけ、手足を一つずつ解放すると、赤ん坊は苦しいから手足をけり出して抵抗しようと、運動するのです。その時の赤ん坊の叫びや、悲鳴は壮絶で、いかにも赤ん坊をいじめつけている様で、切ないものでした。ここに1年近くも毎日通い、アフリカ行きは少し先に延ばしました。毎日、欠かさず、訓練に来る私に、そのこ理学療法士の先生は、あなたは立派だ、いつも親が子供を訓練に連れてきても、親が長続きせず、子供は回復せずに結局施設に入る。いったん、子供が施設に入ると親は、自分の目の届かないところに子供がいるから、もう、真剣に子供のことを考えない。いくら、施設を充実させても、子供を本当に救えるのは親の愛情だけだといいました。結局、1年半くらいの訓練ののち、ようやく子供の手足の機能が回復してきて、訓練所には週に2回程度いけばいいことになりました。



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〈笑顔があふれるすばらしいご家族なのです。〉




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 走る 新着ブログの『実写版 汚主婦返上』こういうブログの活用法もあるのだと感心。今後が楽しみです。自分の家が片付いていくような爽快感を味わえます。でも現実のわが家は・・・。サア、掃除しよっと!