ダレサラームのわが柔道クラブは、ダレサラームの名物になり、ダレサラームの港祭りなどがあるといつも港での仮設の道場で段取りや試合をしました。三菱の会社に無理を言って、30人くらい乗れるバスを買い、いつもそこに柔道メンバーと畳を積んで、あちこちの会場に移動したものです。ある時、一度ケニアに行って柔道の試合をやりたいということになり、私もケニアではいくつかの柔道場があり、日本からの数人の海外青年協力隊の指導者がいることも知っていましたのでいい機会だから、何とか遠征しようと決めました。皆が貧乏ですから飛行機で行く資金がなく、陸路を行くにも、当時は前の東アフリカ3国の協力体制が崩れて、国境はお互いに閉鎖していました。それで人も車も国境を通れないのですが、タンザニアの内務省に事情を説明し特別通行許可をもらいました。長い陸路をバスで30人くらいで深夜もノンストップで走り、途中では暗闇に多数のキリンの群が道路を横切ったり、象の群れが出てきて車が動けなくなったりしました。ダレサラームからナイロビまではざっと1、500km位ありますから、どこか途中で一泊するのが普通です。でも30人全員が貧しく、また私もとても30人のホテル代を払うほどはお金がありません。ですから、途中で何回か休憩はしても、決して泊まらず、食事もバナナやパパイヤですませ、ナイロビには翌日につきました。
 ダレサラームの柔道クラブのメンバーは全員が生まれてから海外は勿論、隣のケニアでも初めてです。ないないづくしのダレサラームと違い、ナイロビの町はどの店にもモノがあふれていました。それで私は全員に言いました。一つは、モノを絶対に盗らないこと。どんな小さなモノでも盗まないこと。宿はYMCAの大部屋に全員で泊まりました。ナイロビの日本人から差し入れが来ましたが、いつも古着や余り物で、もう少しいいものをくれたらいいのにと恨めしく思いました。タンザニアから来たというとそれだけで哀れに思われたのです。いくつかの柔道場を訪ねて、合同稽古をし、最後にナイロビの郊外で、刑務所の管理者を養成する学校の柔道場で共同でナイロビの柔道クラブの混成チームと親睦試合をすることになりました。協力隊の専門家が教えていますから、なかなか、技が多彩で、立ち技ではケニアの方が強いと見られました。ところが試合になると、タンザニアは寝技に強いため、
もつれ込んでは押さえ込んだり、絞め技で相手が気を失うことまであり。タンザニアが圧勝しました。ケニアの選手は、あんな、自分たちが知らない技を使うのは卑怯だと騒ぎ、もめたのですが、ケニアの選手が寝技をやっていないのが悪いので、タンザニアの勝ちとなりました。
 そこを去るときにケニアの代表が来て、今回は親睦試合ゆえこの試合の結果は絶対に公表はしたいでくれとのことでした。我がチームは全員がバスでナイロビの中心街に行き、皆がなにかを土産に買いたいと言うので、あるところでバスを止め、全員に一つだけ欲しいモノを買ってあげるから、これから1時間の間に店を見て、欲しいモノを決めてこいと言って皆をおろしました。やがて1時間後に帰ってきて欲しがるモノは運動靴でした。皆が運動靴を欲しがるのは不思議でしたが、誰にとってもナイロビのいい靴が欲しかったのでしょう。みなが運動靴を買いました。ダレサラームに帰ると、柔道で遠征グループがケニアに勝ったという噂が広がり、ラジオが放送し、新聞にものりました。ケニアでは公表しないとのことでしたが、政府の文化スポーツ省がそんなことはかまわないと、大きく新聞に載せました。
 当時のタンザニアは大変貧しく、靴を履いていない子供が多かったです。衣類も粗末でぼろをまとっている姿です。日本からの古着を送ってもらってはよく皆に配りました。日本からの古着は女性の服が多いですが、それを仕立てなおして、男性が着ていました。私たち外国人も、パンやお米、砂糖のような基本的なモノも買えないことがよくありました。
 当時、タンザニアの建設省から三菱商事が大量の建設機械やトラックの注文を受けました。それもダレサラームを200キロ位南下した、ジャングルの中に届けるのが条件でしたから、軍隊から特殊な運搬船をかりて、インド洋を南下して、苦労して陸揚げし、ブルドーザーやホイールローダーを先頭に道のないところを切り開きながら終日かけて目的地に進み、建設省のキャンプに機械を届けました。その後、ダレサラームで契約完了の条件として、建設省の本省から、確かに機械を受け取ったとの確認の書類をもらわないといけないので、役所に行くと、係の役人の秘書の女性が、なかなか手紙をタイプしてくれないのです。大して忙しそうでもないのに、行くたびに、忙しいから明日きてくれといわれたり、また不在のことが多く無駄に日が過ぎました。そこであるときに彼女にいったい何が忙しくて私の手紙が遅れているのだと問うと、あなたは知らないのか、今、町にはトウモロコシの粉がなくて、私の家族はウガリ(トウモロコシの粉でこれが主食)が食べられない。子供は毎日、空腹で泣いているし、赤ん坊はマラリヤで高熱を出しているし、とても仕事どころではない。あなたの手紙のタイプはしばらく待って欲しいとのとこです。そこで私は早速、翌朝にトウモロコシの粉とミルクを持って、彼女の事務所に行き、それを渡して、手紙を作ってもらいました。それは賄賂でも、付け届けでもなく、やはり人間のつきあいで、お互いの友情の証なのですね。そういった信頼関係がいったんできてしまうと、今度は頼まなくても、あちらから助けに来てくれます。私はいままでどれだけアフリカ人に助けられたかしりません。仲間を助けるとなると、自分の身の危険を顧みない勇気を発揮します。
 話は後日私がナイロビに住んでいる時のことですが、私のナイロビの家には、タンザニア時代から私を慕ってついてきた柔道の弟子が離れに何人か住んでいます。彼らはダレサラームではなかなか仕事が見つからず、私についてナイロビで暮らし、柔道をしたり、事務所の手伝いをしています。ダレサラームでは貧しく、学校もいけなかったので、私がナイロビで学校に通わせて英語などの勉強をさせていました。ある時私が寝ていると、どうも屋根の上あたりで人の歩くようなミシミシという音がします。はてなと思い、すぐにこれは泥棒か強盗だなと思いました。それですぐに非常ベルを押しましたがどうやら電線が切れているらしく鳴りません。そこで思い切って窓を開け、大声でタンザニアの連中の寝ている離れの方に叫びました。そこまで40メートル位もありますので相当に叫ばないと届きません。おーい、ドロボーだと叫ぶと、それと同時にパーン、パーンと銃の音が近くでします。これはピストルを持った強盗だとわかりましたが、部屋に入って来るまでは、まだ鉄柵の窓や扉がありますからもう少し時間がかかります。そこで一番奥の部屋に入って、窓からこっそりと庭をみるとうっすらとした明かりのもとで数人の賊が走りまわっていて、その向こうからタンザニアの連中が何人か、走りながら飛び出して来たのです。それで、賊はまたパーンと銃を発しましたが、皆が追っかけあいになり、そのうち賊が逃げてしまいました。しばらく様子をみてから、外に出てタンザニアの連中をみると皆、パンツ一枚で裸足で飛び出して、ピストルにもひるまず賊を退治してくれたのでした。そりゃあ、もう、20年も私が育ててきた子供達ですからうれしかったです。彼らは普段は私をfather、fatherと呼びますが、その時はおやじの一大事と思ったのでしょうね。 柔道クラブのメンバーは十代の少年が多いですが皆が普段はトウモロコシの粉でつくった主食とあとはバナナ、マンゴーなどの果物です。鶏や牛肉をあまり食べられないので、時々、うちでバーベキューををしました。1回のバーベキューで使う肉が40キロ位にもなります。柔道のメンバーは今日はバーベキューだとなると前日から何も食べずに来ます。1人で肉の1キロは簡単に食べます。ダレサラームではドロボー、強盗も時々来ました。私がロンドンに出張して家族だけが家にいたとき、昼間に銃を持った5人組の強盗が入り、家内も子供達も銃を向けられ、床に伏せている間に貴重品などをごっそりと盗られました。泥棒との攻防はアフリカの生活を通じ常にありますが、要するに、泥棒が欲しがるモノを持っていると泥棒が来るので、最後は盗られていいものしか持たないようにしました。まあ、お金とかモノがとられるのはしかたないと、さとるようになりました。


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〈池づくりに合わせてガーデンリフォームさせていただいた庭です。ここで、毎年夏にキリマンジャロ仲間が集まってガーデンパーティーが開かれます。主催者は逝ってしまいましたが、今年も先日行われました。今後もずっと続きそうです。〉



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