4. ナイロビ時代

 そして、日本で数年いてから、今度は1987年にケニアのナイロビに赴任しました。ナイロビはアフリカの玄関であり、アフリカの大陸では日本人がもっとも多く住んでいる町です。ここで私は私のアフリカに対する、関わりを決定したともいえる友人に出会いました。フィリップ・リーキー氏です。英国の著名な人類学者リーキー博士の子供です。ケニア生まれのいわゆるホワイトアフリカンです。ナイロビで12歳の時に父親に、お前は勉強したいか、したくないか。したいならロンドンの寄宿舎の学校に行きなさい。嫌いなら、もう、この家にはいないで、どこへでもいきなさいといわれて、勉強は嫌いだから、テントと身の回りのモノをまとめて、家をでたのが始まりで、広域にアフリカを放浪し、全くアフリカ人となっている人です。その後、私と初めて出会った時には白人ながらケニアの総選挙で圧倒的な票を集めて、当選し、外務大臣を努めていました。その後、私も同氏の選挙活動に協力し親しくそのやり方を見ましたが、ナイロビのスラム街で、数千人の観衆を前に車の上に立ちあがって声をからして、皆に、自分は何色かと問うと、また観衆が白だといいます。ではみなさんは何色だと問うとみなが黒だと応えます。さあ、神様がしたことに文句はあるかというと皆がないと応えます。それなら皮膚の色のことは忘れて、皆でケニアをよくするにはどうしたらいいか話をしようではないかと持ちかけると皆が大歓声で応えます。ケニアの選挙は激しく、反対党の対立候補者は、鉄砲でリーキーを撃ち殺そうと、自宅に夜討ちをかけて、家に鉄砲を打ち込みます。リーキーはよくベッドの下に入ってしのいだそうです。投票日には各地区に投票所が作られそこから集まった票が中央のセンターに運ばれますが、それは候補者が自分で運ばねばなりません。ところが対立候補から妨害が出て、投票箱を積んだ車がなかなか進めないため、いくつかの車に分けてあちこちに別れて敵をまいて、何とかセンターに運ぶのです。開票結果、彼が当選したとわかると支持者がナイロビの郊外のリーキーの家から彼を肩車して、30キロもある道を走ってセンターに運びました。アフリカの黒人の国でこれだけ黒人の支持を受ける白人は他にいないでしょう。彼はもともと都会が嫌いで、1人で町を遠く離れた山の中に自分で家を建て、1人で、すんでいます。私は彼と共によくケニアの大統領の自宅や官邸にいきました。そこで大統領といろいろの話をし、日本がいかに尊敬されているか知り、非常にうれしかったです。モイ大統領は非常に率直な好々爺で、自分はいつも日本人を尊敬している、日本はいい国だし、日本人はよく働くし正直だ。アメリカは駄目だ、アメリカ人は個人であうといいのに国になるとどうして悪くなるのかといっていました。今までケニアは西ばかり見てきたがこれからはもっと東を見て進むのだといいます。当時は日本とアメリカの貿易摩擦の通商交渉が激しく行われていましたが、大統領は日本が頑張ってくれないとアメリカが勝手なことを世界に押しつけるからね、日本は有色人種の代表だ、頑張ってもらいたいといいました。

 ケニアは日本から毎年多額の援助を受けています。当時は年間200億円から300億円もの規模でいろいろのプロジェクトが展開しました。私も商社ですから、その仕事に参加することに必死で、ある時大統領に、こういうプロジェクトがあるので是非、三菱も参加したいものだと話したとき、大統領が、清水ね、ケニアの最大の問題は人々に仕事の口がないこと、働き口がなく失業者がたくさんいることである。なんとか三菱の力で人々に働き口が出来るようなことをしてくれないか。援助のお金をいくらもらって立派な橋や道路を作っても、失業者はふえるばかりで、そういう人々が政府を非難する、自分ももっtもだとおもう。人々に仕事があるようになれば、援助の案件など、本当はどうでもいいのだといいました。やはり為政者はそういう風に考えているのだなと思いました。大統領は日本の技術、工業を是非ケニアに持ち込んで欲しいと思っていました。でも、そういうことをいくら日本に投げかけても、アフリカに来ようという会社はありません。日本の政府からの援助のお金はいろいろのプロジェクトにそれなりに有効に使われていますが、本当は日本の民間企業が進出して、地場の経済に組み込まれるような仕事を始めることが必要でしょう。ただ、そうはいっても、やはり、アフリカまで来ると商売のやり方も日本とは大違いですから、容易ではありません。大統領と時々あって話を聞いていると、やはり援助の仕事ではケニアはあまりよくならない、もっと民間ベースの取引が大きくなることが重要だと考えました。
 そうしているときにナイロビの南西の50キロくらい郊外にケニアの政府公社でコンビーフ工場があり、それが長期間にわたり操業停止状態なのを知り、私は三菱商事に対し働きかけました。援助の仕事でなくやはり民間で独自にこういう分野で協力をすべきだと説明し、会社も腰を上げて、調査をしました。コンビーフ工場は植民地時代に英国が、英国の軍に対する食料供給の一環として設立し、その後ケニア政府に譲られてから当分は経営はされましたが、経理の問題などから破綻し、操業は停止したままでした。当時三菱商事は英国の一大食料品のチェーンストアを買収していましたのでそこと交渉し、このコンビーフが出来れば毎月一定量を買い取るとの協力を取り付け、ケニア政府には、機械の整備、操業再開の準備に必要な資金は三菱商事で融資し、その返済をコンビーフでしてもらうという条件を提示し、契約が成立しました。この工場の再開により、マサイ族は今でも旱魃が来るたびに餓死させたり、捨て値で売ったりしていた家畜を適正な値段で工場に売ることが出来るようになりました。また、工場も再開して500人以上の人を雇い入れましたから、工場の周りの村は活気が出てきました。そこに至るまで大統領にも度々話し、政治家の横やりや、中傷、欧米の企業からの横やりなど、種々の妨害もありましたが、無事にそれらを乗り切り工場が再開したわけです。ほとんど私の執念でした。大統領はこの工場が新たに雇用を生み出して村に活気を与えたことを大変に喜び、Mr.Shimizuこういうことをしてくれるなら、援助の案件など、どうでもいい、お前が欲しい案件をいってくれ、担当の大臣に指示して、お前さんの話を聞くように言っておくからといいました。
 また、ある時はこんなこともありました。当時、ケニアでは鉄道の事故が多く、そのたびに多数の死傷者が出ていました。レールや汽車が古いもので、植民地時代からのものも少なくありません。それがmaintenanceもあまりされずに長年つかわれて来ていますから、脱線、転覆は始終起きていました。ある時私はケニア鉄道の本社の工場に行きますと、そこにはたくさんの工作機械がおかれ、機関車、車両の部品を作ったり修理したりするように配置されています。しかしながら、ケニア人の技師長に聞きますと、こういう最新式の機械を援助でもらっても、これを使える技師がケニアにはいないので、使われずにあるだけだとのことです。そして、こういう機械を使い、汽車の修理、整備が自前で出来れば、鉄道事故は少なくなるのにとのことです。これは三菱商事としても協力したいものだと考えて、本社に持ちかけますが、本社はすぐに何かが売れる話でないと乗ってきません。そういう話は日本の政府援助の方にまかせたらとのことでした。私は、そういうことでなく民間でもっと直接的に援助の手をさしのべられないかと思い、当時の三菱重工業の金森社長に事情を説明しました。金森社長は経団連のアフリカ委員会の委員長でその数年前に日本政府派遣アフリカ経済使節団の団長をされましたし、また、金属加工の権威でもありました。私の話を聞かれて、金森社長は、また、君に引きずり込まれると困るけどなあとおっしゃりながら、どの国でも鍛冶と冶金の技術力が金属蚕業発展の重要な基礎であり、特に国有鉄道の技術力はその国の金属産業に広く披瀝するものである。ケニア鉄道が本気で日本に協力を求めるのであれば、三菱重工としても採算を度外視してでも協力してもよいとの言葉を頂きました。その場合、まず、三菱重工から専門家を派遣し、ケニア鉄道の現状をよく調査し、その上でケニア鉄道の技師を20~30人の単位で三菱重工の工場に受け入れ研修させてもよいとのことでした。よし、やったと飛び上がった私はナイロビに帰り、早速、運輸大臣、鉄道公社総裁と話し、具体的な準備に入ろうとしました。ところがどうも話がすんなりと進みません。何かとケニア政府側の準備が整わず、やる気がないかの雰囲気を感じましたので、現場の技師長に照会しました。こんないい機会なのにどうして政府が素早く対応しないのかと問いつめる私に彼が答えるには、ケニア鉄道は独立以来長らく英国の世話になっており、何でも英国からの援助資金で英国から買い付けてきた。鉄道機関車、車両、いろいろな部品だけでなく、鉄道の枕木の、杭までも全部英国からのものである。そして、英国から、英国鉄道を退職した技師連中も30人位がケニア鉄道に来て、ケニア鉄道の顧問という肩書きで仕事はしなくても、高い給料を取っている。英国鉄道の技師の定年後の重要な再就職先になっているのです。その英国人の顧問達が、ここで日本勢に入られたら自分たちの職場がなくなると騒ぎだし英国の大使館に日本や三菱の悪口を言って政治的にケニア政府に圧力をかけて日本が協力しないように動いているとのことでした。また三菱重工が協力してケニア鉄道の修理工場の修理能力が高まると、汽車が故障しても英国から新たな汽車を買わずにケニア鉄道が自分の修理工場でなおしてしまうので英国が売りつけることが出来なくなり困るというわけです。それからいろいろのやりとりはありましたが、会社は本件は静観するとの方針となりました。

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 走る 今日は“ヒロシマ”の日です。あんなバカなことを二度と起こさないために祈りましょう。そして同時にレバノンのこと、アメリカのこと、北朝鮮のこと、日本のことを考えて、それを家族でじっくりと話し合ってみましょうよ。一年に一日ぐらいそんな日があってもいいと思います。今日一日グレースランドのBGMは『IMAGINE』です。