杉村さんちの照明器具です。
タカショーのLEDフラットライトのブルーを2灯と、
日本船舶のマリンライトを4灯使用しました。
夜はこうなります。
これで囲炉裏に火が入ったら、どうです、いい感じでしょう!
夜景は後日タップリと。
昨日は気合いが入るとまず掃除と書きました。いらないものを捨てて掃除して、そうすると気の流れがよくなって運気がアップすると。
その効果はすぐに出るので(ほんとですよ)楽しくなって「専業主夫も悪くないなあ」なんていう気持になるんですけど、仕事はそれ以上に楽しいのでその微かなイメージはグッと押さえて、ある程度のところで頭を切り替えて仕事仕事!
そうこうしていたら、ラジオに渡辺謙が出ていてこんなことを言っていました(謙とは同学年で近所の幼馴染みです)。
「アメリカにいて長期ロケに入ると単身赴任みたいなもんですから、炊事洗濯とか家事はひとりでこなすんですよ。専業主夫兼俳優です」
な~んだ、世界の渡辺謙も家事やってんだと思ったら、なんだかうれしくなって、同時にいかにも謙らしいなあと思いました。
1960年生まれってのはそうなんですよね。ちょっと上の人たちが「中ピ連」とか何とかヘルメットかぶってワイワイやってたことと(拓郎が吊るし上げられたりしてましたよね)、それから、大きかったのはジョン・レノンの「主夫(ハウス・ハズバンド)宣言」。それを、最も多感な時期に「かっこいいなあ」と思ってしまったんです。完全にその価値観が刷り込まれてしまいました。だから、男女平等なんていう肩を怒らせた思想ではなくて、ごく自然に「男も家事やったほうが楽しい」というふうになったのではないかと分析しているんですけど。
今50才前後のご主人方を観察してみてください。きっとかなりの確立でそういう主夫タイプですよ。
ぼくも謙も、炊事洗濯が苦にならない、レノン・チルドレンなのです。
そういえば、「ユダヤ人大富豪の教え」の本田健さんも同じようなこと言ってたなあ。あの方もレノン・チルドレンですよきっと。
渡辺謙は主夫兼俳優。これを読んでくださっているご主人方、主夫兼◯◯という自分をイメージしてみてください。家族もよろこぶし、なかなか楽しい世界ですよ。
タカショーのLEDフラットライトのブルーを2灯と、
日本船舶のマリンライトを4灯使用しました。
夜はこうなります。
これで囲炉裏に火が入ったら、どうです、いい感じでしょう!
夜景は後日タップリと。
昨日は気合いが入るとまず掃除と書きました。いらないものを捨てて掃除して、そうすると気の流れがよくなって運気がアップすると。
その効果はすぐに出るので(ほんとですよ)楽しくなって「専業主夫も悪くないなあ」なんていう気持になるんですけど、仕事はそれ以上に楽しいのでその微かなイメージはグッと押さえて、ある程度のところで頭を切り替えて仕事仕事!
そうこうしていたら、ラジオに渡辺謙が出ていてこんなことを言っていました(謙とは同学年で近所の幼馴染みです)。
「アメリカにいて長期ロケに入ると単身赴任みたいなもんですから、炊事洗濯とか家事はひとりでこなすんですよ。専業主夫兼俳優です」
な~んだ、世界の渡辺謙も家事やってんだと思ったら、なんだかうれしくなって、同時にいかにも謙らしいなあと思いました。
1960年生まれってのはそうなんですよね。ちょっと上の人たちが「中ピ連」とか何とかヘルメットかぶってワイワイやってたことと(拓郎が吊るし上げられたりしてましたよね)、それから、大きかったのはジョン・レノンの「主夫(ハウス・ハズバンド)宣言」。それを、最も多感な時期に「かっこいいなあ」と思ってしまったんです。完全にその価値観が刷り込まれてしまいました。だから、男女平等なんていう肩を怒らせた思想ではなくて、ごく自然に「男も家事やったほうが楽しい」というふうになったのではないかと分析しているんですけど。
今50才前後のご主人方を観察してみてください。きっとかなりの確立でそういう主夫タイプですよ。
ぼくも謙も、炊事洗濯が苦にならない、レノン・チルドレンなのです。
そういえば、「ユダヤ人大富豪の教え」の本田健さんも同じようなこと言ってたなあ。あの方もレノン・チルドレンですよきっと。
渡辺謙は主夫兼俳優。これを読んでくださっているご主人方、主夫兼◯◯という自分をイメージしてみてください。家族もよろこぶし、なかなか楽しい世界ですよ。
謙は山崎豊子さんの原作を読んで「自分が主人公の恩地役で映画に出たい!」と思って、すぐに「ホワイトアウト」の監督である若松節朗さんに手紙を書いたのだそうです。彼は思い立ったらすぐ手紙、すぐ投書なんですね。まっすぐと言うか純朴と言うか、その性格は昔とほんの1ミリも変わっていません。
映画「ホワイトアウト」の舞台は奥只見ダム。ぼくらが育った小出町(現魚沼市)はそのダム建設の基地として栄えました。日本中から人が集まって、湧いたような活気の中で育ったんですね。子供の数もどんどん増えて、学校のクラス数も増えて、小3のときには教員免許を持っていた謙のお母さんが、臨時教員でぼくのクラスの担任だったりしたんですよ。
その子供時代の生活の基盤だった奥只見ダムで撮影した映画の監督に、謙は惚れ込んで、そして思いを込めた手紙を送った。若松監督と渡辺謙が出会う運命はそんな昔、ダムの建設基地(広大な原っぱでした)で遊び回っていたころから始まっていたのかもしれないなあと思っています。
ひらめきや思いが消えないうちに言葉にすること、その言葉をきちっと誰かに伝えること、大事だなあと思いますよ。謙の一通の手紙から、それに時代が呼応するかのように動いて、そして「JALの暗部を暴くような映画がつくれるはずがない」という常識が覆って、あの映画ができあがったわけですからね。
「沈まぬ太陽」見に行ってください。記者会見で感極まって大泣きしてましたけど、それを見て「またひとつ、いい仕事をしたなあ謙」と声をかけたい気持でした。渡辺謙こそが沈まぬ太陽なんですよね。