日だまりのテラスでお茶をいただきながら奥様と話していたら、床面に使った石の話になりました。

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打ち合わせ段階で奥様が入念にイメージした部分です。石にしようかタイルにしようか迷って、実際に施工したお庭を何カ所か観に行ったり、現地でサンプルを並べたりして、これ、トルコ産の方形大理石に決まりました。

「雨の日や朝露に濡れると、全然違う表情になって素敵なのよ」とうれしそうに話す奥様の言葉に、では、と、水を撒いてみました。

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いい感じです。
 
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ガーデニングエリアの乱形の石にも散水してみました。

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これもいい感じです。ブラジル産のピンクとホワイトを混合で使いました。

水を打つととたんにイキイキとする石の不思議。
最近では景石を楽しむ庭は少なくなりましたが、このように敷いたり積んだりする素材として使うことで、庭に趣が出ますね。いいもんです。

北原照久さんが講演の旅先で見つけて買ってきてくださった「庭をつくる人」という本、大正から昭和初期の文人、室生犀星の随筆集です。その中に、「石について」というこんな文章があります。


「石について」

わたくしは世に石ほど憂鬱なものはないと思うている。ああいう寂しいものを何故人間は愛で慕うのであるか。

石が寂しい姿と色とを持っているから人間は好きになれるのだが、反対のものであったら誰も石を好きにならないであろう。その底を掻きさぐってみたら石というのは飽かないものであるからである。さびは深く心は静かである。
人間はその成長の途中で石を最初におもちゃにするようであるが、また最後におもちゃにするのも石のようである。

石は絶えず濡れざるべからずというのは、春早いころがその鋭さを余計に感じる時であるからであろう。水の溜まる石、溜まるほどもない微かな中くぼみのある石、そして打ち水でぬれた石は野卑でなまなましく、朝の旭のとどかぬ間の石の面の落ち着きの深さは譬えようもなく奥ゆかしい。或いは夜来の雨まじりでぬれたのが、空明りを慕うているさまは恋のように仄かなものである。



庭の景石、飛び石に心奪われる人の、その人の、その時の気持のありよう。
テレビやパソコンやエアコンが、まだ暮しの中に存在しなかった頃には、人は道ばたの小石と普通に会話ができていたんですよね。
あなたは、ぼくは、石と交信しながら暮らせているでしょうか???

奥様との会話から「石」に引っかかってつらつらと書いていたら、小さいころの、道ばたの石ころを蹴っ飛ばしたくなる衝動を、微かに思い出しました。
こういうこともまた庭が持つ魅力なのです。