昨日の日曜日、ホームセンターは開店と同時に満車状態、芝生や花や野菜苗を買う人でごった返していました。
例年この時期は混み合いますが、昨日の混み方はそれ以上で、まるで震災でちじこまっていたみなさんの気持が桜の花をきっかけに爆発したような感じを受けました。庭の図面や写真を持って庭の相談に来られるご家族も多くて、ぼくは終日、庭のこと、植物のことを話し続けていました。
久しぶりに活気に満ちた園芸コーナー、庭を熱く語り続けたいち日、地震直後にはとてもイメージできなかった、うれしいいち日でした。


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今朝は一転、平日の静かな売り場に戻って、補充された草花が春の風にそよいでいます。静寂、昨日の喧噪が夢だったような不思議な気持です。

昨日、何人かの方に同じ話をしました。それは「花を植えましょう!」というお話しです。今日はそれを書きます。


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人は花苗を植えるとき、その花が咲き乱れる数ヶ月先の庭をイメージし、野菜苗なら、食べきれないほどのおいしい野菜の収穫をイメージします。「すばらしい未来をイメージする」、これがいいんです。

草花を植えるということは、その成長をイメージするということ。


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草花の成長に必要なのは、水、光、栄養、空気です。これって人間も同じですよね。安全な水、光、栄養、空気が生存のための絶対条件です。

生存のために同じ条件が必要な草花と人間、どちらも自然の一部の一粒の生命だということです。
では草花と人間の違いは何でしょう。人間にできて草花にできないことってなんだと思います?それは、未来をコントロールすることです。コントロールするとはイメージするということ。未来を思い描くことは草花にはできないし、他の生物にもできない(自然に従って生きているのでそうする必要がありません)、人間にしかできないことなのです。


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これを人間が優位に居るというふうに解釈するのは大間違い。
未来をイメージしてコントロールするということを、人間はただ、自然に委託されただけ

なのです。任務です。
その任務を怠ったり誤ったりしたときには、自然から容赦のない罰が与えられます。みんな知ってますよね、自然が下す罰の恐ろしさ。豪雪、水害、火山の噴火、地震・・・。
天災の裏には、突き詰めて考えていくと、必ずそこにぼくたち人間の思い上がりがあります。必要以上に便利さを追求し、心の豊かさをなくしてまで快楽や快適さを手に入れようとしてきたことが、温暖化や砂漠化を引き起こしているのですから。天災は、自然の声を聞かずに突っ走って築き上げてしまった人間社会への罰なのです。
極論かもしれませんし、乱暴な言い方かもしれませんが、魚沼という自然豊かな地に生まれ育って、自然にかかわる庭の仕事をしてきたぼくには、そういう解釈が、どうしても浮かんできます。自戒を含んでそのように思います。


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自然の意志に従って未来をコントロールするのは、人間に課せられた任務。


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未来をコントロールするのは、政治家や専門家が打ち出す指針ではなく社会全体のイマジネーションです。人々が総意として思い描く未来像へと未来はコントロールされていきます。
スマートフォンを手にするとつくづく思うことです。かつて手塚治虫が示した未来都市、未来的な生活が今現実のものになったんだなあと。
ぼくらがどんな未来をイメージするかが未来を決定づけます。だから、ぼくらは明るい未来を思い描きましょう。思いっきり幸せな未来を。


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花を植えながら、半年先の幸せな風景を思い描くことにとどまらず、子どもたちが社会の主軸になる日のために、さらにその先、自分が命を終えた後、空気や水や食物が安全で、人々が幸福感に満たされて暮らしているために。孫やひ孫が笑顔でイキイキと暮らせる環境であり社会であるために。未来をイメージしましょう。
今ぼくらが思い描く幸せな未来には、少なくても原子力発電所の存在はありませんよね。

すっかり春ですから、草花を植えることから始めましょう。まずはそこから。それが咲いたときの家族の笑顔を思い浮かべながら。