昨日の記事を読んだ方が「レノンの庭」に立ち寄ってくださいました。これから「地球がもし100㎝の球だったら」と「センス・オブ・ワンダー」をららぽーとの書店に探しにいくのだそうです。まだ小さいお嬢ちゃんの手を引いた、笑顔が服着て歩いているみたいな若いお母さんでした。

こういうふうに反応してくれる人がいるってうれしいんだなあ。見ず知らずの人がブログに反応して会いにきてくれるって、なんだか奇跡の出会いみたいな不思議な気持ちになりました。
よくあるんです、ぼくが知らないブログの常連さんが店にきてくれて、先方は読み込んでくれていますので、まるで旧知の仲のようにいきなり話が弾むことが。
妻もあるそうです。「カオリさん、ワンちゃんかわいいですねえ!」とか、知らない人にいきなり話しかけられるそうです。妻の誕生日のネタを書いた日に、初めて会った人から「お誕生日おめでとうございます」と言われてうれしかった、ということもあったそうです。
ブログを介してうれしさ楽しさがつながる、おもしろいもんですよね。

今朝来てくださった若いお母さん、わざわざ立ち寄って声をかけてくれたことがうれしく、それ以上に、さっそく本屋さんに向かうという、その軽やかさがいいなあって思いました。

感じたらすぐに動き出す。感じたら動くことから感動が生まれます。

ヒョイヒョイとすぐに動く人と、なかなか動き出さない人がいます。自分のことを考えると、基本ヒョイヒョイタイプです。
例えばラジオで「分子生物学の福岡信一教授の新刊『動的平衡2』が発売になりました」なんて聞いちゃうと、もうその足で書店に直行です。もしその店に置いていなかったら次の店、そこにもなかったらまた次の店と探しまわります。
(つい最近インターネットで買えばいいんだということに気がつきまして、何と画期的な世の中になったんだと驚きました。と言っても、買い方がわからなくて、妻にお願いしていますが。)

そうやってコロコロと転がるように動いている時のぼくは活性化しています。そしてその状態のあとに、必ずすばらしい出会いや感動的な出来事がやってくるということを経験的に知っています。
だから、合理的に考えれば後日移動途中にある本屋に立ち寄るとか、インターネットで購入するとかすればいいとわかっていても、とにかくすぐに買いに走るという、ご理性を欠く「即行動」がクセになっています。

よく考えると合理的じゃなくても、とにかく即行動することで自分が活性化します。

そういうことでのぼくの価値観は明確で、合理性を追求することにはあまり意欲がわきません。それよりも、傍目には「バッカじゃないの」と思われるようなことに夢中になって、ネチネチと楽しみ尽くすことの方を選びます。
このブログもそうですし、本業である庭のこともまた、合理的な思考では成立しないものです。
庭だけじゃなく、家のことも。例えば妻の機嫌を維持するためには、合理性は絶対禁物なのです。
ご主人方、このことを忘れると痛い目に会いますよ。

合理性は、会社で徹底的に追求すればいい。
でも、庭も家庭も、合理主義では成立しません。


ご主人、あなたが合理的に、論理的に話すとき、奥さんの顔から微笑みが消えるという法則に気付いてくださいね。

会社以外では、何かに興味を感じたら即行動。ワクワクしながら軽やかに動き回る暮らし、それがいいのです。





では、槌矢さんちの庭。
今日はあらためて、庭の全貌をご覧いただきます。



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着工前とは全く違う世界が生まれました。
庭がこのように整うと暮らしにパワーを与えてくれます。そして家族を支えてくれます。
きっと槌矢さんご夫婦は、これから長くそのことを実感してくださるんじゃないかなあ。この庭はそういう庭に仕上がりました。

いい庭って、暮らしにパワーを生み出し、家族を支えてくれる庭。

ぼくがよく感じるこのことを、今日は書きたいと思います。どうすればそういう庭に仕上がるのかということです。


事業の経営収支には損益分岐点というのがあります。最初は赤字だった売り上げが、徐々に上向いていって、あるところまでいくとそこから収支が黒字に転じる、その分岐点のことです。
そこに行くまでがえらく大変で、それを越えたところから、今度は次の手を打つなどの攻めの経営ができるようになります。損益分岐点にたどり着かずにつぶれてしまう店や会社も多く、そこまでたどり着くことが最初のハードルなのです。
「損益分岐点」、原子力発電でいうと「臨界点」、船井幸雄先生的にいえば「百匹目のサル」、世の中にはそういう、そこまで行けば世界が変わるという地点、レベルがあって、それは庭の仕立てにも存在しているのです。

庭の仕立ては、あるレベルまでやり切ることが重要。
そこまでたどり着かずにやめてしまうと、その後の庭は苦難の場所になる可能性があります。



理想のカタチはわかっていても、なぜかその途中でやめてしまうクセがついている人がいます。
それはコストの問題とか、何か具体的な理由があるわけではなく、クセなんです。そうとしか言いようがない。
楽しむことに恐怖心があるのかもしれません。よくわかりませんが、ここまでやったらすてき、楽しいとわかっていても、その手前でやめてしまう人。

ぼくは自分がそうなっていないかが気になることがあります。もし気付かないうちに自分がそうなっていたら・・・。

満足いくところまでキッチリとやり切ること。そこまでやらないと、意味が生まれません。

もしぼくが、わかっているけどやり切らない人になってしまったら、・・・恐ろしいんです。もしそうなったら、いろんなことがうまくいかなくなって、苦難の人生になることは確実ですから。
ぼくはわがままで、かつとても気が小さいので、そういう苦難は慎重に避けたいと思っていますから、だから時々、自分がそうなっていないかをチェックします。

理想型までやり切って意味が生まれた庭は家族を支えます。
理想型まで仕立て上げ命が吹き込まれた庭は、成長しながら家族を支え続けます。



昨日は夕方早めに帰って、庭の芝刈りをしました。さらに、ジューンベリーの枝を整えて、妻の指示に従って植木鉢の配置を変えました。
キッチリとやり切りました。バラが終わってからややトーンダウンしていた庭が、イキイキとしました。

「よしよし、これでだいじょうぶ。これでしばらくは、うちの庭はぼくらを支えてくれる」と、ホッとして、いつものように夜の庭を楽しみました。

庭でも何でも、
一歩手前でやめてしまうクセがつかないように注意して、満足いくところまで、意味が出るところまでやり切りましょう。

そういわれても・・・というあなたに、やり切るということを別の言い方にしてみますね。

庭でも何でも、遠慮しないで楽しみまくりましょう。十分に満足いくまで、徹底的に楽しみ尽くしましょう。

ね、これならやれますよね。


子曰く

これを知る者は、これを好むものに如かず。これを好む者は、これを楽しむものに如かず。

です。