地球側に立って考える、あるいは人類以外の生物になって考えると、そういうことになります。許されざる者、人類。
しかしぼくは、他の生物ではなくて、テロ犯の人類なわけです。
さあてと、えらいことをしでかしてしまった今、ぼくらはどうしたらいいと思いますか。
テロリストにはテロリストの言い分があります。言い分も無しに自らの命を賭してのテロなどやるはずがないですから。
生い立ちの問題、育った環境に問題があって、テロリストになってしまったということもあるでしょう。
でも今、その言い分を聞いたり、テロに至った原因を究明している場合ではありませんよね。今現在爆風の中にいて、次々と連鎖的に爆発が続いているのですから。
当たり前ですけど、火事の最中にするべきことは、出火原因の解明ではなく、避難、消火、救助です。
では、ぼくらは、具体的に何をしたらいいと思いますか。
節電しますか?自動車に乗るのをやめますか?地産地消で流通エネルギーを減らしますか?
環境ジャーナリストの枝廣淳子さんが、数字を使って二酸化炭素排出量についてわかりやすく解説しています。
枝廣さんはアル・ゴアの「不都合な真実」の翻訳者で、「地球のためにわたしができること」など、環境に関する本を書いている方です。
日本が世界と約束しているCO2削減目標は6%です。
では、地球の温暖化を止めるには世界でどれくらいの二酸化炭素の排出量を減らせばいいのかというと、こういう数字になります。
今世界で人類が排出している二酸化炭素の量は年間72億t。それに対して、森林や海、自然が吸収できる二酸化炭素の量は31億tです。31億tまでは地球が消してくれますけど、それ以上の排出は、環境を破壊してゆくということになります。
つまり60%減らさないと、今の環境を維持することもできないし、環境を改善してゆくためには70~80%の削減を実現しなければなりません。
6%減らそうと思ったときには、こまめに電気を消すとか、冷暖房の設定温度を変えるとか、そういう小さな積み重ねをみんなで頑張れば何とかなるんですよ。でも、60%ですからね。
ダイエットを考えても、6%体重を落とすことはできても、60%減らそうと思ったら根本的に違うやり方を考えなければなりません。
そんなの無理って思うでしょ。でも世界はその方向に向かっているんです。
イギリスは60%削減の法案を議会に提出していますし、この問題では遅れていると言われてきたアメリカでも、2050年までに70%減らすと、共和党、民主党の両方が打ち出しています。さらに、ノルウェーは、2050年までに二酸化炭素排出をゼロにすると言っています。
世界はそういうふうに、必要な方向へと動き始めています。
さて、私たちはどうしたらいいのでしょうか。とにかく、絶対的な現実は、36億tに削減するまで温暖化は進み続けるということです。
もう頭抱えちゃうでしょ。
環境問題のことを考え始めると、すぐにこの出口がない感じにぶち当たるんですよね。「じゃあどうすんの?」という。何をやっても微力すぎて、何を言っても、あっという間に「唇寒し秋の風」みたいな心境になってしまいます。
それでも、このままではダメなんだということだけはハッキリしていて、何とかしなければ、何としても何とかしなければと考え続けるうちに、それはいつのまにやら「羊が一匹、羊が二匹、・・・」と同じ、意味を持たない呪文の言葉みたいになって寝てしまう。朝起きるといつものようにテレビのワイドショーネタに意識を根こそぎ持っていかれて、環境のことなどきれいさっぱり消えた日常が始まる。
みんなそうだと思うんですね。ちゃんと考えて、しっかりと何とかしなければならないことなんだとわかっているのに、「じゃあどうすんの?」の前には手も足も出ないままで意識から外してしまうのです。
しかたがないことです。それでいいんです。いやよくないけど、でもそういうものなんです。突き詰めてもしかたがないことへの諦観も含めて、人は幸福感を味わえるのですから。
だいいちねえ、「どうやったら二酸化炭素排出量を70%削減できるのか」なんて大真面目に考えながら暮らしていたら、まず仕事が手につかなくなるし、何を食べても後ろめたさがあって美味しく感じられなくなるかもしれません。ついには社会人として破綻しかねませんからね。
でも大丈夫。人類には、こういうときのために、ぼくのようなねちっこい性格の者が存在しているのです。
科学者でも専門家でもないぼくにいい答えが導き出せるとも思っていませんけど、それでもネチネチ考え続けていると、「考えないよりも考えた方が良かった」くらいの答えや、答えまで行かなくても、進んだ方がよさそうな方向の目印くらいは発見できると思います。
岡ちゃん、サッカーの岡田武史さん。今は中国のチームで監督業に復帰されましたが、それまでの長い浪人中には、熱心に環境問題のことをやられていました。
岡田さんが、震災後の生き方をテーマにした学生に向けた講演で、ぼくらの前に立ちふさがる「じゃあどうすんの?」への立ち向かい方を語っていましたので、それを書き写します。
人間ってね、切羽詰まらないと動けないんですよ。
マルサスっていう人が、18世紀末に人口論っていう本を書いている。「今後人口が増えていって、食料が間に合わなくなって、やがて人類破滅の危機に達する」と、その頃に、もう予言しています。18世紀末ですよ。
でも最後にこういう文章が入っている。「人間っていうのは、切羽詰まったときにものすごい力を発揮する。その力に期待したい」と。
ものすごい洞察力です。
森信三という教育学者がよく言っています。「人っていうのは、出会うべき人に必ず出会う。一瞬たりと早からず、一瞬たりと遅からず。」でも、ぼけーっとしてたら、出会ってんのに気がつかんようって。
このふたつのことから、切羽詰まったことがきても、気がつかなかったらどうしようもない。ひょっとしたら、今回の震災はそういうことを投げかけているんじゃないかと、ぼくはずっとそういう気がしていました。
ここにみんなのアンケートで、「日本の社会は変わらなければならないと思った」というところが97%、「今の政治家や官僚では何も変わらないと思う」64%、「強いリーダーに期待する」64%と出ています。
そう、政治家や官僚に失望している人、多いでしょう。そして誰かいいリーダー出て来ないかなあって言っているでしょう。
じゃあリーダーって何か。サッカーでいう最強の組織は、リーダー、監督が全部をコントロールする組織じゃないんですよ実は。選手が自ら折り合いを成して動き出していく、選手が自分の責任で、リスクを背負って動き出す組織なんです。
監督にああやれこうやれっていわれて動くチームはある程度強くなります。国内では勝てます。でも世界に行ったら絶対に勝てない。
今回のなでしこの佐々木監督も、ずーっとそれで悩んでいた。「言われたことをやるだけじゃダメだ。選手が自ら動き出すようにしなければいけない」と。
ぼくもそれで悩んでいて、ようやく出来たチームです。
リーダー、リーダー。リーダーが出て来ないかな。リーダーが何とかしてくれないかな。これは自分の責任を放棄しているんですよ。自分が動き出さなきゃいけないんだよ。一人一人が、国民一人一人、皆さんが動き出す。「誰かが何とかしてくれる」じゃない。
人間の力は凄いです。被災地に3週間目に入りました。ボランティアセンターの長と気仙沼に行ったら、グッチャグチャだった。ところがセンター長がこう言った「片付いてます」。えっ、どこが片付いてるの?「震災直後より片付いてます。みんなちょっとずつ自分の家のところを片付けている。岡田さん、人間って蟻のように少しずつだけど、コツコツやっていっていつかは片付けるんですね」。
そうです、人間てのは一人一人の力は大したことない。しかし仲間と力を合わせて、そして続けることによって、いつか大きな力を成し得ます。
この社会、世界を変えていくのは、あなたたちです。
これは以前ラジオで聴いたものです。震災後の、まだ自分自身が揺れ続けているような時期でした。
ぼくはラジオから伝わってくる岡田武史という人の熱量の大きさに打たれつつ、講演のこの部分に光明を感じて、丹念にメモしておきました。
講演というものは、そのときには感動しても、内容のほとんどはすぐに忘れてしまうものです。
100人中99人は、話の骨子どころかタイトルすらも忘れて「いい講演だったなあ」ということだけを記憶して日常に戻ります。でしょ。本を読む、映画を観るのも似たようなところがありますよね。
ぼくは思うんです。1冊の本に、1本の映画に、たった1行の言葉によって人生が大きく変えられることがあるんだから、その出会いを見過ごしちゃいけないって。岡田さん(森信三)の「出会うべきと人に・・・」です。
だからぼくは、いいぞ!と感じるとそれを書き留めるし、本も映画も、いいとなったら何度も繰り返し読んだり観たりするのです。これぞネチネチ力。短所と長所は裏表、ぼくは自分のネチネチがけっこう好きなんですよねえ。
講演は、震災からの復興に向けた話でした。「地球カレンダー」を繰り返し読むうちにそのメモのことを思いだして引っぱり出してきました。
つながりました。
ネチネチしていたらつながって、ぼくはそこに答えらしきものを見つけることが出来ました。
リーダー待望論は捨てて、現体制失望論も捨てて、自ら考え、自らの意志で動く、そういう一人一人が集まって、力を合わせて、それをコツコツと継続していくこと。
愚痴言ってないで、自分で考えて自分でやれ!ってことです。そしてそういう仲間を見つけたら、一緒にやり続けること。そうやってやり続けているうちに、思いもよらない、画期的な解決方法が見えてくると信じて。
「サヨナラ愛しのプラネット/地球カレンダー」のカレンダー部分の終わりにはこうあります。
地球カレンダーはここで終わるのでしょうか。これからも続くのでしょうか。
それを決めるのは、今この本を読んでいる、あなた自身です。
やっぱりそうなんだよなあ。自分で考え動くことから始めてみましょう。
何とかなる。
何としても何とかしなければならないことなんだから、何とかしましょう。
自分たちの人類の、火事場の馬鹿力を信じて。
地球を100㎝の球にして、地球誕生からの46億年を1年間に縮めるというとてつもない縮小で考えてきました。
テキストにしたのは3冊の本。



この話は続きます。
超縮小の次は、目に見えないほど小さいものを超拡大して、手に取れるような感覚にして考えたいと思います。
ぼくは相変わらず毎晩庭で過ごしながら、「東日本大震災、以前、以降」ということを考えています。
政治っていうのは変わるのに時間がかかるもんだなあとか、でも政治に対する民意はハッキリと変わったよなあとか。自分のことでいうと、すっかり節電意識は消えちゃってるなあとか。
まあそれはいいとして(よくないけど)、環境のことです。
震災と前後して、異常気象という言葉を聞き慣れてしまって、もう異常を異常とすら認識しなくなっていますよね。近々のことでいうと筑波で起きた竜巻。
覚えてますか?竜巻。覚えているといいんですけど。忘れることは強さでもありますが、何でもかんでも忘れてしまうのは困りものです。
台風の来方も変だし、ヒョウは降るし、やたらに水害は起こるし、ゲリラ豪雨という言葉も普通の気象用語みたいになったし。
震災と異常気象とは関係ないことと思われますが、ぼくにはあの地震が、警告のように感じられてしかたありません。学術的にはまったく無関係なことであっても、あの地震、津波、さらに原発のことが、自然からぼくらへの、地球から人類への警告、「地球カレンダー」を読んだ直後の感覚だと「最後通告」のように感じられます。
震災に何を学ぶのか、ぼくらはどう変わればいいのか、変わらなくてはならないのか。一年前にはテレビ・ラジオでよく言われたこの言葉も、すっかり聞こえなくなってしまいました。
津波で家族を亡くした人たちの苦しみは、どう考えてもまだまだ増すばかりのこの時期に、ぼく自身が惚けたように、また震災前と同じような暮らしに戻りつつあることの、この嫌な感じ。
ぼくは警告と捉えています。その警告に対して、持ち前のネチネチ力で、「じゃあどうするか」を考え続けようと思っています。庭に出て。
6月26、27、28日の「前を向くカレンダー」
悲しいね、苦しいね、そっと一言口に出す。
こだまが返るよ幸せ色の。
前川秀子 岩手県宮古市仮設住宅 62歳 主婦
うちは計画停電がない地域だったので、それだけでももうしわけないような気持ちがあったのに、これを拝見して、もうしわけないよりも情けない気持ちになりました。
地球カレンダー他、買います。