親子は血がつながっています。でも連れ合いとは血縁がありません。
生まれ育ちの違いからくるギャップって大きいですよね。暮らしのありとあらゆる場面で出てくるそのギャップを埋めることが、新婚時代の大きな課題です。
嫁姑問題もそう。血がつながっていれば、よく言われるような、修正不可能のような深刻な事態にはならないはずです。
ぼくの実家でもありました。母親はそれで、そうとう苦労したようです。幼い記憶のなかで、母はよく泣いていました。
結婚して、生まれ育ちの違う者同士が一緒に暮らすんだから、家族はもめて当たり前。
でもその祖母を何年も献身的に介護したのは母でした。
精根尽き果てるような介護の末に看取ったとき、母は祖母の顔を、にっこり笑った表情に化粧を施しました。ほっぺを丸くピンクにして、目尻を下げ、口紅をニッと上向かせて。
花に埋もれるようにして笑うあの顔、忘れられません。葬儀に参列しただれもが、その死化粧に泣き笑いしていました。
棺の蓋を閉じるとき、母は「ばーちゃん!ばーちゃん!」と大声で呼んで、笑っている祖母の顔をさすっていました。
ぼくも手のひらで目をこすりながら、思いました。
血縁のない家族が本当の家族になってゆくって、すごいなあ、美しいなあ。
母は愛情のかたまりのような人なので、それができたんだろうと思います。どんなにいびられても、理不尽に辛く当たられても、じっと耐えて、耐え続けて、最後はぜーんぶ笑顔で包み込んでしまう。わが母ながら、実にあっぱれな姿でした。
そういえば、ひと昔前よりも嫁姑のもめ事って減ってきましたよね。
みなさんいろんな情報を得るようになったし、年々家族の大切さに気付く人も増えてきましたら、だんだん賢くなってきたってことでしょう。
庭をつくるときに、「おばあちゃんになるべく外に出てもらいたいから」とか「おじいちゃんが野菜作るの好きだから、畑を大きく取りたい」、そういうご要望も多くて、おばあちゃん子だったぼくとしては、よーし!って、もう張り切って設計に向かいます。
お父さんが一番、あなたは二番なのよ。
そう言いながら子育てをした奥様がいらっしゃいます。
これ、知恵ですよね。
そのご家族はいつも笑顔いっぱいで、庭はバラが咲いていて、美しく楽しい暮らしを実現しています。大学生になった娘さんは、とても優秀でいい感じのお嬢様に育ちました。
夫婦の関係性が、家族の中核にある重要な課題なのです。
「お父さんが一番で、あなたが二番」、そういい切る奥様、賢いなあって思いました。
こんな記憶もあります。
小学6年生の春、ぼくは父と親子喧嘩をしました。母がぼくに来た女の子からの手紙(第一次モテ期でした)を盗み読みした形跡があって、ぼくがそれに腹を立てたことが喧嘩の原因でした。
ぼくは父に「俺と母ちゃんと、どっちのことを信じるんだー!」と言いながらつかみかかっていきました。柔道の有段者(現在7段)の父は、ぼくをポーンと投げ飛ばしながら、キッパリと言いました、「母ちゃんに決まってるだろ、夫婦なんだから!」と。
ぼくは板の間に転がったまま、即座に返ってきた父のその言葉を「かっこいい!」と思いました。
昭和8年生まれの父は普段無口で、ほとんど会話が成立しません。寺内貫太郎のような父親です。
ところがたまに言うことがキッチリとしている。物事の判断基準が自分流にハッキリしているのです。
ぼくが弟と喧嘩して、弟が泣き出したことがありました。完全にぼくの方が悪かったのに、父は一喝しました。
泣く方が悪い!
見事ですよね、即座にそう言い切る。喧嘩の理由も経緯も一切聴かないで、「泣く方が悪い!」って。
弟はその訳のわからないジャッジに、ますます大きな声で泣きましたが、父はさっさとどこかへ行ってしまいました。ぼくはやや後ろめたい気持もありながら「ほーら、泣く方が悪いんだってさー」と、ますます火に油を注いだのでした。
あれが父の子育てだったんでしょうね、理不尽さを叩き付けておいて、さっさと背中を向けて行ってしまう。
母親は日々の愛情あふれる姿で、父親は無口に背中を見せて、これが昭和時代の子育て術。
さて、平成の今、子育ての感覚は変わりましたね。お父さんもお母さんも、しっかりと愛情を表現しながら、親子というよりも友だちというような雰囲気で会話をしながらの、楽しい子育てが行われています。
昭和も平成も変わらないのは、夫婦が家族の中心にいるということ。
そこがしっかりしていないと、子育てだけではなく、家庭のあらゆることの歯車がギクシャクと噛み合なくなっていきます。
ご主人は家庭菜園、奥様はバラに夢中のご夫婦がいらっしゃいます。年齢はお二人ともに60代半ばです。とっても仲良しでまるで新婚さんのような、そんなおふたりから出た言葉です。
夫婦はいちばん長い友だちだからね。いつまでもボーイフレンド、ガールフレンドだよ。
たまに喧嘩もするけど、大の仲良しですよ。
庭で、奥様が出してくださった新茶の味と、キラキラと光るその庭の木漏れ日のようなおふたりの笑顔とともに、忘れられない言葉です。
「夫婦は長い友だち」、これが今日の扉です。
それぞれに、いろいろあるでしょうけど、まあ仲良くやりましょうよ。
吉元由美さんの著書「凛として立つ」にあったこの言葉を、ぼくよりも若いすべての夫婦と、そしてぼくのいちばん長い友だちに贈りたいです。
結婚はお互いの魂磨き。
究極は・・・・・誰と結婚してもいいんです。
そう思えば、ね、頑張れますよね。っていうか、頑張んないといけませんよね。
せっかく縁あって巡り会って、家族になったんですから。
さ、今日もせっせと磨きましょう!お互いの魂。
んっ、待てよ。お互いの魂磨きっていったって、相手の魂なんてどこにあるのかもわからないし、磨けませんよね。
磨けるのは自分の魂。
でしょ、・・・ですよね。つまり、磨きっこするんじゃなくて、お互いに自分の魂を磨くってことです。
うん、そういうこと。
はい、これでパートナーへの不満と愚痴は封印されました。すべては自分を磨くことで解消していけばいい。
自分の魂を磨く・・・さっ、今日も修行だ修行だ!
生まれ育ちの違いからくるギャップって大きいですよね。暮らしのありとあらゆる場面で出てくるそのギャップを埋めることが、新婚時代の大きな課題です。
嫁姑問題もそう。血がつながっていれば、よく言われるような、修正不可能のような深刻な事態にはならないはずです。
ぼくの実家でもありました。母親はそれで、そうとう苦労したようです。幼い記憶のなかで、母はよく泣いていました。
結婚して、生まれ育ちの違う者同士が一緒に暮らすんだから、家族はもめて当たり前。
でもその祖母を何年も献身的に介護したのは母でした。
精根尽き果てるような介護の末に看取ったとき、母は祖母の顔を、にっこり笑った表情に化粧を施しました。ほっぺを丸くピンクにして、目尻を下げ、口紅をニッと上向かせて。
花に埋もれるようにして笑うあの顔、忘れられません。葬儀に参列しただれもが、その死化粧に泣き笑いしていました。
棺の蓋を閉じるとき、母は「ばーちゃん!ばーちゃん!」と大声で呼んで、笑っている祖母の顔をさすっていました。
ぼくも手のひらで目をこすりながら、思いました。
血縁のない家族が本当の家族になってゆくって、すごいなあ、美しいなあ。
母は愛情のかたまりのような人なので、それができたんだろうと思います。どんなにいびられても、理不尽に辛く当たられても、じっと耐えて、耐え続けて、最後はぜーんぶ笑顔で包み込んでしまう。わが母ながら、実にあっぱれな姿でした。
そういえば、ひと昔前よりも嫁姑のもめ事って減ってきましたよね。
みなさんいろんな情報を得るようになったし、年々家族の大切さに気付く人も増えてきましたら、だんだん賢くなってきたってことでしょう。
庭をつくるときに、「おばあちゃんになるべく外に出てもらいたいから」とか「おじいちゃんが野菜作るの好きだから、畑を大きく取りたい」、そういうご要望も多くて、おばあちゃん子だったぼくとしては、よーし!って、もう張り切って設計に向かいます。
お父さんが一番、あなたは二番なのよ。
そう言いながら子育てをした奥様がいらっしゃいます。
これ、知恵ですよね。
そのご家族はいつも笑顔いっぱいで、庭はバラが咲いていて、美しく楽しい暮らしを実現しています。大学生になった娘さんは、とても優秀でいい感じのお嬢様に育ちました。
夫婦の関係性が、家族の中核にある重要な課題なのです。
「お父さんが一番で、あなたが二番」、そういい切る奥様、賢いなあって思いました。
こんな記憶もあります。
小学6年生の春、ぼくは父と親子喧嘩をしました。母がぼくに来た女の子からの手紙(第一次モテ期でした)を盗み読みした形跡があって、ぼくがそれに腹を立てたことが喧嘩の原因でした。
ぼくは父に「俺と母ちゃんと、どっちのことを信じるんだー!」と言いながらつかみかかっていきました。柔道の有段者(現在7段)の父は、ぼくをポーンと投げ飛ばしながら、キッパリと言いました、「母ちゃんに決まってるだろ、夫婦なんだから!」と。
ぼくは板の間に転がったまま、即座に返ってきた父のその言葉を「かっこいい!」と思いました。
昭和8年生まれの父は普段無口で、ほとんど会話が成立しません。寺内貫太郎のような父親です。
ところがたまに言うことがキッチリとしている。物事の判断基準が自分流にハッキリしているのです。
ぼくが弟と喧嘩して、弟が泣き出したことがありました。完全にぼくの方が悪かったのに、父は一喝しました。
泣く方が悪い!
見事ですよね、即座にそう言い切る。喧嘩の理由も経緯も一切聴かないで、「泣く方が悪い!」って。
弟はその訳のわからないジャッジに、ますます大きな声で泣きましたが、父はさっさとどこかへ行ってしまいました。ぼくはやや後ろめたい気持もありながら「ほーら、泣く方が悪いんだってさー」と、ますます火に油を注いだのでした。
あれが父の子育てだったんでしょうね、理不尽さを叩き付けておいて、さっさと背中を向けて行ってしまう。
母親は日々の愛情あふれる姿で、父親は無口に背中を見せて、これが昭和時代の子育て術。
さて、平成の今、子育ての感覚は変わりましたね。お父さんもお母さんも、しっかりと愛情を表現しながら、親子というよりも友だちというような雰囲気で会話をしながらの、楽しい子育てが行われています。
昭和も平成も変わらないのは、夫婦が家族の中心にいるということ。
そこがしっかりしていないと、子育てだけではなく、家庭のあらゆることの歯車がギクシャクと噛み合なくなっていきます。
ご主人は家庭菜園、奥様はバラに夢中のご夫婦がいらっしゃいます。年齢はお二人ともに60代半ばです。とっても仲良しでまるで新婚さんのような、そんなおふたりから出た言葉です。
夫婦はいちばん長い友だちだからね。いつまでもボーイフレンド、ガールフレンドだよ。
たまに喧嘩もするけど、大の仲良しですよ。
庭で、奥様が出してくださった新茶の味と、キラキラと光るその庭の木漏れ日のようなおふたりの笑顔とともに、忘れられない言葉です。
「夫婦は長い友だち」、これが今日の扉です。
それぞれに、いろいろあるでしょうけど、まあ仲良くやりましょうよ。
吉元由美さんの著書「凛として立つ」にあったこの言葉を、ぼくよりも若いすべての夫婦と、そしてぼくのいちばん長い友だちに贈りたいです。
結婚はお互いの魂磨き。
究極は・・・・・誰と結婚してもいいんです。
そう思えば、ね、頑張れますよね。っていうか、頑張んないといけませんよね。
せっかく縁あって巡り会って、家族になったんですから。
さ、今日もせっせと磨きましょう!お互いの魂。
んっ、待てよ。お互いの魂磨きっていったって、相手の魂なんてどこにあるのかもわからないし、磨けませんよね。
磨けるのは自分の魂。
でしょ、・・・ですよね。つまり、磨きっこするんじゃなくて、お互いに自分の魂を磨くってことです。
うん、そういうこと。
はい、これでパートナーへの不満と愚痴は封印されました。すべては自分を磨くことで解消していけばいい。
自分の魂を磨く・・・さっ、今日も修行だ修行だ!
我家は総勢2名(主人&私です(´艸`)♪)で
27年きましたぁ~。
ほんとうにいろいろあった、これからもいろいろあるでしょう。
でも、『自分を磨く!』につきるなっとおもいました。
♡今日もありがとうございます♡