前項、前々項と「記憶」について書いてきました。
ぼくは週に一度くらいの割合で、朝から晩までクレイジー・ケン・バンド(CKB)を流しながら仕事をします。
音楽ってすごいなあって思うんですよ。その音で、歌詞で、記憶の引き出しがバンバン開きますからね。
CKB聴くとよみがえってくるあの頃のこと。
11年前の春、漂流の末に流れ着くようにして横浜に来て、知り合いもなく仕事のあてもないままで、ほぼ成り行きで店を開き、思いがけず行列してくださったお客様に対応すべく、妻とふたりで夢中で働いていました。
その頃聴いていたのがCKB。
ぼくも妻も、毎日理想と夢ばかりを話していました。それは、お互いの気持ちの中にわき上がる不安を、そうすることで押さえ込もうとしていたのかもしれません。
夢を語るっていいですよね、お金かからないし、とりあえず元気が出るし。
幼い日の記憶とともに、成人して夢中で戦っていた日々の記憶もまた、今日を支えてくれます。
では次の扉を開きます。
うちに設計依頼をしてくださるお客様の何割かがぼくよりも年上の、いわゆる団塊世代の方たちです。
その年代の人って、独特の楽しさをお持ちなんですよね。
暮らしや仕事や人生について一家言持っていて、また会話が巧みでおもしろく、話題の範囲も広くて、いつも楽しい時間といい刺激をいただいています。
全共闘云々から始まって、政治、環境、教育、社会問題、映画、音楽、美術、演劇、趣味のこと・・・尽きることがなくて、なかなか庭の話に入れないこともしばしばです。
先日も「ダヴィンチコード」のことから黄金分割とフィボナッチ数列 の話題(大好きな分野です)で延々盛り上がってしまい、「それでは、庭のことはまた後日ということで、次の打ち合わせに行く時間なので失礼します」ということがありました。
そのご主人が、急に、しみじみと言った言葉かあります。
女房とは一切論争をしない。お互いに注意し合って、どっちかが理屈っぽくなって来たら「はいそこまで!」って声をかけて、話題を変えるか風呂にでも入ってひと呼吸入れるんだよ。
わかります、とっても。
何がいけないって、女房との論争ほど不毛なことはありませんからね。結果がよかったことは、これまでただの一度もありません。
団塊世代の別のご主人からは、こんなお話も聞けました。
ぼくらの世代ってさ、昔はみんな論争ばかりしてたんだけど、あれこそ社会悪だったよ。反体制を叫ぶんじゃなくて、みんなが落語でもやってたらさ、世の中もっとよくなったに違いないよ。
そう、団塊世代は論争の世代。寄れば触れば大激論で、弁が立つこと、大声でアジテートする者がカッコよかった、そういう時代だったのです。
で、その人たちがたどり着いた結論が「論争をしない」ということ。
会社ならまだしも、家庭においての論争はまったく無意味です。それどころか危険です。
その無意味さに気付かず、何度も危険な目にあって、やがて夫婦は論争を回避することをおぼえます。
夫婦間の論争・・・というか闘争・・・まあ夫婦喧嘩ってことですけど、だいたい奥様が先に噴火しますよね。で、ご主人には意味不明な、まったく理屈に合わない溶岩が迫ってきます。
その灼熱の溶岩流は、ご主人が会社で使っている理屈などではせき止めることができません。まったく無理。
奥様の大噴火に手も足も出ないご主人にできることは、噴火がおさまるまで非難することだけです。
噴煙に向かって「そもそもなんで噴火するんだ!」って言ってみたところで火山は聞く耳持たないですしね。ダメですよ噴火口を手で押さえちゃ。そんな無茶したら、次はあなたの真下から吹き出しますよ。
活火山状態の女房と論争をしてはいけません。一切の反論もいけません。「ごめん」とだけ言って(意味がわからなくても「ごめん」と言って)ゆっくりと後ずさりましょう。危険ですから、事態が収束するまで、決して噴火口に近づいてはいけません。
ぼくも妻もひと回り上の団塊世代をカッコいい!と思い、その轍を辿るようにして育って来たので、基本的に論争が大好きです。
でも今は、自戒の念を込めてこう思っています。
言葉を大事に使いながら、論争を避けながら、心静かに暮らしたい。
以前は、年取って無口になって空気みたいになる夫婦よりも、いつまでも賑やかに言葉を交わしている方がいいと思っていました。
でも今は違います。
いち日が言葉のないままで、おだやかに過ぎていく。そのおだやかな空気と自分たちが、溶け合って見分けがつかないような、すべてが空気みたいな、そういうのが理想です。
言葉であれこれと定義するよりも、言葉に縛られない世界の方が、はるかにたくさんのことを感じられるということに気付いたからです。
言葉は大事。でも、もっと大事なことは言葉にはならない。
言葉の世界がすべてなのではなく、無限に広い世界のほんの一部を表現できるのが言葉なんだと、ぼくは庭で過ごしているときにそのことを強く感じます。
それをひっくり返して、言葉によって世界を捉えようとするときに、人は迷い、つまずき、悩み始めるのです。
言葉を使うと前進できるが、言葉に振り回されると足踏みしてしまう。
連れ合いと何十年も一緒にいたら、言葉はたったひとつでいいんじゃないかなあ。それも最後にたった一回だけ、微笑みながらじっと目を見て、「ありがとう」って。
ねえ、理想でしょ。
我が妻は関西人なもので、その言葉の速射砲の弾丸をかわしながら暮らしているものですから、少々極端になっているかもしれませんが。
まっ、とにかく、論争は無意味です。
言葉を相手を打ち負かすための「武器」ではなく、心を伝える「言霊」として使いながら暮らしましょうね。
冒頭の「理想と夢」を語っていた時期には、いくら言葉を使っても論争にはならなかった。
仕事が軌道に乗り、食うに足りる暮らしになって、余裕が生まれて、脳内のその余裕に愚痴や不満が入り込むと、言葉が武器化しちゃうんですかねえ。・・・反省しきりです。
CKB聴きながら、ひたすら夢中で働いていたあの頃は、言葉は夢を語るためのものだった。大変だったけど幸せだったんだよなあ。
いやいや、もちろん今も幸せいっぱいですけどね。
言葉よりも生きることに一生懸命な状態が、健全な姿なんだよなあ。
論争はしない。この扉、まだの人は早く開けちゃった方がいいですよ〜。
秋の3連休、行楽地は大賑わいだったようです。
新潟では越後三山の頂上付近が紅葉する時期。一週間後は中腹まで降りて来て、さらに一週間で裾野が赤く染まる頃、今度は山頂が白くなります。
その翌週には里に初雪が降って、一夜にして山の色は消え、モノトーンの数ヶ月が始まります。
ついこないだまで暑い暑いと言っていたことがウソみたいです。
てなことも感じつつ、仕事が溜まりに溜まっていますので、年末に向かってアクセル踏み込みます。
分け入っても分け入っても青い山。
清々しい秋晴れの朝、今日も、生きることに一生懸命です。
ぼくは週に一度くらいの割合で、朝から晩までクレイジー・ケン・バンド(CKB)を流しながら仕事をします。
音楽ってすごいなあって思うんですよ。その音で、歌詞で、記憶の引き出しがバンバン開きますからね。
CKB聴くとよみがえってくるあの頃のこと。
11年前の春、漂流の末に流れ着くようにして横浜に来て、知り合いもなく仕事のあてもないままで、ほぼ成り行きで店を開き、思いがけず行列してくださったお客様に対応すべく、妻とふたりで夢中で働いていました。
その頃聴いていたのがCKB。
ぼくも妻も、毎日理想と夢ばかりを話していました。それは、お互いの気持ちの中にわき上がる不安を、そうすることで押さえ込もうとしていたのかもしれません。
夢を語るっていいですよね、お金かからないし、とりあえず元気が出るし。
幼い日の記憶とともに、成人して夢中で戦っていた日々の記憶もまた、今日を支えてくれます。
槌矢邸
では次の扉を開きます。
うちに設計依頼をしてくださるお客様の何割かがぼくよりも年上の、いわゆる団塊世代の方たちです。
その年代の人って、独特の楽しさをお持ちなんですよね。
暮らしや仕事や人生について一家言持っていて、また会話が巧みでおもしろく、話題の範囲も広くて、いつも楽しい時間といい刺激をいただいています。
全共闘云々から始まって、政治、環境、教育、社会問題、映画、音楽、美術、演劇、趣味のこと・・・尽きることがなくて、なかなか庭の話に入れないこともしばしばです。
先日も「ダヴィンチコード」のことから黄金分割とフィボナッチ数列 の話題(大好きな分野です)で延々盛り上がってしまい、「それでは、庭のことはまた後日ということで、次の打ち合わせに行く時間なので失礼します」ということがありました。
そのご主人が、急に、しみじみと言った言葉かあります。
女房とは一切論争をしない。お互いに注意し合って、どっちかが理屈っぽくなって来たら「はいそこまで!」って声をかけて、話題を変えるか風呂にでも入ってひと呼吸入れるんだよ。
猪俣邸
わかります、とっても。
何がいけないって、女房との論争ほど不毛なことはありませんからね。結果がよかったことは、これまでただの一度もありません。
団塊世代の別のご主人からは、こんなお話も聞けました。
ぼくらの世代ってさ、昔はみんな論争ばかりしてたんだけど、あれこそ社会悪だったよ。反体制を叫ぶんじゃなくて、みんなが落語でもやってたらさ、世の中もっとよくなったに違いないよ。
古澤邸
そう、団塊世代は論争の世代。寄れば触れば大激論で、弁が立つこと、大声でアジテートする者がカッコよかった、そういう時代だったのです。
で、その人たちがたどり着いた結論が「論争をしない」ということ。
会社ならまだしも、家庭においての論争はまったく無意味です。それどころか危険です。
その無意味さに気付かず、何度も危険な目にあって、やがて夫婦は論争を回避することをおぼえます。
後藤邸
夫婦間の論争・・・というか闘争・・・まあ夫婦喧嘩ってことですけど、だいたい奥様が先に噴火しますよね。で、ご主人には意味不明な、まったく理屈に合わない溶岩が迫ってきます。
その灼熱の溶岩流は、ご主人が会社で使っている理屈などではせき止めることができません。まったく無理。
奥様の大噴火に手も足も出ないご主人にできることは、噴火がおさまるまで非難することだけです。
噴煙に向かって「そもそもなんで噴火するんだ!」って言ってみたところで火山は聞く耳持たないですしね。ダメですよ噴火口を手で押さえちゃ。そんな無茶したら、次はあなたの真下から吹き出しますよ。
活火山状態の女房と論争をしてはいけません。一切の反論もいけません。「ごめん」とだけ言って(意味がわからなくても「ごめん」と言って)ゆっくりと後ずさりましょう。危険ですから、事態が収束するまで、決して噴火口に近づいてはいけません。
矢嶋邸
ぼくも妻もひと回り上の団塊世代をカッコいい!と思い、その轍を辿るようにして育って来たので、基本的に論争が大好きです。
でも今は、自戒の念を込めてこう思っています。
言葉を大事に使いながら、論争を避けながら、心静かに暮らしたい。
以前は、年取って無口になって空気みたいになる夫婦よりも、いつまでも賑やかに言葉を交わしている方がいいと思っていました。
でも今は違います。
いち日が言葉のないままで、おだやかに過ぎていく。そのおだやかな空気と自分たちが、溶け合って見分けがつかないような、すべてが空気みたいな、そういうのが理想です。
言葉であれこれと定義するよりも、言葉に縛られない世界の方が、はるかにたくさんのことを感じられるということに気付いたからです。
言葉は大事。でも、もっと大事なことは言葉にはならない。
言葉の世界がすべてなのではなく、無限に広い世界のほんの一部を表現できるのが言葉なんだと、ぼくは庭で過ごしているときにそのことを強く感じます。
それをひっくり返して、言葉によって世界を捉えようとするときに、人は迷い、つまずき、悩み始めるのです。
言葉を使うと前進できるが、言葉に振り回されると足踏みしてしまう。
田中邸
連れ合いと何十年も一緒にいたら、言葉はたったひとつでいいんじゃないかなあ。それも最後にたった一回だけ、微笑みながらじっと目を見て、「ありがとう」って。
ねえ、理想でしょ。
我が妻は関西人なもので、その言葉の速射砲の弾丸をかわしながら暮らしているものですから、少々極端になっているかもしれませんが。
まっ、とにかく、論争は無意味です。
言葉を相手を打ち負かすための「武器」ではなく、心を伝える「言霊」として使いながら暮らしましょうね。
冒頭の「理想と夢」を語っていた時期には、いくら言葉を使っても論争にはならなかった。
仕事が軌道に乗り、食うに足りる暮らしになって、余裕が生まれて、脳内のその余裕に愚痴や不満が入り込むと、言葉が武器化しちゃうんですかねえ。・・・反省しきりです。
飯高邸
CKB聴きながら、ひたすら夢中で働いていたあの頃は、言葉は夢を語るためのものだった。大変だったけど幸せだったんだよなあ。
いやいや、もちろん今も幸せいっぱいですけどね。
言葉よりも生きることに一生懸命な状態が、健全な姿なんだよなあ。
論争はしない。この扉、まだの人は早く開けちゃった方がいいですよ〜。
秋の3連休、行楽地は大賑わいだったようです。
新潟では越後三山の頂上付近が紅葉する時期。一週間後は中腹まで降りて来て、さらに一週間で裾野が赤く染まる頃、今度は山頂が白くなります。
その翌週には里に初雪が降って、一夜にして山の色は消え、モノトーンの数ヶ月が始まります。
ついこないだまで暑い暑いと言っていたことがウソみたいです。
てなことも感じつつ、仕事が溜まりに溜まっていますので、年末に向かってアクセル踏み込みます。
分け入っても分け入っても青い山。
清々しい秋晴れの朝、今日も、生きることに一生懸命です。