庭木は同じ規格であっても、その値段はピンキリです。
規格とは、高さ、葉張り(枝先までの直径)、目通り(視線の高さでの幹の円周)で、公共造園工事の設計書には、その規格での標準的な価格が見積もられています。
施工業者としては、その規格に合致するものでいちばん安い木を仕入れたくなるわけですが、そこが造園のおもしろいところで、要所要所に見積もり金額以上の木を配さないと、庭としての態を成しません。 

値が張る木は、それ単独で(平均的な)美しい姿をしています。
では採算どがいしで、そういう高価な木だけで庭を仕立てたとしたらどうなるでしょう。
その庭は趣きを欠いたものになります。
逆に安価な木だけでまとめた庭は、そのまま、安っぽい仕上げになってしまいます。



今朝はわが家のバラを5点盛りで。
この季節は、
夜明けの庭に出るのが楽しみです。

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樹形が悪くて値がつかないほどの木を高価な木に添えて対比させたり、一本では絵にならない木を数本寄せて植えたりすることで、庭全体にいい感じの調和が生まれることを、これまで何度も経験してきました。

木に価値があるのではない。
それを使った、庭全体のハーモニーに価値がある。


その調和は、それぞれの木が固有の特性を持っていることによって生み出されます。

いや、ちょっと、昨日自分の容姿や性格に猛烈なコンプレックスを持っている人と話しましてね。その人のことをつらつらを考えているうちに、この庭木の話が浮かんできました(読んでくれているといいんだけど)。
・・・続けます。



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地球上に一本として同じ木はなく、それはつまり、木の数だけ個性が存在するということです。
これ、凄いことですよね。

個性は自然の采配。



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ぼくなんかは明らかに個性過多ですから(笑)、それを負の要素として捉え始めたら、すぐに一歩も進めなくなり立ち尽くしてしまいます。
だから一切そうは思わない、ことにしています。
バンッと胸を張って言っちゃいますけど、いわふちひでとし、この売り物にならないイビツな樹形だからこそ、思い描ける庭があるのです(呵々大笑)。

独自の個性の中にこそ、天から自分への使命が託されている。

ぼくはそう思うことにしています。



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個人の問題として言うなら、人との違いを気に病むことなど全く意味がないことです。そんな暇があったらその個性に磨きをかけた方がいい。
社会の問題として考えるなら、個性を排除したりそれを障害と呼ぶことは、その社会を美しい庭として思い描くことができる、気のきいた造園師が存在していないということなんじゃないかなあ。



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っと、ここで終わると世の中への愚痴になってしまいますので、ひと言添えておきます。

楽園を思い描くべき社会の造園師って・・・ぼくであり、あなた。