ぼくは現在カメラを7台とレンズを10本所有していて、その中から日頃使っているのは、コンパクトカメラとミラーレス一眼の2台、一眼レフ用の交換レンズ3本です。
そのレンズの中でもお気に入りのズームが夏頃から調子が悪く騙し騙し撮影していたものの、昨日とうとう使用不能になってしまいました(デジタルに移行してからはカメラもレンズも消耗品なのです)。
数年間毎日覗き続けてすっかり身体の一部、ぼくの瞳と化していた筒が、とうとう壊れた・・・・その落胆と名残惜しさみたいな気持ちに10秒ほど浸り、次の瞬間にはやったー!と、さっそくパソコンを検索しまくって代わりのレンズの物色を始めていたのでした。もうワックワクで。
壊れたレンズには手に馴染む愛着があり機能的にも何の不満もなかったので、全く同じ機種を入手してもいいのですが、そこはこの際だからということで、高価なものだからからこそ、どうせ買うなら、となりまして、上大岡のヨドバシでワンランクだけ上位機種を購入(ここが大事。階段は一歩ずつが肝要なり)。いやあパソコンと同じでデジタル関連の進化は目眩がするほどなのです。もしもあのレンズが壊れてくれなかったら、気づかぬうちに、写真の楽しみの領域で大損を積み重ねてゆくところでした。



新品のレンズでさっそく
ドウダンツツジの植え込みをパシャパシャッと。


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ピンもボケも申し分なし。


予期せぬ喪失、意に反する喪失ってありますよね。失恋、離婚、子供の自立、リストラや倒産によって職を失うとか、病で健康を失ってしまうことも。もしもそんな場面がやってきたら、次の言葉を思い出してください。



やや大ぶりで重くなったものの、
いきなり手に馴染む設計に惚れ惚れ。


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手持ち撮影なのに、内臓ジャイロ機能の威力で手ぶれなし。



運命の好転は、いつも決まって喪失の次に起こる。



どうやら
いたってロマンティストな性格のようだ。

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レンズにも性格があるのです。




これはですね、「不足によって意欲が湧く」「失敗するほど成功は大きくなる」「悩んだ者に知恵が授かる」「人生楽ありゃ苦もあるさ、涙の後には虹も出る」と並ぶ、神様による絶対的なプログラミングなのです。
ですからね、ええ、ことに男性諸氏、「別れても好きな人」などとうじうじする事なくスッキリと切り替えて、「別れたら次の人」を探しましょう。ワックワクで。
女性の場合は、紅葉真っ盛りの京都大原三千院でしばし感傷に浸った帰り道には、湯豆腐、芋棒、う雑炊と味わって、甘味処もハシゴして、胃袋を満たしたら次なる獲物に罠を仕掛けましょう。



あなたに逢えてよかった
あなたには希望のにおいがする

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フレッシュな瞳を得たようで、
何を見てもシャッターが切りたくなります。




喪失は幸運の前触れ。失うことを恐れて、腐れ縁によってせっかくの人生を腐らせませぬように。・・・35億、ですから。





「喪失は幸運の前触れだ。確かに君の過去にはあの男との素晴らしい期間があった。だがそれが歴然と過去の出来事なのだということは、文学系の君にならわかるだろう。そのような現在とこれからに期待する幸福にほとんど効力を持っていない過去を、あたかも過去が未来であるかのような錯視を、そんな曖昧にして実体のない幻想としか言いようのない陽炎を失うことを恐れて、腐れ縁によって自分と自分が大切に思う娘たちの人生までをも腐敗させてはいけない」という言葉を、ぼくはある女性に膝詰めで、両手で彼女の両手を痛いほどの強さで包んで、食らいついて咬み殺すほどの視線で伝えたい衝動に付きまとわれている。・・・もうかれこれ五年もだ。
だがその行為がその友人の苦悩に功を奏さないことを、ぼくの他の経験から、他の友人が彼女にそういう進言をした結末を見て、ぼくもまた彼女に、現状の打開と解決に最適と思われる専門家を紹介したり、多方向からの意見を積み重ねてみたものの、功を奏するどころか不協和音を奏でるだけで何も変わらなかったことからも、残念無念ながら「放っとくしかないのだ」と知るに至った。この手のことは、つまりは当事者の思考と選択の問題なのだと、とほほな気持ちともに、生きる能力の重み、彼女の場合で言えば酒に逃げることの哀れさ、現実から逃げ回ることの虚しさ、一方の当事者である愚かな男については、病的ナルシストが引き起こす周辺(彼の愚行を鈍感に、あるいは軽薄に、あるいは各々の事情により止む無く容認してしまった者たち)への病魔の伝染が、いかに残酷で恐ろし威力を持っているのかを学ぶ、良い機会とはなったのだが。
そう結論付けてはいるものの、やはり、彼女に対する起死回生の言葉はないものかと、そのことが夜の庭で過ごす時間の背後に常に覆いかぶさっている。彼女はそれほどに、生まれ持っての資質、愛嬌を凝縮したような美貌と、誰からも愛されるキャラクターと、これまでの真面目で、善良に積み重ねて来た苦労を思えば、本来ならばこの苦難を超えて最上級の幸福を得る資格を持った女性なのだと、ぼくはそう思っているのだが。
もしもこの事態を夏目漱石なら、「余計なことを言ってはならぬ。賢者の言のごとく、口は災いのもとである」と言うだろうなあと。では芥川龍之介ならどうだろう。きっと「自分の耳を切った、あのオランダ人の所業を云々する事が文学なのだ。貴乃花親方の如くに狂気の眼光で決然とし、大いに混沌を続けよ」と言うだろうし、太宰なら「不倫は文化だ」と言い「あのぉ・・・もしよかったらなんですけどぉ・・・ぼくもその狂宴の悦楽に、苦悩と言う甘美のいざこざに、絶望と言う名の究極の快楽の宴に参加させてはもらえないでしょうか」と、天才の域とも言えるナルシストぶりをたぎらせる事でしょう。
はてさて、こうなったら頼みの綱は宮沢賢治、彼ならどう言うだろう。「ごめんなさい、ぼくは今それどころではないのです。今年の夏は陽の光が不足して、おまけに秋も深まってから台風が来たものだから、傷んだダリアの花が悲しみの中で必死に咲こうとしているのですよ」と、呆けたように取り合ってもくれないことでしょう。もうひとりだけ、村上春樹ならいかがかと。一言、というかため息の言語的表現として「やれやれ」で、章は閉じられます。
かくのごとき長々とした徒然の結果、「喪失は幸運の前触れ。失うことを恐れて、腐れ縁によってせっかくの人生を腐らせませぬように」は、彼女にではなく、自分自信に向けて諭すことと致し候。決然として。
結論。明日も新品レンズを携えウキウキと、強引マイウェイで、「小沢昭一の、小沢昭一的こころ」的に行くのだー、のこころだー!





夫婦相和しのコツは「相」にあり。





今日は「港南台店」にいます。