いわふち殺すにゃ刃物はいらぬ、庭無き暮らしにすればよい。ふと、もしもこうして過ごしている庭がなかったら、と考えたら、空恐ろしい気持ちになりました。物足りないとか寂しいとかそんなレベルではなく、息の根を止められてしまうほどのことに思えるのです。



散歩仲間のシジュウカラ。
四十から店を持ちまして、
五十から本格的に自宅の庭を楽しみ出しまして、
さて六十からは何を?
始めたいことが多すぎるので、
あと二十五ヶ月の間に絞り込もうと思います。
わが第四楽章を奏でるにふさわしい、
何かとっておきのことを。
精霊が住む森に暮らすとか、
遥かな旅路に向かうとか、
あるいは・・・・
ふっ、悪巧みは果てしなし。

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この庭への感慨は朝晩庭に出ることを始めた6年前にはこれほどではありませんでしたから、この間にそれだけぼくの中で庭の存在が大きくなって、習慣を越えて、とうとう依存症の域まで行っているのでしょう。でもまあそれによる症状は良い事ばかりなので、引き続きどっぷりと依存し続けようと思っているわけですが。



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この庭依存が他の依存症と違うのは、庭がればそれでいいとはいかない点にあります。アルコール依存の場合は、日本酒であろうがワインであろうが酒なら何でもいいとなるし、ギャンブル依存の人も最初はパチンコ通いだったのが、より高い興奮を求めてラスベガスを目指すようになって、その資金稼ぎのために必死で働くということはないですよね。ところが依存対象が庭の場合は四季折々に花が咲いていないと満足できず、芝生が美しく整っていないとこれまた嫌なので、せっせと手入れをするようになる。つまり創造的であり、然るに前向きな姿勢を保持しなければ依存を続けられないのです。



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そうやって手をかければ庭は応えてくれて、庭とのいい関係が出来上がり、その庭が大切なパートナーであるかのような気持ちになってゆきます。さらに時を重ねてゆくうちにその大切なパートナーが、実は自分の内側に住んでいるもう一人の自分なんだと気づく。要するにですね、一周まわって庭依存は自分への依存でありまいして、自分への依存ということは自分が自分をあてにして立つ、自立ということなのです。



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あなたが何かに寄りかかりたいなら、寄りかかっているなら、その対象に自分を投影してください。それが花なら「この花はわたしです」と、連れ合いなら「あなたの幸せがわたしの幸せです」と、ワーカホリック気味であるならば「仕事で自己実現をするのだ」と認識して、仕事に逃げるのではなく仕事を追求するように。そういう合わせ鏡が成立しない対象に寄りかかってしまったらどうなるかは皆様ご存知の通りなり。もしもそういう傾向を感じたなら人類の歴史をさかのぼって、あるいは記憶を逆行して、まずは自分ひとりで直立二足歩行からやり直してください。さすればそれまでもたれかかっていた物や、事や、人に、そんなことをする必要がなかったんだと気がつくし、寄りかかられていた人はあなたの体重から解放されて、きっとこれまでに無いいい関係が築けることでしょう。そしてあなたは斜めっていた時には感じられなかった、軽やかで、明るくて、希望に満ちて、自由自在に歩ける世界に行けるのです。



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庭ですよ庭、庭はあなたと語り、あなたを励ます、もうひとりの自分というパートナー。





交響曲は概ね第四楽章が最終章なんですよね。
それが済んだら数曲の
気の利いたアンコールも用意しますが、
 その前に、感動的なフィナーレに向かって。



昨日は打ち合わせで横浜→茅ヶ崎→浦賀という、近隣ながら色合いが違う三ヶ所をめぐり、その合間に車中のテレビ観た平昌の総集編でまたもや感動の時間を過ごし、なんだかとても濃厚ないち日でした。開幕時に気になっていた、不純で無粋で無礼な、腹の出た大人たちの行いを凌駕して余りある、鍛え上げられた若者たちの純粋さと美しさに、ああ、感謝の拍手です。この感動と感謝を胸に、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん、さあ、今日からまた頑張りましょうね!と、花咲か爺さんは意気揚々と、いつもよりちょいと早めに山へ柴刈りに出かけます(仕事がしたくてやけに早く目覚めてしまいました)。

今日は金沢文庫店にいます。