あの頃のぼくらは会うたびに眠っていた。優等生の彼女は、深夜放送を聞きながら予習と復習を欠かさなかったし、ぼくはレコードを流しつつ四畳半の自室を改造した暗室で、ニコンF2で切り取った彼女の姿を現像しいては、できる限り丁寧に、リアルに、印画紙に焼き付ける作業に夢中だったから、二人とも常態的に睡眠不足だったのだ。ココアとウインナコーヒーがおいしい、いつもイーグルスかカーペンターズか、ママさんお気に入りのさだまさしが流れていた喫茶店でも、ぼくらは柔らかい椅子に沈んで居眠りばかりしていたし、学校帰りに2時間だけと決めて河原に行って(なぜそう決めていたかというとキリがないからだ。何度か日付が変わるまで一緒にいて、ぼくは平気だったけど、彼女は親に叱られた)、ここ横浜では見えたことがないのでその存在も忘れてしまいがちな、幻想的なミルキーウェイの下で、精いっぱい大人びながら彼女との将来のことなんかを語っていても、いつの間にか空から睡魔が降りてきて、互いに相手の肩に寄りかかったまま意識が遠のいていって、まさに夢見心地だった。町に一軒だけある映画館でアポロ・クリード vs ロッキー・バルボアを観戦している時でさえ、ぼくと彼女は交互に寝息を立て、肘でつついて、夢の世界からスクリーンの夢物語へと引きずり戻すことを繰り返した。



雪深い魚沼では
ウメはサクラとほぼ同時に咲きます。
雪どけの河原につくしがで始める、
卒業式が間近な頃に。

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ジョンを撃った犯人、チャップマンだっけ、彼女と一緒にサリンジャーに読みふけっていたんだって。こないだ読んでたよね、あれ。

ああ、ライ麦ね。読んだけど、すごく読みづらくてさ、頭に入らないまま何とか最後までたどり着いた。たどり着いたらいつも雨降りだよ。

そう、ならいいけど。セイヤングでね、言ってた、あれは特別な本だから気をつけたほうがいいって。だから心配になっちゃって。いわふちってのめり込むから。

のめり込む・・・確かに。だけど彼女とふたりで、ある本に心酔するって素敵だな。どんな気分なんだろうか、その世界に酔って、酔ったまま人を撃ち殺す気分は。あんな事はひとりじゃないからできたのかもしれない。ひとりじゃないって素敵なことね。

もう、そういうのやめて。わたしは心配して・・・何をするかわからないところがあるから。

えええっ、オレがあ・・・、ってそれはないでしょ。だいいち、あの本はそんなには面白くなかったし。

いいの、ちょっと心配になっただけ。でもほんとにむちゃはしないでね、お願いだから。

ああ、うん、ごめん。わかったよ。

そう返事をしながら、ぼくはそれどころではなかった。殺人者が何を読んで、何に心酔し、何を思っていたのかよりも、もっと重大な課題が頭を占領していたのだ。

あのさあ、シャッターを押す瞬間に感じるんだけど、ちょっとだけ。あの、あのね。

なになに、変なこと言わないでよお願いだから。

別に変なことじゃないと思うんだけど、あのお、こないだあ、写してる時にすごく悲しい目をしていたのが気になってるんだけど。ほら、いつもピントを目に合わせているからすごく、ああ、すごくいつも目を見ているからさ、わかるんだよ変化が。

彼女は少し困ったふうだった。土手から河原に降りてゆくコンクリートの階段に並んで座っていたから、その時は彼女のソフィーと同種に分類される目は見えていなかったが、ぼくの左肩に触れている彼女の右肩が数回震えたのだ。

あのね、いわふち・・・くん、わたし、やっぱり東京へ行くことにした。池袋にある学校に行くって決めたの。いっぱいいっぱい考えてそう決めたから。

えっ・・・。

それまでに何度も、ぼくらは卒業後のことを話していた。いつも決まって彼女は東京へ行きたいと言い、ぼくはそれを打ち消したくて地元での夢を話した。山歩きをして、釣りをして、絵を描いて、働いて、そして彼女がしわくちゃになるまでの美しい変化をぼくが撮り続けるというようなことを。

姉貴も東京にいるし、確かにここはいい場所だと思うけど。大好きだよ自然とか、友達も。でもやっぱり東京に行きたい。行かなかったら後悔するって思うから。

何も言葉が出てこなかった、言葉だけじゃなく、もうぼくの夢語りでは彼女を引き止められないことがわかったら、何も考えることができない阿呆になったのだ。そしてぼくは途方に暮れて、焦点が定まっていない視線を水面に向けていた。
あいつが降りてきたのはその時だ。睡魔、眠気の大魔王が天の川からまっすぐにぼくの脳天に突き刺さって昏睡を起こさせた。



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どれくらい経過しただろうか、彼女に揺り起こされて立ち上がり、ペアシート的に敷いていたタオルを叩いて畳んで鞄にしまってから、いつも通りに人影のない真っ暗な土手道を手をつないで、彼女の家の方角に歩いた。



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何も話さない。彼女も。話すべきことがわからなかったし、何かを話すよりも、軽く握っている彼女の指が、その時の状況やこれからや、いろんなことをはるかに上回る貴重な感触に思えて、だから指先に意識を集中させていた。何度か、何かを伝えるように強く握ってきたので、ぼくも返した。その何かが何なのかはわからなかったが、言葉とか、意味とか、そういうのを超えた何かが、熱く痛く通い合ったことを感じた。



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そんなふたりの儀式を終え、彼女が選択した別れの時に向かって歩きながら、ぼくはさっきの睡眠のことを考えていた。とてもいい気持ちだった。睡眠とは甘美な逃避だ、と思った。そう逃避、逃げることは案外悪くないなとも思ったことを記憶している。



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それからの彼女とのことはあまり覚えていない。ぼくのことだから辛さとか悲しさとか寂しさとか、あったに違いないのだが思い出せないので、もしかしたらすぐに次の恋が始まったのかもしれない、が、それも思い出せない。いまだに鮮明に思い出されるのは、魚野川の水音の小夜曲にうとうととした、最悪の時の最高の睡眠のことだ。



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あの出来事がぼくにひとつの習性を身につけさせた。きつい状況に入るとぼくは眠らない。眠れないのではなくわざと寝ないで、あの夜の、甘美なマジックを使う大魔王が降りてくるのを待つようになったのだ。
ああ、それともうひとつある。女性を撮る時には目ではなくまつ毛にピントを合わせるようになった。女性の目を深く見つめることはあまりいい展開を生まないというのは、その後の経験からも明らかなことであると結論づけている。
だがその結論は決して、見つめ合う恋を放棄したということではないのだが。決して。ことに世界がモノクロームからカラーへと変わる、雪どけの季節には。











今日は港南台店にいます。