アマデウスコードなる作曲アプリが開発中だそうな。それは過去数十年のヒット曲、聞き馴染みのあるジャズやクラシックの名曲などを解析してデータ化した AI にコード進行を入れ込むと、その上に売れるために理想的なメロディーラインが算出され奏でられるというものだ。
この手法は、かつてビージーズが行い大成功をおさめた。メロディーフェアのヒット以降ぱっとしない日々が続いて世の中から過去の人扱いされ始めた頃に、ギブ三兄弟は当時のヒットチャートの上位曲を徹底的に分析した。リズム、コード進行、歌詞、メロディーの癖などを抽出し、それらを組み合わせて「売れる曲」を作り出したのだ。それがあのジョン・トラボルタの映画で使われ、世界を席巻した一連のヒット曲だ。



ひとつ開けば次々開く。
開花の連鎖が始まりました。

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ユキヤナギ



音楽を音楽業界の製品として捉えることを、ぼくは悪いとは思わない。歌は世に連れなので、もしも売るための音楽の質が低下したとすれば、それは世の中の質の低下だと考えるべきであろうと思っている。
1970年あたりから20年間ほど、ぼくはどっぷりと売るための音楽の海を泳いでいた。今思えば、人類の歴史上、自分の歴史上も、もっとも音楽が溢れていた時代だった気がする。テレビのゴールデンタイムにはヒットチャート番組がいくつもあったし、毎日レコード店にたむろして、小遣い生活の身分だったのでふんだんには買えなかったものの、店内に流れる音に首と片足の膝を揺らしながら、膨大な数のレコードジャケットと帯の文言のほとんどを把握していた。家では宝物だったKヤイリのギターとレコードとラジオと、出かける時にはラジカセを持って、学校にいる時間以外は切れ目なく音楽がある生活だった。



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ハナモモ



ぼくが泳いだ音の海の成分はだいたい歌謡曲だ。シュノーケリングで背が立つあたりを潜ると、足元の砂地には水面に乱反射した光が揺らぐフォークソングがあった。まだ楽々と息は続いたので進んでいったら岩場が見えてくる。ロックだ。そこには砂地とは違うサイケデリックな魚と、甲殻類と、オクトパスの庭もあった。
その先は岩が深くまで落ち込んでいる濃い青色の闇。少々勇気がいったが、酸素を温存するためにゆっくりとフィンを動かしその闇へ進んだ。聞こえてきたのはぼくが生まれる前の地球を偏西風のように巡っていたジャズという音楽。すごい、と思ったところで息が苦しくなったので、急いで空の方向に上がっていった。



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ミツマタ



水面に飛び出るのと同時にシュノーケルを吐き出して息を吸い込む。耳に水が入ってキーンとしていたので首を横にスイングしたら、ゴボッと鳴ってあっさりと水は出てくれた。見ると浜からはずいぶん離れている。大きめの波間を立ち泳ぎで息を整えながら、映画アマデウスの冒頭、衝撃波のように流れる K.183-1 が、全身に満ちてゆくのを感じた。あの風変わりな天才は、小さな映画館のスクリーンからぼくに飛び移ったのかもしれないと思った。それが一瞬の錯覚だったのは言うまでもないのだが、天才性というものは、そのような錯覚を起こされるところにあることは間違いない。拓郎も、ジョンも、マイルスも、バッハも、いい音楽はいつも天才成分を使ってぼくをいい気にさせてくれる。いい庭が、いつもそうであるように。



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カワヅザクラ



アマデウスコードなる代物によって、多くの蕾が開花すること期待する。アイロニーではなく、庭と同様、暮らしが進化するほどに退化が止まらない音楽の世界に、津波のごとくに圧倒的な才能の降臨を待っているのだ。
日本の、こと家庭の庭に関しては黎明期であり、進化だけが待たれるのであるとも言えるのだが。









今日は港南台店にいます。