リチャード・バックの「かもめのジョナサン」、片岡義男の「8フィートの週末」と「ぼくはプレスリーが大好き」、ロバート・B・パーカー「初秋」、村上春樹「風の歌を聴け」、新田次郎「銀嶺の人」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、幼児が何度も同じ絵本をせがむように、ぼくには繰り返し読む癖がある。本だけではない。音楽も、録画しておいた番組も繰り返す。
これは昭和時代の風習というか、良しとされていた行動形態から来ているのだろうと思われる。よく「〇〇のレコードを擦り切れるまで聴いた」と、ぼくも言ったし、みんなそのフレーズを自慢として使っていた。何かひとつをうがつ(ほじくる)ことがカッコいい行為だったのだ。
もうすぐ平成も終わろうとしている今、本も音楽も多様なものがたやすく入手できるようになったこともあり、 昭和的に繰り返すよりも一刻も早く消費して次へと向かうことがスタンダードになった。仕事でもなんでもスピード感を持って行う人が優秀とされるこのご時世に、今さら宮沢賢治を繰り返し読んでいる者などはぼく以外に見はるかす地平に存在せず、昭和のスタンダードはもはやおとぎ話に出てくる人か、変人の類いとなりにけりだ。



宇宙から見たら、
ぼくらとアリは大差がない生物だろうと思います。
愛情も、欲求も、勤勉な営みも。
オリンピック会場の建設を見るとつくづくそう思えるのです。
選手以外の者が分泌する欲望の粘液で練り上げられた、
バベルの蟻塚みたいだなあと。
アリとの差があるとすれば、種としての生存期間が
ぼくらの方が圧倒的に短いであろうという点。
今のところ、脳の大きさがとても不利に働いているような気がして。
このハンデを跳ね返す力がぼくらにはあるだろうかと、
多分ないんだろうなあと思いつつ、
とにかく今日もせっせと仕事に励みます。
ギリギリの局面でもキリギリスにはならぬようにと。


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変人曰く「先をお急ぎの皆様、じっくりと繰り返した方がようござんすよ。消費とは字のごとく、費やし消えてゆくだけなので」。
だいいち、反復しないのは不自然なことだと思う。幼児はまだ自然界の野生動物的だから、興味の対象にしつこく喰いさがる執念深さを持っている。その自然児に毎日違う物語を読み聞かせたら、きっとバランスを欠いた人に育ってしまうだろうと予測する。それよりも、その子の瞳が輝いている限り「ぐりとぐら」を百回でも二百回でも繰り返してあげた方がいいように思う。幼児教育の専門家の見解はわからないが。



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ぼくは庭の専門家なので、庭に当てはめてみる。
季節はひたすらに繰り返す。おおよそ十万年周期でやってくる氷河期のこないだのが終わって地球の気候が安定した、一万年前からずっとだ。庭仕事はその繰り返しに従って繰り返される。田舎の年寄りが畑の草を鎌で引っ掻きながら「賽の河原だ。取っても取っても生えてくる」と、嘆きではなく、逆に少し楽しそうにつぶやいていたことが思い出される。そのお婆さんは何十年もそうやってきたので、腰がその形のままになっていて、顔には何十年も笑っていたので、シワがそのままになっている。
やはりそう、反復に価値があるのだと思う。幸せとは消費ではなくメビウスの帯の裏と表、現実と虚構をぐるぐる、ぐるぐる、歩き続けるアリンコだ。消費者ではなく生活者たれと、ぼくの記憶中枢の畑で草を引っ掻いているお婆さんの、腰とシワがそう語っている。



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庭は次々場面がやってくる回り舞台だ。朝昼晩、春夏秋冬、十二支、子が大人になり、親になり、ジジババになり、不可逆的でありながら繰り返される歴史の悲喜劇は、過去から紡ぎ出した糸を使った反復織りの物語なのだ。宮本亜門演出だったり、鴻上尚史のシリアスコメディーだったり、わが家の場合はドリフのドタバタな寸劇が多いわけだが。



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高速走行に慣れっこになっているかもしれないと思ったら、ちょいと昭和レベルまでスローダウンして、面白いと思った本を、映画を、音楽を、自分のあれこれや家庭の様々を、消費せずに、何度も何度も繰り返すことを良しとしてみてはいかがかと。庭仕事みたいにぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。メビウスの帯から足を滑らせ虚空へと消えるまでの間に、どれだけ愛し、泣き笑いし、感動したかが命の理由だと思うから。
というわけで明日より、ぼくは59周目に入ります。





今日は港南台店にいます。