出がけに女房から「電話で問い合わせがあったんだけど、今日バラのことを教えて欲しいっていう方が来られるからよろしく」と声をかけられた。

あのお、よろしいですか。いろいろと教えて欲しくて。

ご連絡いただいた方ですね。どうぞどうぞお入りください。

杖をついていてやや歩きづらそうだが、しかし見るからに元気そうな、イチローの父親に似た、顔だけでなく全身が笑顔のような印象の男性だった。
腰掛けるなり、相談会のチラシが入ったクリアファイルから数枚の写真を出してテーブルに並べ、「これが30年前のわが家です」と。
ぼくはその写真に息を飲んだ。まるで夢の世界のように色とりどりのバラの花が庭を埋め尽くしていて、30年の時によってややセピア色になってはいるものの、そこからはあの夢見心地となる香りが漂ってくるようだった。

いやあ、見事ですねえ。はあ~30年前ですか。これは驚きました。

わたしはもう87歳で、バラだけが趣味でした。そうだなあ、この頃がピークで一番綺麗だったかな。近所でも評判で、家族もよろこんでくれましたよ。女房は料理好きだから、花の時期には友だちをたくさん集めて庭で食事会とか、楽しい思い出がたくさんあります。バラっていいですよね、バラのおかげでどれだけ幸せな時間があったことか。

わかります。バラほど人をいい気持ちにする花はないですから。

そうなんですよ。詳しい人に教えてもらいながら他の植物、ランやサツキに手を出してみたこともあったんですけどね、やっぱりバラがわかりやすくて楽しい。手をかけるだけちゃんと咲いてくれるし、たくさんの人がほめてくれるし。

いやほんとに見事ですね、しかも30年前といったら今とは違ってバラは特別な花だったでしょうから、大評判になったでしょう。
ところで相談って、バラのことならぼくの方が教えて欲しいくれらいです。

あの、バラのことというか、毎年庭仕事を繰り返してきましたが、こないだの台風で庭全体がくすんでしまって。

塩害がひどかったですからね。

そう、木も草も葉っぱが軒並み茶色くなって、半分くらいは風にちぎれて、なんとも悲しい風景になってしまいました。

ええっと、つまり塩害対策というか、復旧方法というか、そういうことですね。

いえ違うんですよ。今回の台風のことは置いとて、その荒れ果てた庭を見ながら気がついたことがあって。この写真の頃から比べると、年々バラに勢いがなくなってきたんです。バラだけじゃなくて、庭全体がそんな感じがして。わたしがこうして年老いるんだから、庭もそうなのかなあって、ふとね。

やや湿っぽい話の展開とは裏腹に、その人は入ってきたときと変わらず全身笑顔のままなのが不思議なような、救われるような気持ちになりながら続きを待った。

あと何年生きられるかわからないところまで来てみると、もういち度30年前の勢いを復活させてみたくなって、何かそんな方法があるのかと思っていたところに女房がこちらのチラシを見せてくれたもので連絡したしだいです。

う〜ん、いいですねえその心意気、素晴らしいです。
お役に立てるかわかりませんけど、ふたつのことが考えられます。ひとつは土が酸性化しているであろうこと。農家がやるように苦土石灰で中和したらいいかもしれません。あと堆肥、牛糞とか腐葉土なんかを多めにすき込んで微生物を増やしてみたらどうでしょう。

ああなるほどねえ、土ですかあ。そう言えばバラの肥料以外あげたことがなかった。堆肥ですね、微生物、酸性を中和、なるほどなるほど。さっそくやってみます。

もうひとつ、これは意識というか、考え方のことなんですけどね、30年前があまりに素晴らしかったから、それを維持しようとしていたんじゃないでしょうか。来年も今年のようにって。

はい、その通りです。あ、そうか!それだったのか!!

はい。守りに入るとじわじわと追い込まれます。攻めなきゃ。
庭は不思議な場所で、維持するためには変化させ続ける必要があるんですよね。いつも次はどうしてくれようか、来年はここを変えてみよう、こんなのも植えてみようって。

今、見えました?

は?

目からウロコが落ちたの。ほら、音もした、腑に落ちた音。

なんとも愉快な。一緒に笑いながら、本当に目から剥がれたウロコが腑に落ちて音を立てたんだなあと思えた。

いやあ来てよかった。そうかあそうだったんだあ。確かにねえ、そうですよねえ。守り一辺倒から攻めに転じればいいわけですね、なあるほどねえ。やりますよ、やります、うずうずして来た。87歳の逆襲、始めますよ。
実は塩害の庭を見て気落ちしてたんですよ、自分みたいだなあってね。過去がいくら幸せでもこうなっちゃったらただの過去なんだなあってね。それでね、家族に「オレが死んだら庭は更地にして、みんなが楽しい庭に作り変えてくれ」なんて言ったりして。女房は黙って笑ってたけど、そんなこと話したらますますさびしくなっちゃって。
さすがプロですねえ。変化、攻める、数年ぶりにやる気が湧いて来ました。本当に来てよかった、ありがとうございました。

いえいえこちらこそ。ぼくもお会いできてうれしかったです。どうか頑張って、何かお手伝いできることがあれば連絡してくださいね。

全身笑顔のチチローはますます笑顔となって、杖をつきつき帰ってゆくその後ろ姿からは、あの夢見ごこちなバラの香りが漂って来るようだった。
われも後年かくありたし。ああ素晴らしきかな庭のある人生。



ここ数日急激に気温が下がり、
秋のバラがちらほらと開き出しました。

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潮風にさらされて枯れ枯れとなった風景は雨に洗われ、
新鮮な色がぽつりぽつりと。

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冬へと向かう時期に咲く花は、
静かな風情の中に秘められたパワーを感じます。