ぼく的に菊地成孔の最高傑作「嵐が丘」。これほどまでに難解なポリリズムの嵐に翻弄される快感は、シェリタリング・スカイの頃の坂本龍一以来なのであります。





この頃はやたらに設計が濃密になって、時間もかかるし、気力も眼精も消耗するし、ともするとトゥーマッチかな?とブレーキペダルに足がかかることがありますが、目指すはあくまでこの感じ。あまりに複雑過ぎてその意図がお客様に伝わず、膝から崩れ落ちながら時間のロスを悔やむことままあれど・・・そんな時にはこの曲をヘヴィーローテーションして意識を上げています。
結果がどうであれ、受けた仕事に手を抜くわけにはいかないのだ。伝わらないのは力量不足、複雑さが乱雑さとなりナマリやノイズになっているからなのだ。だからさらに緻密に組み立てなければならないだ。うん、やはりそう、これでいいのだバカボンボン。
プロフェッショナル・我が仕事の流儀は「やるとなったら徹底的に。やり過ぎは注意事項ではなく必須事項。なぜなら世の常として、恋愛がそうであるように、熟年夫婦の会話がそうであるように、思いは1%しか伝わらなのだから。しかして100%伝えるためには10000%の発信が必要なのであ〜る」。
それとですね、空を覆う雲を突き抜けた高みに行かない限り一切見えない世界があるのですよ。ぼくがご案内しなければ、その人は一生その世界の存在も知らずに吹き荒れる嵐に怯え、カーテンを閉め切った洞穴で身をすくめて暮らすことになるやもしれず、と思ったら、そりゃあひとつひとつの庭に本気モードの必死のパッチとなりますわいな。
いやあそれにしても、音を奏でるような庭、メロディアスな設計は以前から目指していたものの、まさかポリリズムの領域まで来ようとは。ふふ、いよいよ楽しいことになってきたものだ。というわけで、今日もアクセルベタ踏みで、理想の庭を思い描きます。



仕事帰り、港南台の嵐が丘から望む
シェリタリング・スカイ(天蓋の空) 

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不思議な空だ。物体のようにぼくらを覆い、外側にあるものからぼくらを守っているように見える。

外側には何があるの?

虚空の闇だよ。虚空だから何もない。何もないという事実がある、つまり「空あり」ということだ。駐車場の看板みたいな言葉ではあるがさにあらず、これこそが色即是空空即是色ってことさ。
ところで、きみは観光客?


わたしは旅行者よ。

どう違う?

着いてすぐに帰ることを考えるのが「観光客(ツーリスト)」、帰らないかもしれないのが「旅行者(トラベラー)」。わたしは、そうねえ、半々かしら。

半々、なるほどね。みんなそういうものかもしれないな。

男は視線を雲に向け、独り言のように言葉を続けた。

人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思っている。だが物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。人生を左右したと思えるほど大切な子どもの頃の思い出も、あと何回?たぶん5回くらいだ。あと何回満月を眺める?せいぜ20回だろう。だが、人は無限の機会が与えられていると思い込んでいる。その思い込みが外にある世界へいざなってくれることもある。そこにまでたどり着き、闇の世界から見下ろしたときに、初めて地上の明るさに気づくことができる。

天蓋の下、あといくつの庭を生み出し、何人の人の手を取って天空へとお連れできるだろう。 せいぜい「無限の機会がある」と思い込むことにする。でないとセンチメンタルに筆が鈍ってしまうので。 
ぼくはツーリストではなく早足のトラベラー。まだ遥かな旅の途中なり。