8回目の3月11日です。やれやれ、と、途方に暮れています。夜中に目が覚め、少し迷ってから録画してあった「被災者のその後」みたいな番組を再生したら、ああ、もう・・・。庭の書斎に出たらバシャバシャと雨。365日の内、1日だけは途方に暮れるしかない日があり、当たり前ですけどそれはぼくだけではなく、むやみに早く目覚めてしまい、今、この雨音に打たれている人が、きっと何万人か。
昨年はどうだったんだろうと辿ってみたら、やはりそうでした。何を考え、どう考え、一体全体何をしたらいいのかと途方に暮れた頭を雑巾絞りして、滴った言葉を、一応の体裁を整えて書いている。解なし、つまりは進歩なしのような、あるいは進む必要のない、むやみに進んではならない課題なのかもしれないと、今更ながら、これは自分の課題なんだと、やはり堂々巡りで途方に暮れてしまうばかり。いやはや。
又吉先生によれば、宮沢賢治は「幸いとは何か」という問いに、「わからない」とだけ答えることにしていたそうな。カンパネルラにそう言わせている。 だったらぼくもわからない、としていいのではないかと逃げを打つことにして、途方に暮れながら昨年の文章と写真を、「7年」を「8年」にしてそのまま綴ります。



夕食がすむと、おもむろにパソコンとグラスを持って庭へ行く。もう8年繰り返していることなので、食事や入浴と同じくすっかり普通の行動になっている。「庭の書斎」と名付けている机に向かい、パソコンを立ち上げ、YouTubeでBGMを決め、翌朝にアップするブログを書き込み何枚かの写真を貼り付け、次にFacebookをチェックする。ここまでが夜の庭の一時限目。キッチンに戻って、空になったグラスに夏ならビールを、他の季節はそれぞれにふさわしいアルコールを注いで再び庭へ。さあ、お楽しみの始まりだ。BGMを歌のないものに切り替えてから本を開く。
30分か、長くても1時間ほどでメラトニンが効き始めて現世から意識が遠のいて行く。心地よく目を閉じる。そのまま頭の重さで首の後ろが痛くなって覚醒するまでの夢見心地、実のところ、本を読むこと以上に、このうつらうつらする時間が楽しみなのだ。



植物は雨が好きです。
ぼくも好きです。
今朝はことさらに。
ひと雨ごとに雪の嵩が減り、菜の花、つくし、ふきのとう、
こぶし咲くあの丘、北国の春はもう間近。
「春の雨はやさしはずなのに」と歌った小椋佳は、春以上に春の人。
そう思う凡人のぼくは、凡庸に春に照準を合わせて、
せっかくのこの奇跡のような季節を
希望という概念に重ね合わせたいタイプなのです。
春来りなば、不可能に、希望を宿すは春めくやさしさなり。

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ひとつ不思議に思っていることがある。そのレム睡眠時に脳内で繰り広げられる浅い夢に、悪夢の類いはこれまで一度もなかったということだ。よく臨死体験者がお花畑にいたと証言するのに似ているかもしれないな、と思ったりもする。あらゆるケースの臨終がそういうものであるなら、神様はなかなか素敵なお方だと思う。



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あの日から8年が経った。あなたのこの8年間はどんなものだっただろう。ぼくは、いいことなのかどうかわからないがぼーっとした性質なので、振り返ると、浅い夢を見ているようで、庭に出続けてきたこと以外、あの出来事に対して具体的にどうこうということがあまり思い出せないでいる。



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たくさんの無念は安らかな場所に行き着けただろうか。その無念を引き受けて現世で奮闘した人たちは、悪夢から解放され穏やかな泣き笑いの日常を取り戻せているだろうか。8年の時間が功を奏していたら良いのだが。避難、除染、防潮堤、移住。きずな、負けない、忘れない、頑張れ。出来事と言葉が過去の方角に散らかっているように見える気もする。



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「ぼくはぼくの持ち場で」と8年前に書いた通りに、あの月明かり夜の、再び会うまでの遠い約束を果たすべく庭に出ることを続ける。庭で見る夢にまだ一度も悪夢がやってこない不思議を探求するためにも、まだこの夢の途中に居続ける。
きずな、負けない、忘れない、頑張れ。庭にいると言葉は濁ることなく、ねじれることもなく、その言葉通りの意味で響くというこの不思議も、ぼくの持ち場における探求課題のひとつだ。



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