春の土日は相談会さながらにいろいろな庭話が持ち込まれます。その中には成長を遂げた庭木や草花を扱いかねて、はてさてどうしたものかというものも多く、さらに進んで熟考の末に例の結論を導き出してからご来店され、木を伐採し、芝生を剥ぎ取り、庭をコンクリートで埋め尽くしたいのだが(もう手入れはうんざりだ)、という、主に中高年男性からの相談もあります。ぼくとしては、いかにすればその庭が苦労の場所から幸福なる暮らしの場所に変貌するのかをお伝えしたくて、その男性の表情をうかがいつついろんなアプローチでお話しするものの、つまるところ1ミリも伝わらないこともしばしば。ああ無力、ああ無情ジャンバルジャンビクトルユーゴー作と、懐かしきかなオールナイトニッポンの甘くほろ苦いサンバと共に鶴光のセリフが浮かぶこともしばしばなのであります。





庭っていったい・・・庭っていったい・・・持たざる者は憧れ、持つ者は持て余す庭っていったい・・・。まあやむなし仕方なし、昭和時代の庭観は「植物を育てて眺める」というもので、それが平成に入ってから「眺める」がなくなり「植物を育てる」だけが残り、つまりは暮らしのお作法として「手入れをする場所」というのがスタンダードな庭の概念だったのですから。わざわざ相談に来られるくらいだからみなさん真面目です。その真面目さゆえに、きちっと世情に乗って、目立たぬように、はしゃがぬように、平成の庭スタイルを堅持してきた結果が「庭なんぞは潰してしまえ」という結論へ至ったことを微塵も責めることなどできないのです。
さて、この悲しき口笛が聞こえてるような、悲しき雨音が響いてくるような状況は令和の世でどのように展開するのでしょう。お若い人たちは放っといても庭を楽しむ方向に行くことでしょう。それは日々実感しています。ただ気になるのはご同輩と先輩諸氏。似合わぬことは無理をせず、人の心を見つめ続ける時代遅れの男たちはお爺さんとなり、今さら庭に意欲など持てないのかもしれないなあと思ったりもします。庭は老後の楽しみだと先送りにしてきた先輩方(10000回は聞いてきた台詞)、あれは団塊団子レースを勝ち上がるために、家庭のことを二の次とせざるを得なかったゆえだったのでしょうか。
もう暮らしに余裕も生まれて、家族のことを考える時間は有り余るほどあるじゃないですか。たまにやってくる孫の顔を思いつつ花咲か爺さんになるとか、忙しさの中でさんざん憧れた田舎暮らし的に野菜づくりを楽しむとか、はたまた庭を碁会所にするとか、なんでもいいのでその場所があなたとご家族の暮らしを彩る場所になるように、どうかご再考を。植物を引っこ抜いてコンクリートで埋めてみたところで、苦労は減るでしょうけど、それによって暮らしに幸せが広がってゆくとは考えづらいですから。



目まぐるしく花が入れ替わる風景にあって、
ホトケノザの息の長さは驚きです。

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 開花の確認は正月二日の朝でした。

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冬をしのいで春となり、

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盛りを迎えたのが三月。

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GW間近となっても衰え知らずに咲き続けています。

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これぞ雑草魂なり。

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仏様は今日もしぶとい老後を送っています。



例月に和む風を感じつつ「いろいろあったが、ああ、なかなか良い人生だったではないか」と、仏の顔で開花いたしましょうぞ。「亡くなったお爺さんが、もう庭はこりごりだって言って全面コンクリートにしちゃったのよねえ。まったく、昭和生まれって発想が貧しすぎ」とか言われませぬように。
仏も昔は凡夫なり。お釈迦様だって、イエス・キリストだって、必死のパッチで冬を越え、めぐり来た季節にようやく一輪の花を咲かせたのですから。