われらホモ・サピエンスが落ち込んだ気持ちを回復させる方法は、200万年前の旧石器時代より決まっています。音楽などの芸術、他者との触れ合い、運動、睡眠、食事、そして自然に包まれること。中でも自然は他の方法を包括しているので、つまりヒトを健全な精神状態へといざなう刺激となるのは自然な芸術、自然な触れ合い、自然な運動、自然な睡眠、自然な食事ですから、つまりは自然を浴びてその世界と同調することが、健やかなる人生に欠かせないものなのであります。
だからもしもあなたが気分転換を必要とする不自然な状態に陥ったら、森へ、海へ、リゾート地へ、近所の緑濃い大きな公園へと向かってください。あるいは小さな庭があるなら、いち日の締め括りにお気に入りの飲み物と本を持ってそこへ行き、ゆったりと腰掛けて、静寂という自然の音に浸ってしばしの時をお過ごしいただければ、あなたは石器時代から縄文時代という、歴史上ヒトの心が最も豊かであった頃のご先祖様によって(継承されてきた遺伝子によって)、ドロドロとした窮地の沼から掬い上げられることでしょう。



夜の山下公園がすごいことになっていました。
 
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さすがは横浜、日本有数の観光地。

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まるで絢爛豪華なガーデンウェディング会場ようです。

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ため息とともに、当時は暮らしが不安定でまともな式を挙げていないぼくらに、
神様が粋なはからいで会場を提供してくださったのかと都合よく妄想し、
女房と二人、人影まばらなヴァージンロードをそぞろ歩き。
 
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さすがに腕を組むことはなく、バラを見ながらばらばらに。
でも脳内には高らかに、厳かに、パパパパーンと、
メンデルスゾーンの結婚行進曲が鳴り響く。

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まあ、歩きながらずうっと仕事の電話をしていた、
新婦の脳内を測り知ることはできませんでしたが。



昨晩は、梅雨らしく湿った風を楽しみながら、庭の書斎で数年間つまみ読みのを繰り返していた、人類史学系&行動心理学系数冊を並べて気の向くままにペラペラと。いやあ、はまったはまった。本とは面白いもので、音楽と同じで必要な時に開くページはドンピシャリのドンジャラホイで、点々繋がり線となってひとつの世界が立ち上がってくるんですよね。その結果と言いますか、思いがけずと申しましょうか、長いこと喉の奥の方に引っかかっていたイワシの小骨が物の見事に外れたのであります。
外してくれたのは、ご存知、夜の庭でのわが友であり師と仰ぐチャールズ・ダーウィンと、もうひとり、自分的に「今週のスポッッッッットライト!」で突然浮かび上がった、アメリカの霊長類学者であり発達心理学者であり認知心理学者であるところの、つまりこの3つを専門分野とすれば必然的に導き出される、「人類はいかにして言語を獲得したのか」というテーマで高名なマイケル・トマセロ博士でありました。
なんとなんと、トマセロくんは挨拶もそこそこに、ぼくの親愛なるダーウィンが唱えし偉大なる進化論、その核となっているかの有名な言葉「適応せよ。さもなくば亡びよ」を、疲れを知らない子どものように、恐れを知らない大人となって否定し始めたのであります。

いやいやダーウィン、そんなに厳しい理念を持って生きていた人類なんていなかっただろうよ。いたとしてもだよ、それは今でいう未熟にして異様に潔癖な純粋まっすぐ君の青年病者みたいなもので、そのように偏って、傾いたまま力んでいるような病人が進化を生んだなどということはありえないって。

おいおい新参者、何を言うか。進化とは、変化に対する適応力に違いないのだ。環境変化による不足に適応したからこそキリンの首は伸び、オタマジャクシはカエルになり、女性は美しくなり、男性はたくましくなったのだ。異論を挟む余地はない。

ほら、すでにおかしなことを言っている。女性は美しくなったかな?まして男性がたくましくなったなどというのはギリシャ神話かおとぎ話か、現実と乖離した幻想としか思えないのだが。つまりだな、ヒトを神に近い特別な存在だと、あなたの論を否定しまくった宗教界と同じフィールドにあなたも立って物事を捉えているからいるからそうなるわけで、見てみなさい、地上の最大勢力である昆虫を魅了する花の美しき進化はヒトの女性の比ではない。ヒトが魅了できる昆虫はヤブ蚊くらいのものだ。それに男たちはどうだ。弱い、あまりに軟弱な精神と思考で家庭環境の変化に適応できず喘いでいるではないか。弱き者、汝の名は男だ。その辺をうろつくゴキブリの方がヒトのオスよりはるかにたくましい。オスはその発生から現在に至るまでゴキブリ以下のひ弱な種族のままなのだよ。

ずいぶんと卑下した悲観的な見地だな、我らがゴキブリ以下だなどと、ふん、くだらん。

ダーウィン、もう少し続けさせてくれないか。まだ本題に入るための前提、イントロダクションだ。
いいかい、ヒトは弱い存在だった。ゴキブリとは言わないまでもネズミ以下であることは間違いない。十数種類いたヒトの種族は次々滅んで、かろうじて生き延びた唯一の種であるホモ・サピエンスの運命もすでに風前の灯火であるということに、異議を唱える学者はひとりもいないのだよ。それに比べてネズミの歴史たるや、ヒトが直立する何万年も前から今日まで営々と続いている。これこそ種としてのたくましさだと思うのだが。

詭弁だな、若造。それでいったい何が言いたのか。後の世で大いなる賞賛を得た私の進化論を愚弄することは、恐れ多くも神への反逆に等しいことであるぞ。

神への反逆?う〜んまったく、爺さんは頭がガチガチで困る。あなたにこそ進化が必要ですな。その前に、カビが生えてそろそろ化石化しそうな論理に凝り固まったあなたの脳を、韓国伝来の超痛いコルギでマッサージして差し上げよう。
よいですか、ヒトは弱い種族だった。だから生き延びるために協力する必要があったし、そのためには良好なコミュニケーションが不可欠だった。何も環境の変化に適応して自らを変化させたのではなく、外的変化に怯え、震え、親子で、夫婦で、仲間で、身を寄せ合って耐えたのですよ。狩りだって大勢の協力なしにはマンモスを倒すことなでできるわけもなく、牙で突かれ、巨大な足で踏みつけられ血反吐を吐いて死んでゆく仲間の姿に涙して、涙の数だけ強くなっていったのです。強くなったといってもあなたが言うところのいさましき強さへの変化とは違う。まったく逆です。優しさを得たのです。弱者故の悲しみを慰め労わり合う優しさを得たのです。その表出が、他の種には見られないほど長期にわたって子育てをする愛情と、もうひとつが言語能力。もっともこの進化もあなたが言うところの変化に対する適応であることに間違いはないのですが、しかし「適応せよ」などという自己啓発セミナーのようなニュアンスは大間違い。それは絶対に間違っている。ネアンデルタール人をご覧なさい。われらホモ・サピエンスよりも大きい身体と勇猛な精神を持っていた彼らは、家庭や社会で繊細なコミュニケーションを維持する必要がなかった。腕力で獲物を捕らえられたし、言葉など使わずとも食べるに不自由しなかった。だがそれが仇となって内輪揉めを繰り返した挙句に、氷河期の寒さと空腹に耐えるすべを見出せず滅んだのだと言われているではないか。強さは脆いのですよ、ダーウィン先生。

んん・・・しゃくにさわるが、うん、そうかもしれん。確かに弱い者が強くなる例はあるが長続きしない。強くなるともっと強い者の標的になって滅ぶのだ。あるいは傍若無人な振る舞いによって孤立する。強者の論理はついには戦争をおっ始めて自滅するという、これも嫌という程繰り返されてきたことだしな。私の論を歪めて解釈したアドルフが優生思想を唱え、アウシュビッツで行なった卑劣な愚行についても長年嫌な気分が消えなかったのだ。愚か者は何事も愚かな受け取り方しかしないから愚か者なのではあるが、ヤツが正当な選挙で選ばれ、ドイツ国民の熱狂に支えられてあれを行なったのだから、つまりはドイツ国民も愚かだったのかと思い至ってしまうがさにあらず、多数の総意が進化となってゆくのだからして、さすればあの悲劇も適応の一過程だったと結論づけることこそ愚かであるし、いやはや、痛い小骨にずっと悩んでいたのだよ。そうか、う〜ん、若造、なかなか興味深い洞察であるぞ。

先生、恐れ入ります。

だがそれでは、進化の仕組みをどのように表現したらよいのだ。「適応せよ、さもなくば滅びよ」では君のお気に召さないわけだろう。

では、せん越ながら。

耐えよ、愛する者と身を寄せ合って耐え忍べ。

未来のために変化するなどということをヒト以外の生物は誰ひとりとして考えたことがない。一部の鳥類を除いて明日のことさえ考えない。苦難に耐え、恐怖に怯えながら、身を寄せ合い、いたわり合い、励まし合い、今日を何とかかんとかやりくりしながら眠りにつくことを繰り返すのみ、それでいいのです。そのギリギリのやりくりから発生する人間らしい優しさと、ミュータントや異端の者をも受け入れいたわる寛容な態度こそが健全なる進化を生むのだと考えています。アドルフの人格にはそれが欠落していたのだと。

おお、わかったぞトマセロ君。愛だね、愛、愛こそがすべてなんだね。そうか、そうだったのか。適応せよなどと、私は何という乱暴な物言いをしてしまったのだろう。

先生、ご理解いただけて光栄です。ではご一緒に庭へ出て、愚妻が家計をやりくりして蓄えておいてくれた上等な酒を飲み交わしましょう。ああ、バラがあんなに盛大に。花の香りと潮風のハイブリッド、今夜は何と心地いいことか。

トマセロ君、この庭はまさに愛ある世界だ。花も木も芝生も、鳥や虫たちも、光と風の祝福を受けている。何だかじわっとくるよ。弱者が育む愛情によるバランス、それが生態系なんだね。そしてぼくら人類の生き残りもそのシステムの端っこで、今日も家計や病気や介護や子育てや仕事や庭の雑草に四苦八苦しながら、それぞれに、懸命に愛ある家庭を築いている。とてもいい気分だ。さあ、大いに飲んで歌おうではないか。
ごらんよトマセロ、庭に、いつの間にかこんなにたくさんの聴衆が集っている。今宵導き出された結論に対し、偉大なるイギリスの民衆は賛同してくれているのだ。





先生、この光景は先日横浜山下埠頭で開催された横浜セントラルタウンフェスティバルY160のファイナル、クレイジー・ケン・バンドのステージのようです。

Y160?クレイジー?なんじゃそりゃ。

まあいいです、横浜をご存じない先生には説明しても伝わらないことですから。ぼくはあの夜、バラ香る埠頭を渡る風に酔いながらの興奮と感動で、『透明高速』と『GT』と『空っぽの街角』にジンと来て、ブルーライト横浜の街の灯りが滲んで仕方なかった。気になさらないでください、私的で詩的で素敵なノスタルジーです。

ふむふむ、なんとなくわかるよトマセロくん。わたしにもあったなあ、そういうこと。その曲は多分、きみを最も苦しめた最愛の女性が好きだった曲だろう。

御意、さすがは先生。

トマセロよ、きみは進化の本質を心得ておる。愛だよね、愛。

はい、やすやすとは報われないからこそ、なのかもしれませんが、間違いなく。





ということでダーウィンの進化論は、弱くて優しい猿、ホモ・サピエンスにふさわしい進化を遂げたのでありました。めでたしめでたし。