『闘争のエチカ』は1994年、フランス文学者で小説家、日本の文芸・映画評論家である蓮實重彦の著書。後にジャズ・ミュージシャンにして文筆家の菊地成孔が、膨大な量の著作と音源をUSBに詰め込んで発売した前代未聞と言えるアルバムのタイトルに使用している。
エチカ、エチカ、意味不明だが魅惑的に響くその単語をググってみたら、それは「倫理学」の意で、17世期オランダの哲学者バルーフ・デ・スピノザの著書の名前、正式には『エチカ - 幾何学的秩序に従って論証された』だ。あまりに難解そうなその中身を庭の書斎でふた晩かかって検索し、混沌からようやく、超要約してみたところこのようになった。

神様ってのは自然のことなんだから、それに従ったほうが生物的幸福が得られやすいよ。ただしあなたに、幸福になりたいと身悶えしているあなたに、生物的幸福と人間的幸福を合致させる能力があればってことだけどね。

つまり老子と同じことを言っている。老荘思想・道教・タオイズムはここに帰結する。さらに言えば神羅万象八百万を神とする古事記の世界にも合致していて、ブッダとキリストがそうであるように、だいたい偉大なる者は本質的に同じことをもうされる。しかしこれまた同じこととして、「なんでこんなにまわりくどく難解な表現なのかなあ」ということが一点、もう一点は「やはりそうか、あらゆる苦悩は不自然さから発生しているのだ」と。点点連なり線と成し、点から一転、思考は庭を描く線へとワープする。それは曖昧に見え、曖昧がゆえに自由であり、自由だから無限であり、しかしそこに隠れている秩序を失うと突然ワヤになる曲線のこと。曲線、蛇が進む時に似て柔らかでしなやかにして力強く曲がりくねった道。『長くて曲がりくねった道』というかの名曲の録音時、ポールはめずらしく、壮大な交響曲的に仕上げることを目論んでいた演出家に食ってかかったという。「そんなにドラマチックな音にはしないでほしい。この曲はありふれた、ごく自然な営みを歌っているんだから」と。もはや半分は商業的な営業集団になっていた当時のビートルズにおいて、世界的なアイドルではあるがまだ神には程遠かったタレントの言い分がどこまで受け入れられ反映されたかは定かでないが、仕上がりはご存知の通り適度なドラマ性を奏でているので、ギター1本でやりたいというポールの意向は通らなかったものの、雨降っていい具合に地面が固まったということなのであろう。



風が秋めいた日、庭に1年ぶりのお客様。
ミーの餌食にならぬよう、チャウチュールでおびき寄せ、
しばし部屋に閉じ込めた。
どうぞ逃げずにごゆるりと。

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そんな線を引きたい。自然で、自由で、しかしあくまでエチカを逸脱しない線で描きたいと、揺るぎなく思っている。それが引けるコンディション維持のために最良の掃除や食事や睡眠や洗濯を選択しているとも言える。長く曲がりくねった道を行く人たちにこそ必要とされる蛇のパワーを持った線を描くために。という現象というか現状というか、決心みたいなものを刻みたく思い、蓮實重彦氏、菊池成孔氏による『闘争のエチカ』からインスパイアということで、『逃走のエチカ』と改め本日のタイトルとした。



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闘争か、逃走か。自然界において逃走下手は命取りだ。だが裏腹に、蜜に夢中のままカラスによって瞬殺されるカブトムシ、お役が済んだらメスにむしゃむしゃと貪り食われるカマキリのオスはどう解釈すべきなのか。進化論に照らすまでもなく、そこにはとてつもない快楽があるに違いないわけで、生態系保持に寄与すべく神が与えし至福と引き換えに命を献上せよという、「神即自然」を取り仕切る造物主の思し召し。でもね、でもね、でもねったらでもね、ヤダねったらヤダね、猿は昆虫ではないわけで、生物的幸福にピタッと寄り添うことなどできようか。できはしないのですよ、無体なるカマキリ夫人の皆々様。ああ人はむかしむかしカブトムシだったのかもしれないね、こんなにも、こんなにも、森が恋しい。



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ソモサン!再び問う。闘争か逃走か。セッパ、人は闘争から逃走できない運命を背負わされている悲しい熱帯魚、じゃなかった悲しき雨音に悲しき口笛を吹き、肩より低く頭を垂れながら直立二足歩行をする裸の珍種猿なり。生態系の王を気取っているが、その実は、少年は叫んだ「王様は裸だ。あはは、王様が裸で歩いているぞ」と。逃げられないとなればキュウソネコカミ、猫神様にトランスフォームして時代に爪痕残すべく仕事仕事とワーカホリックもこれまた止む無し、止む無しとは虚しいかもしれないが、それが男の生きる道(植木等)、これが私の生きる道(PUFFY)と開き直るは猿知恵なり。運命とあらば闘おうではないか。何と?不自然さと。その戦略として逃げ上手になること。逃げるは恥などと、それこそが集団幻想の罠なのだ。それじゃダメなのだ。逃走するんですよ、闘争として。じゃなかったら殺されるんだから。誰に?不自然な思考で不健康に責め立ててくるモラハラパワハラ大明神、こともあろうに自分を神格化している気を病んだ者たちから。え、どこにそんな人がいるのかって?日々あなたを煩わせている人の顔をよーく見て、観て、診て。次に鏡の中にいる人の顔を。



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ではどこに逃げればいいのか。自然の中へ。つまり、詰まるところ、庭へ。そしてその巣にて、素の自分を探すのだ。ポールはなぜあの時、信頼するプロデューサーのジョージ・マーティンに激しく抵抗したのか。「もっと自然に、もっと普通のこととして」。後年リンダを失い、さらに何度も最愛の人との別れを繰り返し、その度に名曲を生み出しつつ長くて曲がりくねった道を進み続けているポール・マッカートニーの才能は、素の自分と向き合うことに長けていたこと。ポールのエチカはスピノザが提唱した通り幾何学的秩序(神即自然)に合致し、いつも神の声(内なる自分)に従って来た。その神のことを、すなわち素の自分を、自分が神なのではなく自然な自分の前にいつも降臨し導いてくれる偉大な何かを、マザーメリー(聖母マリア)と称していたのであろう。さあ眠りなさい、疲れ切った体を投げ出して、おっと間違えた、これは聖母の子守唄。苦難の時にいると気づいた瞬間マリア様が降りて来て、素晴らしい言葉をくれたんだ「レット・イット・ビー、レット・イット・ビー、身を委ねなさい」ってね。つまり、詰まるところ、つまびらかにするは、聖母とは自然のことと見つけたり、ということだ。ユーノー?オーライ?闘争か、逃走か。逃走のエチカを庭にて探求するがよし。自然であれ。素の自分であれ。あれあれ、大変だ、オーマイガ!神が聖歌を歌い始めたぞ。では皆の衆、ドンミッシン。