「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
 僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章など存在しない、と。

 しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
 8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。ーーー8年間。長い歳月だ。
 もちろん、あらゆるものから何かを学び取ろうとする姿勢を持ち続ける限り、年老いることはそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
 20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってこなかった。僕はその間じっと口を閉し、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。




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 ファンにはお馴染みのこの文章から始まる物語を書いた小説家に、気がつけばかれこれ40年も付き合わされているのです。付き合わされている、というのは、ぼくは世に言うところのハルキストではないし、デビューからの四部作と短編集には熱く夢中になったものの、彼がヨーロッパへ移住した1986年に熱病は治まり、その後の読書は古典ハードボイルドへと移行していきました。それでも当代きっての人気作家と手を切ったわけではなく、片岡義男から射してくる明るく軽やかなリゾート感と、チャンドラーの渇いたシニカルをミックスしたような不思議な文体に引き寄せられて、出版されれば読み、読まなくてもついつい買ってしまう繰り返し。「付き合わされている」という言いまわしは、実のところこの小説家お得意の言い回しであって、それは嫌なことではなく、ビートルズがそうだったように、自分の半生とも言えるほどの長い時間の心地よい BGM だった感じがする、という意味です。つまり多感であった頃に流れていたヒット曲が、長生きをしているうちに、いつの間にか教科書に載るほどのスタンダードとなっていた、村上春樹という作家はそういう存在でした。しばしば思考回路のネジをスムースに動かす潤滑油であり、体の疲れと気分の澱みが吹き飛ぶビタイン剤であり、時には進行方向を教えてくれる方位磁石の針だったものですから、現世での数十年間、ジョギング好きな彼と並走できた幸運を、神様に感謝せねばと思っています。



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 先日女房がこんなことを言いました。「あなた、大変大変!産業革命の頃から続いてきた『土の時代』が終わって『風の時代』に入ったらしいわよ」と。やれやれ、彼女はBという特異な血液型のせいか、時々クラクラするほど意味不明なことに興奮しては報告してきます。どうやら自称ヒーラーお得意の占星術から得た知識らしい。興奮状態にある女房に冷や水をかけるような愚行は避けた方が良いという文殊の知恵に従い、ぼくはしばし、とても興味深そうな顔をして高説を拝聴。しかしながら、やはり、修行を極めた文殊菩薩ほどの徳に達していないため、機嫌よく頷く動作に限界を感じ、途中で仕事を理由にして逃げ出してしまいました。こういう場合の彼女の結論は常に同じで「だからあなたはダメなのよ」に移行することを知っていたし、逃げ出す直前にやはりその手の文言を突きつけられたもので、いたたまれなくなりまして、三十六計逃げるに如かず。
 そうやってステップバックで遠ざかったものの、キーワードである『風の時代』がどうも気になる。浴びせられた不愉快な言葉の中に不可解をひとつ置いていくあたりが、ぼくが何よりも苦手とする彼女からのバッシングが、単に嫌がらせとか、ストレス解消ではなく、何かしらをぼくに伝えようという意図があってのことなんだなあと、いつもそれはわかっているのです。
 我が女房殿に限らず、血液型にも関係なく、女性というものは年季が行くほど連れ合いに対して上から目線で、とても否定的な物言いになってくる。針小棒大にクドクドと、何度も何度も。かれこれ4年にも渡って続く(ーーー4年間。長い歳月だ)そういう扱いに抵抗し、ぼくの精神は相当に疲弊しました。ある時意を決し「ぼくはあなたの敵ではなく最大の味方なんだから、そんなにいちいちダメ出ししないでよ。そういう言い方は自分が損をするだけだよ」などと抗ったことがありました。結果は即時反撃の猛攻にあえなく撃沈。もう精神的にフラフラで、我が身のその哀れをついつい愚痴めいて、年長のお客さま(全共闘世代の、闘志ではなくヒッピーだったと、ライカ片手に世界を放浪したと語るジェントルマン)に吐露したところ、おおこれぞまさしく文殊の知恵、実に見事な回答が返ってきたのです。

 ははは、それはね、ファンタジーだと解釈したら全て解決。女性は年を取ると退行する。男は少年ぽくなるでしょ、それと同じ。あなたを母親的に子供扱いすることによって自分のレゾンレートルを確認するんですよ。だからあなたは少年に戻って頷けばいい。お母さんの口うるささは間違いなく、子育てをする女性が持っている本能的な愛情に基づくものなのだから、少年のあなたは手を繋いでいる母を見上げて頷く、それでいいんです。絵本を読み聞かせたり、昔話をしてくれたり、突然びっくりするようなおやつをくれたり、そういう、母が授けてくれるファンタジーの延長が奥様の小言なんですから。ぼくもそうだが、孫がいる年齢になり、夫婦が子供とお母さんに戻る、という設定であると解釈することもまたファンタジーですよ。いいのいいの、それが退行進化。何を言われても気にしない気にしない。せっかくお互い残り時間を考える歳まで連れ添ったんだから、あとは機嫌良く、仲良く、ヘラヘラと半分ボケたようになって暮らすのが正解なんじゃないかなあ。

 父がよく言っていたこと、「お前は不思議だ。それだけ好き勝手やってるのに、行き詰まるといつも他所様に助けられるなあ」。またもやでした。もうねえ、一瞬にして目から鱗がハラハラと落ちまして、確かにそうだなあって思いました。退行進化、ファンタジー、夢幻の如き愛ある世界。折りしも幼児が犠牲になる事件事故、戦争、悲しい出来事が立て続いて、哀れで、悲しくて、何度泣いたでしょう。その中で小さな救いだったのは、亡くなられたお嬢ちゃんのお母さんが、捜索に当たってくれた人たちへの丁寧な感謝をコメントしたこと。そして「これからは静か見守ってください」と。ああいかん、また泣ける。どれだけの精神力でしょうか。そして静かに見守ってください、という言葉の中に、あのお母様は娘の死を、今後に待ち受けている長い長い時間を使い、ファンタジーに変換しようと決心されたのだと、そう感じました。どう考えたって、そこしか出口はないのですから。



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 ファンタジー、例えば河童です。悔やんでも、たとえ犯人を探し出して仇をうっても消えない悲しみ、気が狂うほどの辛さを癒して、心に決着をつける。古来より、そのために妖怪変化の類は生み出されてきました。神隠し、天狗、龍、座敷童子、遡ればスサノオが討った八岐大蛇伝説。遠野物語や宮沢賢治の世界は、か弱き人間が苦難を乗り越えるに必要とした癒しや神がかりを、パチパチと火が熾きる囲炉裏端で、お爺さんお婆さんがトントン昔として孫に語り継いできた物語。辛いけど、それでも生きなきゃならんのだ、という決心に基づいた智慧の結晶が、尻子玉を抜くと言われる恐ろしい、しかし必ずユーモラスな妖怪、河童なのであります。



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 女房は子育ての母へと返り、自分は少年となり、そこにはファンタジックなる世界が広がっているのであると理解すれば、小言にいちいちイラつくこともなく、「うん、わかったよ、お母さん」と、瞳をキラキラさせて頷ける自分。「しょうがないわねえ、この子は」と、厳しくも慈愛に溢れた母の顔の女房。きっとこういうのが人生の楽園、二人の桃源郷なのでしょう。歳はとってみるもんですなあ。



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 まあそれはいいとして、母(女房)曰くの『風の時代』ということが引っ掛かったままになっていたので、庭の書斎で数晩を費やし調べました。Revolution is Evolution 、もしかするとこれがささやかなるマイ・レボリューションのきっかけになるかもしれない、そんな予感がしたものですから。さよなら sweet pain 頬づえついていた夜は昨日で終わるよ。確かめたい、君に逢えた意味を、暗闇の中目を開いて(My
Revolution)。
 するとこれが面白い面白い。どうやら巷ではそこそこの話題になっていることらしく関連本が何冊か出ています。検索したら記事の数も果てしなし。彼女から浴びせられた「あなたの思考は古いのよ。いつまで10年前の話を繰り返しているの?だからあなたはダメなのよ」という弾丸は、今回は見事に的を射ているなあと思った次第。風の時代・・・かあ、ちょいと本気で勉強してみるかな、となりました。そうと決まれば真面目なA型は即行動開始。このことに関して、怪しげなネット記事ではなくちゃんとした本の活字を読まねばなるまい、と思い駅ビルの書店へ向かいました。数冊をぺラペラして選んだのがこれです。



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 吟味したつもりが、これもネット記事同様スピリチュアル漂う占星術本でした。とはいうものの骨子は女房が興奮気味に話していた通り、とても刺激的で興味深い。アロマセラピーであれ、オーラの泉であれ、宗教めいたことであれ、それらは河童と同じく人類にとって必要なことなのですから。ただし、霊性の湖は美しく光を反射する水面と裏腹に、湖底には泥が溜まっています。下手に入り込んだら足が抜けなくなり、か弱い者や苦境に喘いでいる者なら足を取られて、ついにはナルシスのように水中深くまで沈んでいってしまう。故に賢き世の多数派は一般論と前置きをして、霊感商法、カルト、洗脳、などの文言でその危険性に警鐘を鳴らし続けているわけです。
 村上春樹、『羊をめぐる冒険』の下巻にこんなセリフがあります。「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしているんだ」。そう、全くもってその通り。あらゆる悩みも苦しみも、犬も食わない個人的な出来事。痛みも悔やみも個人の範疇からはみ出ることはない。だから個人が個人の思考で個人的な正解を導き出さなければならない。個人的課題に一般論など役に立たないのだ。ハードボイルドエッグな思考です。春樹氏はチャンドラーを何冊も訳しているし、最も好きなハードボイルド作家はロバート・B・パーカーであると言っているし、彼の思索の庭に、マーロウや、スペンサーや、ぼくがこないだ読んで好きになった、ダ・ヴィンチ・コードに登場する大学教授ラングドン、そんな仲間が集っているのでしょう。
 彼らは占いを信じるタイプではありません。唯一信じているのは神でも悪魔でも、聖書でも法律書でもなく、自分自身だから。レベルは違えど大筋ではぼくもそうなので、一般的な躊躇を蹴飛ばし霊性の湖に入ってゆくことにしました。ただし命綱として、本の半分を占める占星術の箇所はすっ飛ばし、興味に即したエッセンスだけを抽出するという手法で。
  小説と違い、雑誌や専門書の類いは流し読みしながら必要としているポイントだけにマーカーを引き、付箋を立てる、そんな消費の仕方が許されます。所要時間2時間ほど。そして翌日、夕飯を済ませ庭の書斎に出て、YouTubeでジャズナンバーを選択し、宿題に取り掛かる気分で付箋のページを開いてじっくりと読む。 



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 霊性の湖水から抽出した主な内容は以下の通りでした。

 占星術上のタイムラインには火・土・風・水という4つの主軸があり、それぞれが200年〜240年の長さで繰り返し入れ替わってゆく。産業革命に端を発した土の時代が2020年に終わり、次は風の時代がやってくる。それは折りしもか、奇しくもか、Beforeコロナ→ Afterコロナと合致する。コロナ以前が土の時代で、これから来るコロナ以降の世界は風の時代となる。

 土の時代が物質重視、効率優先、立身出世、権威主義、つまり「高邁なる夢を語り、大志を抱いて頂上を目指せ」ということが時代的価値であったことに対して、次なる風の時代は、まず最初に突風が吹き荒れて、それら土の時代の価値観が無惨に消し飛ばされ荒野となる。そして人々は物欲や出世の呪縛から解放され、空気感や精神を重視し始める。

 サン=テグジュペリが言うように、心や、愛情や、目に見えない事柄に価値を見出すようになる。敷かれたレールに乗るのではなく、いくら稼ぐかではなく、無から何かを生み出す確固たる自己のスタイル、独自の価値観を確立した者が幸運なる生存者となる。
労働を苦役から生き甲斐に変化させ、利益のためではなく、楽しさのために働く。

 宗教、団体、会社、SNS、やたらに群れたがることから離脱し、情報を少なく、これまでの『形・お金・ポジション』に引き寄せられることから、『バイブス・波長・波動』に同調しながら相手の『知性の質』に同期してゆくコミュニケーション、小規模な内輪での家族的コミューン形成が望ましい。

 土に時代に英雄視された企業戦士など、過剰に働く者は滅んでゆく。風を読み、上昇気流に翼を広げ、悠々と行く者が天高き世界の幸福を手に入れる。それは同時に、混沌とした地上で自らの権利を主張することから、天空からの視点で、私ではなく私たち(家族)の平安を維持するために生活することが重要になる。

 土の時代では、人格に多少の
歪みがあっても数字で成果を上げれば成功者となった。風の時代ではそうはいかない。健康な精神で風向きを察知しながら暮らす者、心身のバランスが自然と合致する者ほど楽々と幸福に至ることができる。

 マスコミ報道や風潮と無縁に、自らの五感を通して得た理論に従う行動で蓄積した経験則によって、アストロジカルな(宇宙・自然とシンクロする)生き方を目指す。不自然な考え方や言動は弊害を生んでしまい、利己的で、家庭や社会で笑顔なき暮らしを続ける者は淘汰される。

 蓄積(蓄財)の時代は終わった。今後は軽やかに稼ぎ軽やかに使うこと。富を増やして残すよりも、いかにして循環させるかが重要となる。単なる消費ではなく、お金と共に知恵を使い、周囲の人と喜びをシェアするというタイプの人にのみお金が巡ってくる。あまり欲しがらない人にちょうど良く、それが良好な循環。ケチケチし、ガツガツすると貧しくなる。

 恋愛や夫婦関係においては、これまでは派手でパワフルで、社会的な能力値が高い相手を理想としたが、これからはそういった対外的スキルではなく、無人島でも一緒にやっていけそうな人、常にこちらの表情筋を緩ませてくれる、副交感神経をオンにしてくれる癒し系がパートナーの理想像となる。

 ざっとこんなところです。この本を読みながら、繰り返し大谷翔平の姿が浮かびました。彼の神がかり的にして、あくまでも、いたって普通の好青年ぶりはまさしく風の時代の申し子ではないかと。それと大人気番組になっている『ポツンと一軒家』。人里離れて暮らす人の精神と笑顔の、何と健全に輝いていることか。いち早く風をキャッチした者たちの日常は、何と溌剌と楽しげであることか。
 読み進め付箋部分を反芻するうち、疑問というか疑惑も浮かびました。予言的な部分が当たりすぎている。これってもしかしたら後出しジャンケンかも、と思い調べたところさにあらず、出版は2020年11月となっています。2020年、ロシア議会で改憲が成立しプーチン大統領の永続的地位が確定、東京五輪延期、バイデン氏が米大統領に就任、新型肺炎発生のクルーズ船が横浜港に停泊し、日本でコロナ騒動が始まったのはこの年の2月。そう思うと、その後に国内外で起こったドタバタ、悲喜劇のあれやこれやを見事に言い当てているわけで、う〜ん、占星術とかスピリチュアルな世界は、なかなかあなどれないものです。



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  で、何故冒頭が村上春樹だったのかというと、女房が突然発した「大変大変、風の時代が来たらしい」から得たインスピレーションで、『風の歌を聴け』という新カテゴリを設けてみようかなと思い立ったからでした。そこには「あなたの文章はダラダラとくどくて入ってこない。まあ私はつまらないから読んでいないけどさ」という耳タコの批判に対して、無邪気に、素直に呼応し、ダラダラせず、一瞬通り過ぎる風の歌を聴くような言葉を記していけたらいいなあと。その風を感じた誰かが、庭を楽しむ暮らしに開眼してくれたらいいなあという思いで。自分に、はたしてそんなことができるのか、カテゴリ自体が成立するのかなど先行きが見えぬままに、とりあえず女房殿との久々の共鳴を記念して、という意味も込みで、風の向くままにスタートを切ってみます。
 と言いつつ、今日のところはもうしばらくダラダラとさせてください。風が心地よい今宵の庭のイマジネーションを、せっかくなので、書き尽くしておきたいので。そうか、このダラダラがぼくの少年性なのかもしれません。一日中、空ゆく雲を見上げて妄想し、飽きることなく蟻と話し続けているような子供でしたから。お母さん、今夜は許してちょんまげ。本編はサラッと吹きますから。 



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 『風の歌を聴け』は、若き日の、飄々としつつも悩み多き青年だった村上春樹くんが、ある日ふと「小説でも書いていみようかな」と思い立って仕上げた最初の作品です。それがいきなり群像新人賞を受賞するという思いもかけない展開となりました。積極的に目指していたわけでもない小説家という生き方へ、それこそ風の歌を聴き、風まかせに歩み始めるきっかけとなった一冊。その本編は書き出しとは趣が違い、主人公の「僕」が友人の「鼠」とビールを飲みながら展開する出来事と脳内の描写が、ワクワクすることも、悲しくなることもないままに続いてゆくもので、魅力はストーリーではなく空気感、そんな作品。つまり読者にはそこに吹いている風を感じさせるだけ。そうか、だからこのタイトルなんだと、今更それに気づきました。やれやれ、かれこれ10回は読んでいるのに。しかしこれは名曲や名作でしばしば起こることで、サラッとした表層の下に、実はいく層にも渡る仕掛けが施されているのです。それとですね、ぼくにはこれを執筆したまだ無名の彼のことが、アメリカへ渡った時の、いきなりの故障や二刀流というスタイルへの賛否など、途方もなく大きなプレッシャーと不安を笑顔で跳ね除け続けた大谷の姿とダブるのですよ。村上春樹、大谷翔平、一足先に風の時代へと駆け出した賢者たち。



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冒頭に引用した『風の歌を聴け』の書き出し、前書きの続きです。

 今、僕は語ろうと思う。
 もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。
 しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでゆく。
 弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現実の僕におけるベストだ。付け加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。

うまく行けばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてそのとき象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。

 青年の、グッとくる文章。この長いイントロダクションにこそ春樹氏の思いが重く込められていて、軽やかな本編はオマケのような、そんな解釈もできます。やはりそう、大谷同様に、村上春樹は根っから真面目なお方です。そして京都生まれの神戸育ち、両親共に高校の国語教師という境遇から授かったのであろう品の良さがあります。執筆は1978年、世界中の若者が方向を見失って長い混沌の中にあった時期に、とても当時的な、荒野を目指す青年的な、あるいは旅立つ者の決意書のようなスタンスを前置きして、打って変わってやさしく高揚感を醸し出す本編からは、何度読んでも、今でも風が吹いてくる。乾いた風、湿った風、冷たかったり生温かかったり。当時ウィンドサーフィンに夢中だったぼくにはどこを開いてもページから吹いてくるそれがとても心地よく、その度にセイルの端っこからその風を入れて、混沌の波に揉まれての立ち泳ぎから、スッと水上に身を起こしてウォータースタートを切ることができました。



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 しとしと雨の早朝、「ああ、庭で雨音とジャズをマリアージュして、ピーナッツでビールを飲りながらがら村上春樹を読んだら、どんなにかいい気分になるだろうなあ。さてと・・・仕事に行くか、冷蔵庫を開けるか、それが問題だ」という一瞬の迷いがよぎることがしばしばあります。十中八九冷蔵庫の扉は封印し、音楽だけを流してその日の設計に意欲をたぎらせますが。あ、今はマツムシが鳴く月明かりの庭で、春樹氏も大好きであろうスタン・ゲッツによる『中国行きのスロウ・ボート』を流し、パリッと焼いたチョリソーと、荒く削ったパルミジャーノでビールを始めたところ。とてもいい気分。
 この感じ、この感じ。風の時代が到来して、いよいよ庭が重要な場所になってゆきます。今後200年続く風期の戸口で、ぼくはあと何年、あといくつの庭を提供できるだろうか、などと考えると、とにかく仕事に邁進せねばと思う次第。ただし、毎晩庭でゆったりと、こうして風の歌を聴きながら。
 あ、また気がつきました。この小説には左手の指が4本しかない女の子が出てきます。読めばわかりますけど、彼女の登場が、この作品がファンタジーとして書かれていることを示しています。舞台となっているジェイズ・バー、鼠という名の友人、3ページに一度のペースで飲み続けられるビールと、床に溜まってゆくピーナッツの殻、主人公の僕、全てがひと夏のフェンタジー。それと、これに限らず村上作品にはやたらに音楽が流れている。本作ではビーチ・ボーイズ、マイルス・デイビス、ボブ・ディラン、エルヴィス・プレスリー・・・。そうか、この音楽たちが風の歌なのだ。こんな風に、風とは限りないイマジネーションを運んでくれる気象現象であり、自然界のメッセンジャーなんだなあと。
 あなたにも、どうか風の歌が聞こえますように。そんな願いも込みで、明日からまた、設計設計また設計の日々が続きます。
 


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 ではでは、土の時代の優等生である女房から突然吹いてきた、思いもかけないこの涼風に翼を広げて、新たなる庭物語の始まり始まり〜。