朝に霜柱が立つ1月とは言え、横浜では陽射しがあって風がなければ春の足音が聞こえてきます。昨日伺った鎌倉のお宅では早くも梅が咲き、盛大についたミモザの蕾が黄色く膨らんでいました。冬来りなば春遠からじと、古来より人は冬には春への希望を杖に、ザクザクと凍った土を踏んで仕事に出かけたのでしょう。



犬は歓喜したり、寂しがったりしますが、
明日のことは考えません。
猫は用心深いので、少しは明日の心配をするようです。
では脳を持たない植物たちはどうでしょう。
なんと、ひたすら未来のために今日を生きています。
面白いものですね。
さて、人はこの脳をどう使うべきか。

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冬きたりなば・・・、春の風が吹いてきたら・・・、桜咲くころにはあれをして、これをして・・・と冬には春を、春には夏の庭風景を思い描いて肥料をあげたり植え替えをしたりするのが庭仕事ですから、当然ながら庭人たちの暮らしへの思考は発展的になる。この近未来を思い描く習慣が、実のところ庭が持つ魅力であり威力なんですよね。



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人に限らずあらゆる動物には顔があります。そして顔を向けた方向へと進んでゆきます。人にはそれに加えて発達した脳により、時空を超えた世界、まだ実際には視野に入っていない仮想の世界にまで思考の視線を向けることができます。だから空想、妄想、現在の刺激にインスパイアされて閃いたアイデア、それを進行方向に、目標とか、目的とか、夢とか、目印や指標として定めることができるし、それが健やかなる人間性なのでしょう。



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コロナコロナで何が人々の気を塞がせ、振り返れば過剰だったとも思える心配や不安を引き起こしたのか、庭の書斎で枯れた芝生を見つめ、それが枯れ野ではなく芝は今、地中に注力して根を伸ばしているのである、と、庭人思考で解析すれば、何のことはない未来の不安ばかりを煽り立てられていたから。そんな言葉をカランが壊れたシャワーみたいに浴びせかけられ続けたら誰だって気分は落ち、夢と希望をメルクマールに据えることなど無理なのです。しかし、そんな報道過多も過去のこととなりつつあるような。



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日々庭を楽しむ人たちと話しながら、気がつけばさすがにもう誰もコロナを話題にしなくなりました。コロナ抜きで「今年はミモザが早そうですね」と、同じことに気づいて話題にした人が3人、「そろそろバラを切り詰めて肥料をあげとかなきゃ」と言った人が、やはり3人シンクロし、だからどうしたってことじゃないんですけど、すっごくうれしかった。この普通な感じが戻ってきたことがとても明るい傾向、春の予感に感じられて。



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庭を楽しむことの効用は庭にとどまりません。たくさんのお客様がそれを実証してくださるからこれは間違いのないこと。庭は鏡のようにあなたの現在を見事に映し出しつつ、そろそろ肥料を、雑草を引っこ抜いてくれ、植え替え時ですよ、と催促してくる。同時に、たまには庭で紅茶を楽しんだら?夜はちょっと厚着をして本を読んだらいいと思うんだけど、どうかな、などとおせっかいに語りかけてくる。こんな家族のような生活空間が存在する、庭をそんなふうに捉えてみてはどうでしょう。そう、家族のような。庭自体がひとつの生命体であるように感じられた時、幸せだなあ〜、僕は君といる時がいちばん幸せなんだ、と思える、それが庭の、そして人の健康を表している、そんな気がして。
庭が健やかなら人も健やか。庭ですよ、庭。




『 雨に負けぬ花 』

眠りの回廊を通り抜け
暗く深い影を通り過ぎて
僕の心は混乱の中を踊り 跳ねる
何が本当のことなのか分からない
感じるものに触れることが出来ない
そして僕は僕の幻想の盾に身を隠す

そうさ僕はずっと望み続けよう
僕の生命(いのち)は決して終わらない
花だって決して折れたりはしないのだ
たとえ雨に打たれても
壁の鏡の中には暗くてちっぽけな影が映っている

だけどそれが自分だという確信は全くない
僕は光で眼を被われている
神と真理と正義の光で
そして僕は行き先もわからぬまま彷徨うのだ

そうさ僕はずっと望み続けよう
僕の生命(いのち)は決して終わらない
花だって決して折れたりはしないのだ
たとえ雨に打たれても

どうでもいいことじゃないか
キングを演じる為に生まれたのか
それともポーンを演じる為に生まれたのかなんて
喜びと悲しみを隔てるのはか細い線に過ぎないのさ
そうして僕の空想は現実となり
僕は僕の人生を生き 明日に立ち向かわなくてはならない

そうさ僕はずっとずっと信じ続けよう
僕の生命(いのち)は決して終わらない
花は雨に打たれても決して折れない
そうさ雨に負けて折れたりはしないのさ




こういう一周まわったポジティブさへと、庭は導いてくれます。