今から遡ること1000年、保元の乱・平治の乱と国の統治が揺らぎ争いが絶えない平安時代、当時の最高権威者であった白河天皇(第72代)は、こう嘆いたそうな。
思い通りにならないものは、鴨川の水、双六の賽の目、山法師。
鴨川の水は自然災害、双六のサイコロは運、そして最後の山法師とは比叡山延暦寺の僧兵を指します。
比叡山とは弘法大師空海のライバルだった最澄が修行中に開いた道場で、そこは後の仏教形態を形作る名僧を多数輩出した、お寺というよりも、今で言ったら東大か京大の大学院ような、宗派に関わらず仏門を志す者たちが仏教哲学を思索し、実践する場所でした。
空海と共に最澄が遣唐使に加わり中国から持ち帰ったのは真言密教の教えで、空海はそれをアレンジして『真言宗』を開設、天才的自己プロデュース力を駆使して一躍時の人に。片や地道な性格の最澄は、一時期、スターとなった空海に擦り寄るが無視されてしまい、止むなく比叡山にこもって山岳修行の日々。そして開眼し『臨済宗』の祖となります。
スタート時、最澄とその一派の修行道場であった比叡山は最澄の死後、天皇から延暦寺という看板を頂戴し、天下の名刹、比叡山延暦寺となりました。しかし宗教を極めた者であっても人の心はままならぬもの。寺の評判が全国に轟き多数の優秀な学生が集い、キャンパスは山全体に広がりまして、その家族が暮らす家々は集落化して一大仏教学園都市に変貌。そうなったらもうお決まりのコースです。名誉と富を我がものとした上層部は権威にあぐらをかいて、あろうことか政に口出しをし朝廷に刃向かい始めます。武士がお久家さんの傭兵として命を張り、源平合戦をやってるうちはまだ良かったというか、お伽噺的だったのが、疫病やら干魃やらの影響もあって民は疲弊し、天皇の権威が失なわれ、ついに武士(軍人)が武力による覇権争いを繰り広げる長い内戦状態に入って行く、これが戦国時代。その混乱の中、比叡山も巨大化した学園都市を維持するため、学僧たちは兵隊となり、修行は軍事訓練と化してゆく。その後どうなるかは大河ドラマでご存知の通りで、鉄砲導入など軍備増強を怠らずに勝ち上がり、最初の軍事政権国家を樹立した将軍様織田信長が、明智光秀に命じて比叡山を焼き討ちに。僧兵のみならず、女子供も年寄りも容赦しない歴史に残る大虐殺にて、悲しく虚しい悲惨な結末となリました。
古今東西、宗教が権力を握ったらロクな展開は無い。いやはや・・・ところで池田大作先生はご存命なのでしょうか。あ、いや、なんでもないです。そういうことじゃなくて、白河天皇が嘆いた山法師とは、こんな時代背景の中での軍事化したお坊さん、僧兵たちのこと、というわけです。
鴨川の水は自然災害、サイコロの目は運、そして山法師は、言わば常識を逸脱した狂気の人。1000年前と今と、心配事の中身は不変にして普遍なものだなあと思った次第。自然災害はどうしようもないので、自然を敬いながら平安を祈るのみ。サイの目は運命を切り拓く努力と共に、運が良くなる思考と習慣を大事にしながら丁寧に暮らすこと。 では最後の『狂気』に対してはどんな防御や対処が考えられるでしょう。狂った人が引き起こす嫌な嫌な事件が起こるたびに、繰り返し考えても、なかなか防ぎようがない。狂った親から子どもは自分の命を守れるはずもなく、ガソリンのようなものを撒き散らして火をつける、刃物のようなもので無差別に切り付ける、狂っているような人物たちから、身を守るような術は・・・。
正解は導き出せぬままに、でも結論はいつも同じで、自分が狂わないこと。狂気は白黒はっきりしているものではなく、白から黒へのグラデーション。自分も含めて正常でなくなることはあるわけで、ただその度合いが不健全にまで至らないから暮らせているだけのこと。恋をすれば老人であっても狂い咲くし、お祝いかなんかでお酒を飲めば狂ったように歌ったり踊ったりするし、ぼくの場合は設計を始めると狂気の領域まで集中力が高まったり(ドキドキしてきて、さらに続けているとクラクラする。そこまで行くと怖くなって仕事は中断、現世に帰還するというのは日常的)、一番大切に思っている人に対してアンビバレンスに陥るなんていう狂気も、長く夫婦をやっていれば必ず経験することだし。だから狂人のような人を排除するという発想はまず退けて考えざるを得ない。

問題はですね、自分の狂気が高まっている時には周囲にある凶器に気付けなくなるという点にある気がします。健やかな状態の人なら、うっすら壊れている人が近づいてきたら即座に判別できるのに、酔っ払っている時やストレスが続いて疲労困憊の時には、逆に狂気に惹きつけられて、自ら近寄っていってしまう。ご注意ご注意。そろそろ第6波がピークアウトして、次なる変異株は出なそうだし、ようやく、ようやく、ようやく騒動は終息の気配。第5波がそうだったように、ピークを過ぎたあたりで嫌な事件が立て続く傾向がありますので、落ち着いて、朝起きたら庭で深呼吸をしながら、今日いち日を丁寧に、健やかに過ごしてまいりましょう。
ヤマボウシが咲く頃には、きっと何ごともなかったかのように平穏な暮らしが訪れて、健全なる泣き笑いの日々に戻っているはず。その日をイメージしながら、そんな暮らしの舞台装置にふさわしい庭を、今日も設計設計また設計です。
思い通りにならないものは、鴨川の水、双六の賽の目、山法師。
鴨川の水は自然災害、双六のサイコロは運、そして最後の山法師とは比叡山延暦寺の僧兵を指します。
比叡山とは弘法大師空海のライバルだった最澄が修行中に開いた道場で、そこは後の仏教形態を形作る名僧を多数輩出した、お寺というよりも、今で言ったら東大か京大の大学院ような、宗派に関わらず仏門を志す者たちが仏教哲学を思索し、実践する場所でした。
空海と共に最澄が遣唐使に加わり中国から持ち帰ったのは真言密教の教えで、空海はそれをアレンジして『真言宗』を開設、天才的自己プロデュース力を駆使して一躍時の人に。片や地道な性格の最澄は、一時期、スターとなった空海に擦り寄るが無視されてしまい、止むなく比叡山にこもって山岳修行の日々。そして開眼し『臨済宗』の祖となります。
息もつかせず紫陽花が、アガバンサスが。
百花繚乱、人をワクワクウキウキさせる、花の季節の始まりはじまり〜。
不遇な幼年期を過ごし、こんちくしょうパワーを持っていた空海は、数々の奇跡のパフォーマンスによって真言宗を全国に広めて行きます。対して育ちが良く穏やかな性格の最澄は、比叡山での修行で『臨済宗』を確立。しかしその自らの思想にこだわることなく、彼を慕って集まった学生たちに自由研究を薦めて、故に天台宗の基礎を築いた円仁・円珍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮などを輩出することのなります。彼ら、後の仏教体系の重要人物たちが青春期を過ごした地であることから、比叡山は日本仏教の母山と称されています。百花繚乱、人をワクワクウキウキさせる、花の季節の始まりはじまり〜。
スタート時、最澄とその一派の修行道場であった比叡山は最澄の死後、天皇から延暦寺という看板を頂戴し、天下の名刹、比叡山延暦寺となりました。しかし宗教を極めた者であっても人の心はままならぬもの。寺の評判が全国に轟き多数の優秀な学生が集い、キャンパスは山全体に広がりまして、その家族が暮らす家々は集落化して一大仏教学園都市に変貌。そうなったらもうお決まりのコースです。名誉と富を我がものとした上層部は権威にあぐらをかいて、あろうことか政に口出しをし朝廷に刃向かい始めます。武士がお久家さんの傭兵として命を張り、源平合戦をやってるうちはまだ良かったというか、お伽噺的だったのが、疫病やら干魃やらの影響もあって民は疲弊し、天皇の権威が失なわれ、ついに武士(軍人)が武力による覇権争いを繰り広げる長い内戦状態に入って行く、これが戦国時代。その混乱の中、比叡山も巨大化した学園都市を維持するため、学僧たちは兵隊となり、修行は軍事訓練と化してゆく。その後どうなるかは大河ドラマでご存知の通りで、鉄砲導入など軍備増強を怠らずに勝ち上がり、最初の軍事政権国家を樹立した将軍様織田信長が、明智光秀に命じて比叡山を焼き討ちに。僧兵のみならず、女子供も年寄りも容赦しない歴史に残る大虐殺にて、悲しく虚しい悲惨な結末となリました。
古今東西、宗教が権力を握ったらロクな展開は無い。いやはや・・・ところで池田大作先生はご存命なのでしょうか。あ、いや、なんでもないです。そういうことじゃなくて、白河天皇が嘆いた山法師とは、こんな時代背景の中での軍事化したお坊さん、僧兵たちのこと、というわけです。
鴨川の水は自然災害、サイコロの目は運、そして山法師は、言わば常識を逸脱した狂気の人。1000年前と今と、心配事の中身は不変にして普遍なものだなあと思った次第。自然災害はどうしようもないので、自然を敬いながら平安を祈るのみ。サイの目は運命を切り拓く努力と共に、運が良くなる思考と習慣を大事にしながら丁寧に暮らすこと。 では最後の『狂気』に対してはどんな防御や対処が考えられるでしょう。狂った人が引き起こす嫌な嫌な事件が起こるたびに、繰り返し考えても、なかなか防ぎようがない。狂った親から子どもは自分の命を守れるはずもなく、ガソリンのようなものを撒き散らして火をつける、刃物のようなもので無差別に切り付ける、狂っているような人物たちから、身を守るような術は・・・。
正解は導き出せぬままに、でも結論はいつも同じで、自分が狂わないこと。狂気は白黒はっきりしているものではなく、白から黒へのグラデーション。自分も含めて正常でなくなることはあるわけで、ただその度合いが不健全にまで至らないから暮らせているだけのこと。恋をすれば老人であっても狂い咲くし、お祝いかなんかでお酒を飲めば狂ったように歌ったり踊ったりするし、ぼくの場合は設計を始めると狂気の領域まで集中力が高まったり(ドキドキしてきて、さらに続けているとクラクラする。そこまで行くと怖くなって仕事は中断、現世に帰還するというのは日常的)、一番大切に思っている人に対してアンビバレンスに陥るなんていう狂気も、長く夫婦をやっていれば必ず経験することだし。だから狂人のような人を排除するという発想はまず退けて考えざるを得ない。

ヤマボウシが咲く頃には、きっと何ごともなかったかのように平穏な暮らしが訪れて、健全なる泣き笑いの日々に戻っているはず。その日をイメージしながら、そんな暮らしの舞台装置にふさわしい庭を、今日も設計設計また設計です。
レッド・ガーランドによる [I'm Afraid] the Masquerade Is Over。
題名からすると、仮面舞踏会が終わってしまうことを
少しだけ怖がっている、おセンチな曲なのでしょう。
祭りの後、みたいな。
でもマスク・パレードはもう終わりになってほしいですよね。
みんなそれぞれに頑張ったから、頑張って頑張って花を咲かせ続けた庭人たちのことを、
愛おしく感じているのでしょうか、少しのセンチメンタルはありますが。
素晴らしかったんですよ、若いご夫婦はお子さんを連れて、
老夫婦は静かに寄り添いながら花選びをしているマスク姿から
何度笑顔を頂戴したことか。
でもそれよりも、今度こそ素顔で気兼ねなく、人々が花に集う日が来ることをイメージしつつ。
題名からすると、仮面舞踏会が終わってしまうことを
少しだけ怖がっている、おセンチな曲なのでしょう。
祭りの後、みたいな。
でもマスク・パレードはもう終わりになってほしいですよね。
みんなそれぞれに頑張ったから、頑張って頑張って花を咲かせ続けた庭人たちのことを、
愛おしく感じているのでしょうか、少しのセンチメンタルはありますが。
素晴らしかったんですよ、若いご夫婦はお子さんを連れて、
老夫婦は静かに寄り添いながら花選びをしているマスク姿から
何度笑顔を頂戴したことか。
でもそれよりも、今度こそ素顔で気兼ねなく、人々が花に集う日が来ることをイメージしつつ。
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