前回の『ナチュラルな闘争・夜の庭』に補足します。庭を疎ましく思いカーテンを閉め切って暮らすことは病の初期症状である、というような書き方をしました。あ、いや、撤回するわけではなく言葉足らずだったかなあと。もしかしたら不快に思われた方もいたのではと、帰宅し庭で時を過ごしながら、ふとね、そう思ったものですから。
桜咲く。

一昔前は、桜とはソメイヨシノのことでした。
コロナが去り、人々の感覚が広角レンズとなったのか、
今年はいろいろな桜のことが話題になっています。
ビートルズ解散後に次のビートルズを探し続けた70年代に似て。
サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、ロッド・スチュワート、
ミッシェル・ポルナレフ、ビリー・ジョエル。
結果は時代に君臨する唯一のアイドルではなく、地球人は多様な音楽を手に入れました。
日本では原田真二、喜納昌吉、高田渡、はっぴーえんど・・・。
抑圧の果てに起こる爆発は多様性に落ち着く。
桜は400種類もあるそうで、それがこれまではさほど話題に上らなかった。
花は世に連れ世は花に連れ、時の流れはいとをかし。
カーテンを開けることなく暮らしている人たちのほとんどは、すいませんでした、直接的に病などではありません。ただカーテンを開けて屋外を感じながら暮らすことの心地よさをまだご存知ないか、知っていても庭に目隠しを施す手間を上回るだけの、庭という場所の魅力をお持ちではないのでしょう。驚くことに、と言うか、残念ながらと申しましょうか、日本には、今日の庭を有意義にイメージするのに役立つような種類の庭文化がなかったわけですから、さもありなん、それはやむを得ないことなのです。故に、カーテン閉め切り族の皆様におかれましては、どうかお気を悪くなさいませんように。いやはや、ぼくの直情傾向はしばしば極端で優しくない言い方をしてしまいます。反省猿で御座候。
うちに来てくださるお客様の半数近くが、海外赴任経験をお持ちか、カジュアルに海外旅行を楽しんで来られた人たちです。アメリカ、中国、中東、オーストラリア、南米、ヨーロッパ、アフリカなど、各国の庭事情と、そこで経験した幸福な庭時間のことをお聞きするのが楽しくて、また大きな学びにもなっています。例えばオーストラリアでは、客人はリビングではなく庭に招く。アフリカ人はいい風が吹く場所に家を建てて庭を楽しむ。ガーデニングの本場イギリスは、実は気候が厳しく花を楽しめる期間がとても短い。だから反動で、チェルシーフラワーショーに歓喜するのだ、とか。
日本と同じほどの大きさであるドイツでは、庭関係の市場規模が日本の倍以上だそうです。多くの家に納屋があり、DIYと庭仕事はごく普通な暮らしのお作法のようなもので、土づくりや植物への農家レベルの知識は誰でも持っている(昭和初期までの日本人がそうだったように)とのこと。庭は健康な草花に囲まれて住人が食事をし、家事をし、友人を招いてティータイムを楽しむ場所。スペインではパティオ(中庭)が暮らしの中心にあり、シエスタ(昼寝・長い昼休み)を楽しむことが当たり前。路地の壁と窓際にはプランターの花が咲き誇って、街角の井戸端が地域住民共有の庭として機能している。アメリカ人は広い芝生でバーベキューができなければ庭ではないと思っているし、フランスの郊外では家と庭との境が曖昧なほど庭は暮らしの場所して使われている。各国それぞれに庶民レベルでの庭文化が存在しているのです。
はてさて我が国ではどうでしょう。何も外国がああだからこうだから、真似をしなきゃということではありません。日本には日本の庭文化はあったわけで、縁側、畑、軒遊び、ええっと、ええっと、盆栽、鶏を飼う。洗濯物を干す。ん〜〜〜他に何かありましたっけか。やっぱり真似した方が良さそうですね、お得だし、楽しいし。日本の庭文化は平安時代の発祥から明治・大正あたりまで、お公家さんと武士とお坊さんの世界にのみ伝承され、庶民には縁遠いものでした。江戸時代にいくらか園芸趣味が流行ったものの、人々がイメージする庭はお寺や大名庭園のことであり、庶民の暮らしには無縁の場所。やがて西洋建築が入ってきて、洋館に似合う庭が求められます。芝生、池、花壇など。しかしその時点でも寺社仏閣の庭様式を切り取り自宅に再現するというのがせいぜいでして、そういう庭(文士の庭、雑木の庭、茶庭・坪庭など)を所有し池の鯉に餌を投げることが、豪商、政治家、文化人、成功者のステースになりました。ぼく自身、製糸工場で成功した祖父ご自慢の坪庭を眺める縁側で育ったので、50年前にはまだ庭は男社会のものであり、『家族の庭』というような概念は世の中に存在していなかったという実感があります。
そのような日本の庭の現状に疑問を持った、当時30歳のぼくが、いかにして・・・。ここからは長編、大河ドラマになってしまうので、切れ切れに別の機会でということにします。とにかく日本には戸建て住宅での庭文化は育ってこなかった。だから憧れの庭付き一戸建てを手に入れた人たちが、引っ越しをし、庭スペースを前に呆然と立ち尽くすのは当然のこと。 誰だって同じで、とりあえずカーテンを閉めてから暮らしを始めるのはごくごく普通のことなのです。しか〜し、その後に待ち受けている家族にのしかかってくる課題の数々、子育てやら介護やら更年期やら。その課題を苦難ではなく幸福なる暮らしの営みにできるかどうか、という分かれ道。いち早くカーテンを開けて暮らせるように庭を整えるか、あるいは「なんでカーテン開けなきゃいけないの?人工芝敷いたから雑草は生えないし、庭に出てご飯を食べることなんてないし、夜庭で過ごすことなど絶対にあり得ないし」となってしまうのか。
庭は建坪率の都合で発生する余剰の地面ではありません。その地面の上にある空中に、家族のための庭空間を生み出してください。どうすればいいのかは、昔と違ってインターネットでいくらでも海外の素晴らしい庭を観察できますから、じっくりと、しっかりと、家を建てる時の真剣さで勉強してください。その空間を、幸福な人生に欠かせない重要な外の部屋にまでイメージすることができたら、カーテンを閉めて過ごすことに嫌気がさすことでしょう。庭を含めた理想の住環境が整えば、カーテンなんぞはあってもなくてもいいような、その程度のものなのですから。
毎朝テレビから報告される、狂った者が引き起こす嫌な事件、悲惨な事故と災害、紛争等々にうんざりしてきた数十年。数十年そうだったんだから今後も変わることなく続くのでしょう。事故と災害と紛争は避けようがないことながら、狂気だけは自分で防御も制御もできること。そしてもっと大事なのは子供を健やかに育て上げること。プーチン大統領は幼少期に父からの激しい暴力を受けて、思考が「強くなることが生きる意味である」という方向一本槍に固まってしまった人であるそうな。殴りかかってくる大嫌いな父を超えるために柔道を習い、国一番の強者となるためにKGBを目指し、素手で簡単に人を殺せる優秀なスパイとなった彼はエリツィン政権に参加。エリツィン引退時に指名されついに大統領になります。
その後もさらに強くなるために、尊敬するスターリンに倣って侵略をし、目障りな部下を平然と粛清し、国内外の人々の幸福を破壊し続けながら、哀れなことに自らは幸福な家庭を手に入れることができなかった。世界的な権力者として君臨している今でも手に入れていない。それは何故だと思います?お金も権力も有り余っているのに何ででしょう。不遇な少年だった彼は円満家庭に憧れたに違いないのですが、そこを目指したことがなかったからです。なぜあれほど有能な人の思考が幸福な家庭実現に向かわなかったのか。体感した経験がないから。知識ではなく体感したことがない世界を想像することは困難なもの。だから笑顔が溢れる家族の庭など到底イメージできない。イメージできないものは実現しない。きっとそういうことなのでしょう。
ロシアvsウクライナは重大にして複雑な国際紛争でありながら、インターネットとNHKのプーチン関連番組で過去を辿ってみれば、とっても単純で些細な事柄に起因していることがわかります。レーニンも、スターリンも、当時ソビエトの敵国であったドイツの宰相アドルフ・ヒットラーも、全員が幸せからは程遠い過酷な家庭環境で育った。習近平もそう。ご存じ北の3代目も。つまりは家庭円満こそが世界平和の前提なのであります。家庭円満、まあるく幸せが満ちる家と庭。お若いご夫婦たちに祈るような気持ちでお伝えしたい。この先いろいろあるかもしれないけど、何が起ころうともとにかく夫婦仲良く、健やかに子育てをして、笑顔が溢れる庭のある暮らしを実現させてください。いやほんとに、世界平和のためにも。
さあてと、世界を語っている場合ではなく、目の前に積み上がっている設計を、一つ一つ丁寧に、想いを込めて仕上げてまいります。首を長くしている皆様、今しばらく伸ばしっぱなしでご辛抱&ご容赦ご容赦。必ずお役に立てる庭空間を出現させますので。
英語ですらおぼつかないぼくには、フランス語は100%意味不明。
今は便利に、パソコンから訳詞を引っ張ってこれるのでありがたし。
ホリデイ ああホリデイ
空から降りてゆくのは飛行機
その翼の影が
ひとつの街を通り過ぎる
地面はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
ホリデイ ああホリデイ
教会や公団住宅
彼らが敬愛する神様は何をしている?
宇宙にいる神は
地面はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
ホリデイ ああホリデイ
飛行機の影は海をとらえる
海面はまるで
砂漠の前兆のようだ
海はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
見た目だけでなく、澄んだ高音とロマンティークなメロディーと、
わかるようなわからないような歌詞も、
井上陽水と酷似していますよね。
40年の時を超え、ポルナレフ・陽水いとをかし。
桜咲く。

一昔前は、桜とはソメイヨシノのことでした。
コロナが去り、人々の感覚が広角レンズとなったのか、
今年はいろいろな桜のことが話題になっています。
ビートルズ解散後に次のビートルズを探し続けた70年代に似て。
サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、ロッド・スチュワート、
ミッシェル・ポルナレフ、ビリー・ジョエル。
結果は時代に君臨する唯一のアイドルではなく、地球人は多様な音楽を手に入れました。
日本では原田真二、喜納昌吉、高田渡、はっぴーえんど・・・。
抑圧の果てに起こる爆発は多様性に落ち着く。
桜は400種類もあるそうで、それがこれまではさほど話題に上らなかった。
花は世に連れ世は花に連れ、時の流れはいとをかし。
うちに来てくださるお客様の半数近くが、海外赴任経験をお持ちか、カジュアルに海外旅行を楽しんで来られた人たちです。アメリカ、中国、中東、オーストラリア、南米、ヨーロッパ、アフリカなど、各国の庭事情と、そこで経験した幸福な庭時間のことをお聞きするのが楽しくて、また大きな学びにもなっています。例えばオーストラリアでは、客人はリビングではなく庭に招く。アフリカ人はいい風が吹く場所に家を建てて庭を楽しむ。ガーデニングの本場イギリスは、実は気候が厳しく花を楽しめる期間がとても短い。だから反動で、チェルシーフラワーショーに歓喜するのだ、とか。
日本と同じほどの大きさであるドイツでは、庭関係の市場規模が日本の倍以上だそうです。多くの家に納屋があり、DIYと庭仕事はごく普通な暮らしのお作法のようなもので、土づくりや植物への農家レベルの知識は誰でも持っている(昭和初期までの日本人がそうだったように)とのこと。庭は健康な草花に囲まれて住人が食事をし、家事をし、友人を招いてティータイムを楽しむ場所。スペインではパティオ(中庭)が暮らしの中心にあり、シエスタ(昼寝・長い昼休み)を楽しむことが当たり前。路地の壁と窓際にはプランターの花が咲き誇って、街角の井戸端が地域住民共有の庭として機能している。アメリカ人は広い芝生でバーベキューができなければ庭ではないと思っているし、フランスの郊外では家と庭との境が曖昧なほど庭は暮らしの場所して使われている。各国それぞれに庶民レベルでの庭文化が存在しているのです。
はてさて我が国ではどうでしょう。何も外国がああだからこうだから、真似をしなきゃということではありません。日本には日本の庭文化はあったわけで、縁側、畑、軒遊び、ええっと、ええっと、盆栽、鶏を飼う。洗濯物を干す。ん〜〜〜他に何かありましたっけか。やっぱり真似した方が良さそうですね、お得だし、楽しいし。日本の庭文化は平安時代の発祥から明治・大正あたりまで、お公家さんと武士とお坊さんの世界にのみ伝承され、庶民には縁遠いものでした。江戸時代にいくらか園芸趣味が流行ったものの、人々がイメージする庭はお寺や大名庭園のことであり、庶民の暮らしには無縁の場所。やがて西洋建築が入ってきて、洋館に似合う庭が求められます。芝生、池、花壇など。しかしその時点でも寺社仏閣の庭様式を切り取り自宅に再現するというのがせいぜいでして、そういう庭(文士の庭、雑木の庭、茶庭・坪庭など)を所有し池の鯉に餌を投げることが、豪商、政治家、文化人、成功者のステースになりました。ぼく自身、製糸工場で成功した祖父ご自慢の坪庭を眺める縁側で育ったので、50年前にはまだ庭は男社会のものであり、『家族の庭』というような概念は世の中に存在していなかったという実感があります。
そのような日本の庭の現状に疑問を持った、当時30歳のぼくが、いかにして・・・。ここからは長編、大河ドラマになってしまうので、切れ切れに別の機会でということにします。とにかく日本には戸建て住宅での庭文化は育ってこなかった。だから憧れの庭付き一戸建てを手に入れた人たちが、引っ越しをし、庭スペースを前に呆然と立ち尽くすのは当然のこと。 誰だって同じで、とりあえずカーテンを閉めてから暮らしを始めるのはごくごく普通のことなのです。しか〜し、その後に待ち受けている家族にのしかかってくる課題の数々、子育てやら介護やら更年期やら。その課題を苦難ではなく幸福なる暮らしの営みにできるかどうか、という分かれ道。いち早くカーテンを開けて暮らせるように庭を整えるか、あるいは「なんでカーテン開けなきゃいけないの?人工芝敷いたから雑草は生えないし、庭に出てご飯を食べることなんてないし、夜庭で過ごすことなど絶対にあり得ないし」となってしまうのか。
庭は建坪率の都合で発生する余剰の地面ではありません。その地面の上にある空中に、家族のための庭空間を生み出してください。どうすればいいのかは、昔と違ってインターネットでいくらでも海外の素晴らしい庭を観察できますから、じっくりと、しっかりと、家を建てる時の真剣さで勉強してください。その空間を、幸福な人生に欠かせない重要な外の部屋にまでイメージすることができたら、カーテンを閉めて過ごすことに嫌気がさすことでしょう。庭を含めた理想の住環境が整えば、カーテンなんぞはあってもなくてもいいような、その程度のものなのですから。
毎朝テレビから報告される、狂った者が引き起こす嫌な事件、悲惨な事故と災害、紛争等々にうんざりしてきた数十年。数十年そうだったんだから今後も変わることなく続くのでしょう。事故と災害と紛争は避けようがないことながら、狂気だけは自分で防御も制御もできること。そしてもっと大事なのは子供を健やかに育て上げること。プーチン大統領は幼少期に父からの激しい暴力を受けて、思考が「強くなることが生きる意味である」という方向一本槍に固まってしまった人であるそうな。殴りかかってくる大嫌いな父を超えるために柔道を習い、国一番の強者となるためにKGBを目指し、素手で簡単に人を殺せる優秀なスパイとなった彼はエリツィン政権に参加。エリツィン引退時に指名されついに大統領になります。
その後もさらに強くなるために、尊敬するスターリンに倣って侵略をし、目障りな部下を平然と粛清し、国内外の人々の幸福を破壊し続けながら、哀れなことに自らは幸福な家庭を手に入れることができなかった。世界的な権力者として君臨している今でも手に入れていない。それは何故だと思います?お金も権力も有り余っているのに何ででしょう。不遇な少年だった彼は円満家庭に憧れたに違いないのですが、そこを目指したことがなかったからです。なぜあれほど有能な人の思考が幸福な家庭実現に向かわなかったのか。体感した経験がないから。知識ではなく体感したことがない世界を想像することは困難なもの。だから笑顔が溢れる家族の庭など到底イメージできない。イメージできないものは実現しない。きっとそういうことなのでしょう。
ロシアvsウクライナは重大にして複雑な国際紛争でありながら、インターネットとNHKのプーチン関連番組で過去を辿ってみれば、とっても単純で些細な事柄に起因していることがわかります。レーニンも、スターリンも、当時ソビエトの敵国であったドイツの宰相アドルフ・ヒットラーも、全員が幸せからは程遠い過酷な家庭環境で育った。習近平もそう。ご存じ北の3代目も。つまりは家庭円満こそが世界平和の前提なのであります。家庭円満、まあるく幸せが満ちる家と庭。お若いご夫婦たちに祈るような気持ちでお伝えしたい。この先いろいろあるかもしれないけど、何が起ころうともとにかく夫婦仲良く、健やかに子育てをして、笑顔が溢れる庭のある暮らしを実現させてください。いやほんとに、世界平和のためにも。
さあてと、世界を語っている場合ではなく、目の前に積み上がっている設計を、一つ一つ丁寧に、想いを込めて仕上げてまいります。首を長くしている皆様、今しばらく伸ばしっぱなしでご辛抱&ご容赦ご容赦。必ずお役に立てる庭空間を出現させますので。
13歳、中一のある日、夕方から深夜までラジオをつけっぱなしで油絵を描いていました。
驚いたことに、その数時間でこの曲が6回流れたことを覚えています。
衝撃的なヒット曲だったんですよね。
驚いたことに、その数時間でこの曲が6回流れたことを覚えています。
衝撃的なヒット曲だったんですよね。
英語ですらおぼつかないぼくには、フランス語は100%意味不明。
今は便利に、パソコンから訳詞を引っ張ってこれるのでありがたし。
ホリデイ ああホリデイ
空から降りてゆくのは飛行機
その翼の影が
ひとつの街を通り過ぎる
地面はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
ホリデイ ああホリデイ
教会や公団住宅
彼らが敬愛する神様は何をしている?
宇宙にいる神は
地面はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
ホリデイ ああホリデイ
飛行機の影は海をとらえる
海面はまるで
砂漠の前兆のようだ
海はなんて下の方にあるんだろう
ホリデイ
見た目だけでなく、澄んだ高音とロマンティークなメロディーと、
わかるようなわからないような歌詞も、
井上陽水と酷似していますよね。
40年の時を超え、ポルナレフ・陽水いとをかし。