アフリカの月

アフリカの月

 アフリカの月という曲を御存じでしょうか。古い古いフォークの名曲です。作詞/KURO(西岡恭蔵の奥様)、作曲/西岡恭蔵で、知らなかったのですがお二人とももう他界されているとのこと。特に西岡ファンということではないのですが、年に何度かふいに口ずさんでいる曲です。最近では高田渡のDVD(結果的に追悼アルバムになってしまいました)で俳優の江本あきらが歌っています。なかなかいい感じです、機会があったらぜひお聞き下さい。


アフリカの月
作詞:KURO 作曲:西岡恭蔵

古い港町流れる夕暮れの口笛
海の匂いに恋したあれは遠い日の少年

酒場じゃ海で片足無くした老いぼれ
安酒に酔って唄う遠い想い出
俺が旅した若い頃はよく聞け若いの
酒と女と浪漫を求めて七つの海を旅したものさ

母さんは言うけど
船乗りは宿ぐれ海に抱かれて年取り
あとは寂しく死ぬだけ

僕は夢見る波の彼方の黒い大陸
椰子の葉影におどる星屑

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 このアフリカの月を口ずさむ時に必ず浮ぶ笑顔があります。それはお客さまの清水孝さんです。
 奥様から「実は清水が亡くなりまして」と電話をいただいたときにはもう葬儀もいろんな整理も終わっていて、奥様もいくらか平静を取り戻していらっしゃったのですが、こちらは突然の訃報に電話口で涙が止まりませんでした。

 清水さんとの出合いは5年前、うちが横浜に出店したばかりのころで、庭に池をつくりたいというご依頼でした。その後もおつき合いが続いて、ガーデンパーティーにお招きいただいたり、何度か店に立ち寄ってくださったりしました。
 ご主人はアフリカに中古車を輸出して販売する会社をやっていて、いつもアフリカの話を興味津々で聞かせてもらい、必ず一度アフリカに遊びに行きますと約束していたのですが・・・。
 清水さんのご主人は新潟の長岡出身で奥様は兵庫県の神戸出身です。うちは私が新潟の魚沼市、妻が兵庫の姫路なので組み合わせが同じということもあって、最初から何となく近しい感じでおつきあいさせていただき、親戚みたいな感覚になっていました。またご夫婦の人柄、ご主人の独特の人を引き付ける魅力がそうさせたのかもしれません。ご主人の独特の魅力、その一端を書きます。
 清水孝さんは走るのが好きです。最初は50才を過ぎてから医者に「少し歩きなさい」と言われて始めたウォーキング、その距離とスピードが徐々に伸びて、ついに江ノ島まで(横浜市栄区桂台から)ジョギングするようになって、さらに茅ヶ崎方面に距離を延していました。その行程をクルマで走ってみると、とてもじゃないけど走ろうなんて考えられる距離ではないのです。絶対に楽なはずないのにニコニコしながら「たいしかことないよ」と涼しい顏をしています。そして食事はものすごく質素で、肉はほとんど食べないで、毎日必ず豆腐を2丁、少しのお酒、あとは長岡の弟さんが作っている特大のアサツキをボリボリと、そして何にでも世界一辛いと言うとうがらし(タバスコにタカの爪の種と果肉が入っているようなものです)をかけて食べるという食事です。そしていつも豪快に笑っている、そんな人です。私に会うと必ず「あなたは天才だよ、すばらしい才能だ。いつか投資するから大きい会社にしなさい」と持ち上げてくれます。それから、アフリカでのいろんなエピソードは嘘のようなほんとの話の連続で、いつも爆笑と共に聞き入ってしまいます。“ 風の街港南台 ”で紹介した「アフリカではいい風が吹くところを捜して家を建てる」というのも清水さんから聞いたネタです。他に、現地の従業員とのトラブル話やアフリカの裁判で勝つには袖の下が必要とか、キリマンジャロに登った話、アフリカでは400坪のプール付きの家で、お手伝いさんが5人いるとか、現地の子供達に柔道を教えていることなど、ネタの宝庫なのです。
 常に限界まで何かに挑戦しながら、でもいつも笑っている。ご自身が光り輝きながら先頭切って走り続ける、そんな清水孝さんです。
 今日から数日を使ってこの清水さんを偲び、その生きざまを紹介することにします。しばらく“ 庭 ”はお休みになりますが、これをお読みいただくと、きっとあなたの心にすてきな“ アフリカの月 ”が見えてくると思います。


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〈 この山は氷ではなくて、塩で白くなっているのだそうです〉




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 走る

はるか未知なるもの

2006年2月22日  朝日新聞(夕刊) 『こころの風景』より

『はるか未知なるもの』 斉藤惇夫

 長年ケニアに住みつづけていた小学校時代からの友人が自動車事故で亡くなった。月の山というウガンダの幻の山の登頂を計画し、下見にいった帰り道だった。
 一昨年の暮れに、彼の「ちょっと来てみないか」という言葉に誘われて2週間ほどアフリカに行ってきた。商社の仕事でケニアに行っていた彼が、何故そこに住み着いてしまったのか、とても気になっていたものの、私の方も自分の仕事に忙しく、ゆっくりと会うのはほぼ50年ぶりであった。会ったらその何故を聞こうと思っていた。
 だが言葉は無用だった。キリマンジャロを背景に、朝靄のサバンナを無数のヌウが歩き始め、そこにシマウマやゾウの家族が加わり、日の出とともに静かに草を食む姿を見た時、突然、ああこの穏やかな高雅としか言いようのない光景こそ、俺たちが小学校の頃から夢見ていた世界だったと思った。そしてアフリカの人々の眼差しには、私たちが子どもの頃焼け跡で沢山見た、はるか未知なるものをのぞむ不思議な強い光が、確かにまだ宿っていた。互いに異なる道を歩き、今、同じ場所に立てたことを、我々は喜び合った。
「英国の友人でここに住む民俗学者がいる。彼と君の求めるケニアの神話や昔話について語り合おう。もう一度おいでよ」。それが彼の最後の言葉だった。私は準備を始めていた。
(作家)

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〈 アフリカご自宅でのガーデンパーティー 〉


 人は二度死ぬと言います。一度目は生物的な死で、二度目は生きている人の記憶からその人が消えたときです。年令が増すほど私の中で生き続ける人が増えてきて、その人たちの助言や励ましで、どれほど人生が豊かになっていることか。そして、清水孝さんも・・・。おそらく一生、私を励まし、正しい道を指し示してくださることでしょう。もちろん私だけではなくて、ものすごく沢山の、たぶん清水さんと関わった全ての人の心の中で生き続ける、そういう人なのです。先日奥様ともそんな話をしたのですが、「こんなふうに生きてこんなふうに死にたい」訃報を聞いた多くの人がそうつぶやいたのではないかと思います。

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〈 友人の民俗学社と共に、大統領にごあいさつ 〉




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アフリカ愛して愛されて

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朝日新聞 2006年5月8日 『惜別/元商社マン 清水孝さん』より

アフリカ愛して愛されて

 「あのタフな人が、まさか交通事故で・・・」。悲しい知らせを聞いたケニアの友人たちは驚き、怪しみ、そしてがっくり肩を落した。
 アフリカ一筋に30年余。三菱商事の商社マンとしてザイール(現コンゴ)、タンザニア、ケニア、南アに駐在、各地を飛び回った。雄大な自然と厳しい環境を生き抜く人々の逞しさにほれ込んだ。
54歳で自ら望んで早期退職をしてからはナイロビに拠点を移し、日本製中古車の輸入販売業をしながらのアフリカ暮らし。11年間でざっと8千台を売ったという。「儲けはそこそこでいいから」と格安ビジネス。「ほとんどアフリカ人たちが買ってくれた」のが自慢だった。この話をする時はきまって「うれしいよぉ」と目を細めた。
 一橋大時代に鍛えた柔道がパワーの源だった。初任地のザイールで、さっそく若い現地スタッフを誘って柔道クラブを開設。小柄な日本人が屈強な大男を投げ飛ばす。原っぱでの連夜の稽古は評判になり、子どもから大人まで数十人が常連に。その後も、どの勤務地でもクラブを立ち上げた。教え子は200人を越す。「君たちが頑張れば、アフリカの未来は明るいぞ」と熱っぽく語った。豪快で繊細で、気さくな人柄が慕われた。
 ザックをかついで日本から来る若い旅人にも「うちにおいで」と気軽に声をかけ、泊まる所を提供するなど何かと面倒をみた。60歳からアフリカの最高峰キリマンジャロ(5895メートル)登山に挑戦。「次はウガンダの霊峰ルエンゾリに登りたい」。家族が住む横浜の自宅に電話をかけ、首都カンパラで雇ったハイヤーで下見に行った。その帰路、真っ暗闇の一本道でトラックに追突、ウガンダ人の運転手らとともに亡くなった。
 ホテルの部屋には、出かけ際に食べたのか、おにぎりの梅干しのタネが二つ、新聞紙にくるんで残されていた。
(大野拓司)
しみず・こう 1月29日死去(交通事故)65歳 4月29日お別れの会

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 奥様にうかがうと、あと数キロで到着という地点での事故だったそうです。クルマは大破したのにご本人はほとんど無傷、熟睡していたらしくとても穏やかなお顔だったそうです。すぐに現地入りした奥様は、何とかご主人の御兄弟たちに会わせたいと考え、苦労して御遺体を日本まで連れて帰り、長岡で葬儀を行ったそうです。
 生前、一年の半分はアフリカで過ごしていた清水さん。日本にいる時は毎週関越道を飛ばして長岡の実家に行っていました。高齢のお母さまを見舞うためです。私が訃報を聞いた時に、そのお母さまがどれだけ悲しんだことかと思い、胸が詰まったのですが、実はおかあさま、事故の一週間前に他界されていて、清水さんはその葬儀を済ませてアフリカに飛び、そしてすぐに・・・。

 明日からは清水さんが母校の長岡高校での講演会用に用意した文章を紹介しようと思います。講演会は中越地震で中止になったのですが、アフリカのパソコンに残されていた原稿を奥様が見つけたものです。やや長いので、数日にわたっての掲載になります。読んでいただいた全ての人に、素晴らしい“ 何か ”をプレゼントしてくれる内容だと思いますので、よろしくお付合いください。



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私のアフリカ

私のアフリカ

清水 孝

本稿は、故人が母校長岡高校での講演会用に作成したもので
故人のこれまでの人生、人柄や考え方がよく表れております。

残念ながらその後新潟県中越地震の影響などもあって
講演会は中止となりましたが、皆様に読んで頂ければ
故人も大いに喜ぶかと思い、配らせていただきます。

尚、本文中の誤字脱字などは修正いたしました。
その他の部分については失礼な内容もありますが
故人らしい部分でもあることから、敢えてそのままにさせていただきました。
どうかご容赦くださいますよう、よろしくお願いいたします。

2006年4月 遺族一同


1. 略歴

 私は1941年(昭和16年)に長岡で生まれ、父は城内町で開業医をしていました。8人兄弟の長男で、姉や弟・妹もこの学校で学びました。私は高校時代は成績は中くらいで、部活もせず、受験勉強が中心でしたが当時のいろいろの個性豊かな先生方の印象は今でも鮮やかに残っています。長岡の土地で育ったこと、そして、その中核ともいえる伝統のあるこの学校で学べたことは私にとって大きな誇りです。
 私は子供の頃から、自分の将来については、父の職業の医者にはあまり魅力を感じず、いつかはどこか遠くの未知の世界に行きたいと思っていました。大学は一橋大学の商学部に入学しました。大学時代は柔道部に入り、すばらしい師範のもと、稽古に励み、そこで生涯の友人を得ました。大学の寮での生活、柔道の合宿生活が、私の心身を鍛えてくれ、これがその後の私の人生でいろいろの場面をしのぐ力になりました。大学を卒業して、三菱商事という会社に入りました。こういう会社に入ればきっと遠くに行けると思ったのです。何しろ、開業医をしている父を見るといかにも世界が狭く、毎日、長岡や近郷から決まった患者さんが来て治療をするだけで、こういう平凡な刺激のない生活で生涯を終えるわけにはいかないと思っていました。
 三菱商事に入って、振り出しは大阪支社で繊維の輸出の仕事でした。仕事自体は大して難しくもなく面白くもなくそこで7年ほど過ごしていましたが、これオは本意でないからそのうち会社を辞めようかと真剣に考えていたところ、会社がキンシャサというところにある事務所に駐在員を増員したいがそこに行く社員がいないので、誰か希望者はいないかと社内の公募をしました。会社の支社や事務所は世界のあちこちにあるのですが、現地に風土病があったり、生活条件が悪かったりすると指名された社員が断ることが時々あるわけです。それでやむなく会社も社内で公募したわけです。よし、これだ、どこに行こうと今よりはいいだろうと手を挙げて、すぐに確定しました。そこで、キンシャサとはどこかと地図で調べると、アフリカでした。それもアフリカの裏側で大西洋に面し、もっともアフリカ的な未開の地域らしいことを知りました。これは少し行き過ぎたかなと思いましたが、もう、バックは出来ません。大阪から長岡に帰って、父にアフリカのキンシャサに赴任するけど、3年位したら、また帰ってくるといいました。そうしたら、父が、アフリカに行くのは大変いい、だから決して2~3年ではなく一生アフリカでやるべしといいました。父は人生は短く、2~3年では何も出来ない。アフリカでアフリカの人々の為になることをやりなさい。それほどやり甲斐のある事はない、と励ましてくれたのには驚きました。もっとも、その後、日本を出発する日が迫り、最後に長岡を出発する時には父は長岡駅に見送りに来て、出発する汽車の窓で私に、孝ね、ほんとに難儀いときはいつでも帰って来いやといいました。私がアフリカにでた歳の暮れに、父は俳句で、「長女、アメリカ、長男、アフリカ、歳暮れる」との句を読みました。その父は私がキンシャサに行った2年後になくなりました。キンシャサで、父が亡くなった知らせを、日本からのテレックスで受け取りましても、暑さのせいか、感情も干上がる感じで、特に涙は出ませんでしたが、それを知人のザイール人達に話すと彼らは大変悲しみ、私の肩を叩き、手を握って、励ましてくれました。

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〈横浜の自宅で。いつもこんな笑顔なのです。〉




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キンシャサ時代

2. キンシャサ時代

 キンシャサは昔のベルギー領コンゴで独立後はザイールという国名でしたが、最近はまだコンゴといっています。ザイールはアフリカでも海岸線が少なくて国土のほとんどが内陸ですので、西欧文化の影響が他のアフリカの国よりも少なく、アフリカの本来の姿が多く残っている国で、いろいろ不思議な事も多くアフリカのブラックホールともいわれています。国はコンゴ川をかかえ、大きな草原と森林地帯があります。かつて、リビングストン、スタンレーなどの宣教師や探検家が入って最も苦労した国だそうです。また銅、コバルト、金、ダイヤモンドなどの資源が豊富でしばしば欧米の利権争いの舞台になってきました。私は1972年の10月にキンシャサに向かいました。飛行機がキンシャサに近づき、空からみると、一面が緑の絨毯でその中をコンゴ川が大きく迂回しながら、とうとうと流れていました。飛行機から出ると、まだ早朝でも大変暑くて蒸すので驚きました。キンシャサにはすでに会社の年上の駐在員が1年ほど前に来ており、私はその増員できたわけです。最初は住居も定まりませんでしたからホテル住まいをして、自炊でしのいでいました。温度が暑い上に湿度が高く、言葉はフランス語だし、泥棒は多いらしいし、これはなかなか大変だなと思いました。そのころはアフリカの各国は植民地から独立して旧宗主国に反発し、アフリカの人々は今まで虐待されたため、外国人に敵意を持つことが多かったです。ザイールはベルギーの植民地で、植民地時代はベルギー人葉ザイール人を動物のように扱い、日中も市街地の道路を歩くことさえ許さず、アフリカ人が、その辺でたむろすると水撒きホースで追い散らしたりしていました。まだ独立間もない頃でしたから、贅沢な生活をしてザイール人を家畜以下にこき使うベルギー人の生活と、仕事もなく、裸足で、ボロをまとい、目だけをぎょろつかせて、ひっそりと生活するザイール人の生活はあまりに極端にかけはなれていました。
 これだけ遠くの国に来るといかにも勝手が違いました。いくつかを紹介しましょう。キンシャサに着いてまもなくの頃に、トレーニングの為に、毎朝早く、コンゴ川のほとりにそってランニングをしていました。大変、蒸し暑いので、私は上半身は裸で柔道着のズボンだけをはいていました。ある朝、いつものように走っていると様子がおかしく、鉄砲を持った兵士があちこちから、私の方に接近してきて、私は取り囲まれました。何が起きたかさっぱりわからず、とっさに走って逃げ出したいような衝動におそわれましたが、走ったら、あの鉄砲で撃たれるかもしれないと思って留まり。覚悟をして、彼らに連れられて行きました。何を聞いて現地の言葉で話しますからさっぱりと事情がわかりません。川縁の大きな建物の中の地下に連れて行かれ、その一室に入れられました。
 言葉ほとんど通じず、何故かと聞いてもいっさい説明はされません。外部と連絡を取ろうとしても電話もかけさせてくれません。私もパスポートもお金も持っていませんから、なにも証明出来ないわけです。まさか、殺されたりはしないだろうけど、不安でたまりません。兵隊の態度がひどく、捕虜か罪人を扱うようなやり方です。一番下のクラスの兵隊らしく英語は勿論、フランス語も出来ません。それでもだんだん時間が経ってくると、そこの兵隊の部隊の幹部が出勤してきて、ようやく話が出来ました。お前は中国人かと問われ、日本人だというと、急に親しそうな態度に変わり、捕まえられた理由を聞くと、早朝にこの地域を上半身裸で草履を履いて走ったのは何の目的かと聞かれました。これはトレーニングで柔道の為だと説明すると、その幹部は、私の住所、氏名、国籍、親の名前、この町に滞在している理由などを詳細に聞き取り、その上で、また、他の部屋に行き、戻ってくると、よし、一応、スパイ活動はしていないと判定するので、これで解放するとのことで、釈放されました。私が走っていたところは大統領の官邸から近く、早朝にその辺を裸で走るのはスパイだと思って兵隊が捕まえたのでした。そのころのキンシャサでは町のあちことによく、兵隊による検問があり、身分を問われたり、お金を要求されたりしましたが、急いでいるときなど、ついついお金を渡してパスさせてもらったものです。また、兵隊の方も、相手が外国人となると必ずお金を取れると考えて、しつこくあれこれと尋問をしてきます。運転証を開いてみてから、いや、これではないと突き返してきます。何が悪いのかと聞くと、この免許証には不備があるという。何が不備かと問うと、不備は不備だ、そんなことがわからないかというだけです。そこで、ハタと思いつき、免許証の中に100円くらいのお金を挟んで渡すと、OK、さっさと行けとのことです。こんなことはいつもありました。
 会社の事務所では雨が降るとほとんどの社員が出勤してきません。何故かと問うと、傘がないという。それではと、傘を買って与えても雨が降るとやはり来ない社員がいて、私はカッとなりそのものの家に行き、何故に傘もあげたのに事務所に来ないかと糺すと、相手は、きょとんとして、あの傘は確かにもらいましたが、自分の弟があの傘を使って学校に行ったので、自分は会社には行けないとのこと。まあ、争っても勝ち目はないとあきらめました。
 また、こんなこともありました。キンシャサでは通常はどこの役所も店も朝は8時頃から12時まで働いてその後12時から3時頃まで休みでほとんどの人々は家に帰り昼食をとって昼寝をしてそれから事務所に来てまた3時から5時頃まで働きます。最初は私はそういうやり方になじめなかったので、昼も事務所で簡単に食事をして、昼休みも、町であちこち、それでもやっている店や工場に仕事で出かけました。相手が休んでいても、ちょっと失礼に起こしたりしていました。ある時、親しい取引先のザイール人が私にいいました。あのね、昼のこの時間に、カンカン照りの太陽の下で働いているのはトカゲと日本人だけだなといわれました。


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〈以前にお土産でいただいたアフリカのインスタントコーヒーと、先日現地の従業員だった方が日本まで持ってきてくれたという、アフリカの清水家の庭になっていたアボガドです。このアボガド、全く癖がなく、ちょうど食べごろで最高の味でした。娘のシオリが「なにこれ~!おいしい!ウチアボガド好きかも~」と大騒ぎ。一口で、わが家にアフリカの空気が広がりました。〉



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アフリカ人と柔道を

 こういう異国の地で柔道をするのが私の夢の一つでしたので、少し落ち着くと柔道場を探しました。町には大きな柔道クラブが一つあり、それはIBMのクラブでしたので訪ねてみました。社員以外にも解放されており、私も歓迎されましたが、アフリカ人はオフリミットで白人だけの世界でした。私もしばらくそこに通いましたが、そのうちに、せっかくアフリカに来たのだから、何とかアフリカ人と柔道をやりたいものだと考えましたので、まず事務所にいる屈強なアフリカ人のスタッフに話をもちかけて、その友達を集め、最初は空き地の草の上で相撲をするように柔道の手ほどきをしました。そのうち見物人が多く集まり、柔道をしたいというアフリカ人もふえましたので、何とか自分たちで柔道場を持ちたいと思うようになりました。道場に使える民家か空き地がないかと、あちこち相談していると、キンタンボという地区の区役所から青空市場に使っている区域の隅の土地なら無料で使ってもいいとの話があり、そこに道場を作ることになりました。土地をかりても、道場の建物を建てるほどのお金はありませんでしたから、皆で、無料の勤労奉仕をして、杭や板を持ち寄り、それで道場の型の吹き抜けの建物の枠組みを作り、そこにマットを敷きました。マットも本物ではありませんから、大きな布の袋に枯れ枝やおがくずを詰めて、縫い合わせ畳みくらいの大きさにしたものを何枚も作りました。畳のようにすり足は出来ませんが、それでもクッションの役にはなります。その袋を40個くらい敷き詰めてそれで道場です。稽古の度にあちこちの袋の一部が破れるので、稽古が終わるとそれを縫って修理するのが稽古後の作業の一つになりました。メンバーは50~60人くらいいて、私はほとんど毎日、仕事を終えてから、晩の7時頃に来て、2時間ぐらい稽古をしたわけです。ザイール人は柔道に非常に興味を持ち、力もあり運動神経もいいですから、いろいろの技をすぐに覚えました。また、それ以上に、礼儀に関心を持つので驚きました。彼らは、正座、黙想、礼、など、かけ声をかけて、儀式のように静かに座り黙想をします。黙想は特に好きで、5分くらいでも全く動かずに正座しています。それは後に他のアフリカの国に行っても同じでした。日本語を覚えるのも早く、後にケニアで私が柔道を教えていた道場では、私が道場の彼方から歩いて道場に近づくと、リーダーが稽古を止めて、大声で、先生に向かって礼!といいます。
 キンシャサの道場では準備体操をする前に、全員で町のなかをランニングで走ることにしていましたが、音感がいいので、歌を歌いながら走ると皆がよくリズムに乗りました。柔道日を着ているものは少なく、ほとんどが上半身裸で、裸足のものもいます。こういう人たちが40~50人くらいで歌を歌いながらリズムに乗って町のなかを走るのはなかなか爽快でした。道場では、日本で私がやっていたのと同じように体操をして、腕立て伏せや、うさぎ跳びや、受け身などをやり、その後、乱取りをします。湿度が高く、温度も高いですから、かなりの運動量で、私にはかなりこたえましたが、当時は私も若く、また、彼らの熱意を感じで夜遅くまで、柔道場にいることが多かったです。すっかり夜になり、星空のもとで、ビールやバナナの酒を持ち込んで皆で車座になり、いろいろの話をしたものです。仕事がない、お金がないというものが多く、可哀想でしたが、日本でも柔道をしているものは金のないのが多いけど、一生懸命に柔道をしているとそのうちに神様が見ていて、きっといいことがあるなどと、いい加減なことを言って対応していました。
 いま、思うとやはりあのころに私のアフリカ化の基礎が出来たのだと思います。日曜日はいつも朝から道場に行きました。彼らも張り切っていつも来ました。彼らにとっても柔道が面白かったのだと思います。私が道場に来るとそれまで広場でサッカーをやって遊んでいた連中が走って道場に集まります。柔道着はまだたくさんはありませんから、ほとんどのものは裸で、あるものはジーパンで上は裸、あるものは上着だけで下は短パンだけと、あるものは帯だけ身につけて、稽古をするのですが、とくに奇異にも感じません。日曜日には特に見物人が多くて、道場の周りに鈴なりです。何重にも人垣が出来て。時々後ろから押されて列が道場に倒れ込むことがあります。やはり、日本人が珍しく、柔道も神秘的で面白かったのだと思います。ザイール人は力が強く、運動神経もいいですから、私が技を教えるとまもなく私がその技で投げられるのです。私は大学で随分寝技をやったものですから、彼らによく寝技も教えて、これは待ったなしだぞ、決してあきらめるな、それをコンジョウだと教えてかけ声をかけました。ザイール人は力はあるのにすぐにfatigue fatigueというのです。疲れた、疲れたというのです。私は、あんた達は力があるのにすぐに疲れた、疲れたでは情けない。これは柔道だけでなく、仕事も生活も、もっとコンジョウを持って頑張れ、そうしないと立派な人間になれないぞ、と気合いをいれました。そのうちに私の方が疲れて休もうとすると、逆に、コンジョウ!コンジョウ!と気合いをいれられました。柔道の稽古はその町内の名物のようになり、町内の人々ともお互いに親しみを持つようになると、誰も私のものは盗らないようになりました。普通はその地域は物騒だといって、日本人は勿論、外国人は近づかないところで、人々も、みな貧しいからなんでも盗るのですが、私が道場の隅に靴や時計や衣類を投げるようにおいても、不思議と誰も盗りませんでした。あんな連中でもなにかルールがあるのかなと思います。
 柔道の稽古が終わるともう夜の10時過ぎになりますが、それから時には、有志を募って、10人前後でナイトクラブ巡りをよくしました。ナイトクラブといっても、たいがいは星空の下で屋根もなく、ドラムやエレキギターの大音量をバックにザイール人がはち切れるような声で歌って踊っています。ザイールはアフリカでももっとも音楽がすぐれていて、かれらの音感とダンスのセンスはアフリカでも抜群といわれます。クラブでは歌手が大きな音量で夜空に向かって叫びあげます。それは日本などの加工された歌や音楽と違い、何か魂を揺さぶる叫びに聞こえました。そこで踊る人たちの輪はどんどんと大きくなり、踊りもリズム感にあふれ、私はいつも圧倒されました。


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〈 一目惚れしたというキリマンジャロを皮切りに、アフリカの山に登りまくっていた清水さんですが、もともと登山の趣味は無かったのだそうで、日本の山は昨年奥様と登った富士山が初めてだったといいます。目の前の興味に即夢中になる清水さんらしいエピソードです 〉



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平均視力3.0

 キンシャサは大変、泥棒が多いところで、私がまだホテルにいた頃は、部屋でベッドに横になっていると、入口のガラス窓あたりから長い竹竿のようなモノが伸びてきて、それが部屋に吊るしてある私のズボンを引っかけて、また竿が入口に戻っていくので、慌てて追いかけて取り戻したことがありました。その後私が町の中の一軒家に住み始めたころ、ある時は、私が昼間、家の玄関から出かけようと外に出ると玄関脇に2人がはしごを持ってたたずんでいるのです。どうするかと聞くと、今、休んでいるだけと言います。おかしいなと思って路地をまがってすぐに戻ろうと見るともう、はしごを塀にかけていました。あわてて、彼らに近づき、ここで何をするかと問うと、これを立てかけただけだというのです。争っても仕方がないので、少しお金をあげて、これで何かを買って食べたらいいというと、それを受け取っていなくなる。

 一体にアフリカではひとのものをとることは、いいことではありませんが、日本で考えるほど悪いことではなく、持っていないものが持てるものから何かを盗むのは、むしろ当然という感じでした。ですから盗られたくないなら、盗られそうなものを持たないことです。ある晩、そのころはまだ家族が来ず、単身で過ごしていましたが、ベッドの上で眠っていて何か動くので目を覚ましたら、人が何かを持って寝ている私の上を飛び越して窓に向かっていくので、とっさに捕まえたら、まだ少年のようなザイール人でもみ合って、私が優勢で馬乗りになったら、その子がさかんに謝るのです。それでまあ話をしようということになり、身の上話を聞かされて、父親がいなくて、母親が病気で自分が母親と弟たちの世話をしているとのことでした。哀れに感じて逆に米とお金を少しあげたら、急に元気ななり帰っていきました。その子がやがては柔道クラブにきて柔道をはじめましたが、時々何かの時には、あのときはよくドロボーに来たなという話になります。一般の人とドロボーとあまり区別はないわけです。困れば人のものをとることが一般によくあり、こちらが抵抗するとあいても必死ですから危険がありますが、落ち着かせて話せば通じることが案外多かったです。
 当時、ザイールはモブツ大統領でしたが、大統領は国民に演説をするときはまず大サッカー場に数万人の聴衆をあつめ、しまらくみなに、酒などを振る舞います。そして頃合いを見計らい、大統領がニェーニェーと大声でいうと皆がニェーニェーとこたえます。さあ、静かに、とでもいっているのです。それからは大統領の演説と聴衆の叫び声がまるでミュージカルのようにリズムをつくって流れます。いまはアフリカでも民主化が進み、ああいうカリスマ的な大統領はいなくなりましたが、ああいうやりかたがアフリカにはいいような気がします。ザイールのテレビではまずニュースの前に画面に小さな雲が映り、それがだんだんと大きくなり、近づいて来るとそこにモブツ大統領が孫悟空のように雲に乗って、皆に手を振って挨拶をしていました。

 会社で仕事は、当時は日本からの繊維類、食品などの輸出が多く、また、ザイールが資源大国としてマークされたため、日本政府による経済開発協力が始まりました。また、日本企業によりザイールで銅鉱山や石油の開発輸入が進められました。繊維の商売でも、そのころはアフリカンプリントといって、アフリカの民族衣装の生地になるろうけつ染めの高級なプリントの反物が随分たくさん出ました。私の事務所はプリントの柄を次々に作り出すデザイナーでファッションメーカーでした。色も柄もどんどんと新しいのが出て流行します。日本の専門家がいろいろのデザインを考えて色を付けてその写真を毎月たくさん送ってきます。私たちがみて、それらを売れそうな柄と、あまりよくないと思うのに分けて、ザイール人に見せると、彼らの選択はその逆のことが多かったです。一体にアフリカ人の美に対する感覚は非常に鋭いものがあり、それが音楽や絵画、デザインなどに出ていると思います。日本人には不可解なものも多く、大流行した柄の一つに、布地に大きな木を描いて、その木から葉が落ちるのを描いているのですが、落ち始めたばかりの上の葉っぱはお金で1ザイール紙幣、それがもう少し下におりると5ザイール紙幣、もっと下におりると10ザイール、地上につもると100ザイールの紙幣になるものです。これが大変な評判となり、空前の数量が売れました。ろうけつ染めのアフリカンプリントはザイールの女性のあこがれの的で、これを買うために女性は家を質にいれ、反対する亭主と離婚もいとわないといわれていました。それを売る店は押すな押すなの大にぎわいとなり、警察が出てお客の整理をすることも珍しくはありません。店の表の戸を全部閉めて、まず10人だけお客を入れて、その10人が買いものを終えたら次の10人と入れ替わるという風にします。
 奥地では人々は様々な色を体に塗ったり、また、複雑なビーズの飾りをまとい、時には動物の角や爪、羽、木の実などを巧みに利用して装身具を作ります。それらが、現代のカルチエやカルダンの装身具を圧倒する優れたものであることは、珍しくないでしょう。また、アフリカ人は一般に、身体能力や運動神経にもすぐれ、人間が本来もっていた優れた感覚、機能をいわゆる現代人のようにたいかさせずに、維持しているといえます。アフリカの人の視力は平均でも3.0はあるといわれます。それは私たちにはとうてい見えない、遥かなものを識別します。
 ある時、運転手が大草原を運転していて、急に立ち止まり、どうしたと聞くと、人が助けを求めて叫んでいるといいます。私が静かに耳を澄ませてもなにも聞こえません。運転手は声の方角に移動をはじめ、まだなにも見えない遥か先を指して、きっとあの沼にはまったのだといいます、それで、そこまでしばらく車で行って見ますと、外国人の2人連れが乗った小さな車が底なしの泥沼にはまり、動きがとれず、車の半分が沼の中に沈んでいました。急いでうちの車からロープを出して投げ、それに車をつないで引っ張りあげました。また、彼らの目は夜の暗闇で、月明かりがないときでも、地面の凹凸や水たまりを見分けることが出来ます。夜遅く雨の降る中、何の明かりも持たずに真っ暗な凸凹道を穴にもはまらず水たまりに落ちずにひたひたとまっすぐに歩いていきます。彼らは遠出をするときは一日50キロ以上も歩きます。そういうときは暑さをさけるため夕方に出発し、一晩中歩いて翌朝に目的地に着きます。
 ザイールの奥地には当時まだ未開の地があり、そこには国立公園とされているところがあります。ビルンガ公園といいました。面積は四国の全部と同じくらいです。それはザイールの北東部に位置し、隣国のウガンダ、ルワンダなどと接しています。アフリカの大地溝帯の外にそってあり、エドワード湖、タンガニーカ湖、ビクトリア湖などの大きな湖が集まり大地溝帯の西に接しています。交通も不便ですから観光客も少なく、動物が自然のまま生息しているのを見ることが出来ます。アフリカの他の地域の保護区では数が少ない、カバやワニがこの地域では無数にいます。湖のなかではカバが池のカバと喧嘩をして大きな口を開けて戦っていたり、岸辺にはワニが尻尾を砂浜にあげて、眠ったふりをして休んでいます。この尻尾の近くに行くとワニは猛烈な力で、接近する動物を叩き倒して、水に引き込んで食べてしまいます。私は時に鶏に針金をつけて尻尾に近づけ、それをくわえたワニと引っ張り合いをしたものです。川や沼で見渡す限り、無数のカバがいる風景など異様に感じましたが、本当の野生の動物たちです。また、ブカブという奥地の町の郊外を歩くと当時は野生のゴリラにあえました。町はずれの小道を歩いていくと、森から出てきたゴリラの親子が道を横切ります。草むらに入る前に道の中央でゴリラがふいと前足をあげて立ちあがって、一つの前足を顔にかざしてこちらを見ます。そうすると姿と動作がほとんど人間と同じで、どうやって見分けるか難しいのです。見分け方はパンツをはいているかいないかだといわれました。あの姿を見ると、ゴリラなどは人間とそう、遠くはないと思います。ああいう仲間がいま、どんどんと数が減っていくのは実に寂しいです。


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〈庭に池をつくりたいんだけど、という相談が清水さんとの出会いでした。アフリカの家にあるようなでっかい池を・・・というわけにもいかず、でもとても気に入っていただき、故郷の長岡から運んだ錦鯉が今日も元気に泳いでいます。〉



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 走る

DC3不時着!そして

 家族との生活では厳しいことも少なくなかったです。家内が急性の赤痢になり、下痢が止まらず、ベンが血で赤くなり水のように流れて止まりません。目に見えて衰弱していくのをみて、家内を車に積んで、ベルギー人の病院に行きましたが、ベルギー人以外は診察しないとのことで断わられ、あちこち町中を走って医者を捜しましたがだれも処置が出来ず、途方に暮れて、貧民窟に入ったところ、多くの患者があふれている診療所がありました。そこで診察をしている中国人の医師は親切に診てくれて、これはアメーバー性の急性赤痢で早く処置しないと危険だとのことですぐに注射をして、のみ薬を投与してくれました。その甲斐あって、数時間後には家内の状態は快方に向かい、数日後には元気になりました。あそこの、あんな汚い貧民窟で平然と働いている中国人の医師はまさに神様でした。ああいう立派な人が誰にも知られずに人々を助けているのだと思うと、身が引き締まりました。
 ザイールは私にははじめての外国ですから、なにもかも目あたらしく刺激的でした。考え方も、やり方も全く違うことばかりで、いかに、それまでの常識が通じないかを思い知りました。言葉も英語が通じないだけでなくフランス語が公用語で、それも、通じる人は限られていました。モブツ大統領は1974年頃初めて国賓として日本に行きましたが、日本から帰ったとき、キンシャサの空港で多くの観衆を前に、帰国の演説をしました。曰く、日本では人々は英語でもフランス語でもなく、全く別の言葉をしゃべっている。我々ももっと本来の自分たちの姿に戻ろうと呼びかけました。AUTHENTICということが、国民の合い言葉になり、フランス語よりリンガラ語を重視し、アフリカの従来の生活様式を大切にする運動が盛んになり、これが、また外国人やその文化を排斥する運動につながりました。日本人がフランス語でも英語でもなく、日本語を使っているということが思わぬ影響を与えました。

 キンシャサにいて、腰巻きや缶詰めを売りまくり、晩には柔道の仲間と一緒に過ごしそれなりに落ち着いて行きましたが、それでも、時には不景気風がきて、なかなか商品が売れなくなります。そんなときは見本を鞄に詰めて、私はザイールの奥地に転売に出かけました。飛行機で行っても仕事に合わせてキンシャサに帰るようなスケジュールの飛行機便はありませんから、飛行場に行っては次の飛行機便の予定が入ってきたか調べて、なにもないと、また町に帰って、ブラブラ過ごします。ホテルの食事も毎回同じメニュー出し、町の映画館も一軒だけで、毎日、同じ映画をしています。読む本もなくなるし、キンシャサとは全く連絡は取れないし、娯楽も全くない状態で何日も過ごすのは楽ではなりません。町のマーケットでオウムを手に入れ、ホテルの部屋において、オウムをかまったりして過ごしました。当時はザイール国内の飛行機便はDC3といって、プロペラ木で10人乗りくらいの飛行機が使われ、いかにも古くて不安なのですが、一度、私がブカブという奥地に行ったときにDC3がバナナ畠に不時着しました。かなりの衝撃でしたが、幸い燃えもせずに、非常口から主翼の上にでて、そこから下に飛び降りて、外に出ました。それから、道にそっていつまでも歩いて、歩くうちにだんだんと連れの乗客も減り、最後は一人で、小さな村に着き、農家に泊めてもらいました。家は小さく、明かりはなく、かなり狭いので、私は庭先にいすを並べてその上で休みました。近所のザイール人が遠巻きに私を見に来ていて、なかなか寝つけず星空を見たりしているうちに、夜が明けて来ました。翌朝早くから、延々と細い道を歩いて、夕方にようやくブカブの町に着きました。そこで飛行機便を待って数日過ごして、キンシャサに戻り、さぞかし家族が心配しているだろうと、家に帰りましたが、家族は私が仕事が忙しくて帰りが遅れていると思って、全く心配はしていなかったことがわかりました。でもこと飛行機の不時着の経験をして、ふと、こんなところに長くいると、いつかは死ぬことになるかもしれないと、急に、寂しく里心が起きて、日本に帰ることにしました。自分で帰る時期を決めて会社には今年中に引き揚げるからと伝えました。
 4年間のキンシャサ生活を終えて、キンシャサの空港から出発するときに、多数のザイール人の柔道の仲間が見送りに来ました。彼らに、私は今は日本に帰るが、そのうちにまたキンシャサに戻って来るといいましたら、外国人は皆がそういってキンシャサをあとにして、その後は決して戻って来ないといいました。それなら私は絶対にまた来てみせると心に決めたものです。

 日本に帰ると、わずか4年の間に父は亡くなり、町は騒々しく、キンシャサと比べて、何か、根本的に落ち着かない雰囲気を感じました。アフリカは遠くて未開とはいえ、何か人間的なぬくもりをいつも感じていましたが、日本では皆がガムシャラに働いて、競争している生活だなと感じました。働いて、多少のお金を貯めて、郊外のマイホームに住んで、それで果たして幸福になれるのだろうか。そういう生活が私にはいかにも無味乾燥で一度しかない人生がもったいなく費やされる気がしました。何とかもっと刺激的でやり甲斐のある環境に移らねばと思いました。
 再び三菱商事の大阪で繊維部で仕事を始めましたが、仕事も簡単なものが多く、要するに、輸出とか営業といっても具体的な作業は小学生程度の算数で、原価や利益や運賃を足したり引いたりするもので、これなら大学まで出ることもなかったと思いました。また、会社の中での給与や昇進などで、なぜ、皆がそんなに必死なのかわかりませんでした。一度アフリカで見た世界に比べて日本の生活や仕事がいかにも安っぽい、偽物の世界に思えて来ました。大勢のサラリーマンやOLが毎朝必死で地下鉄の満員電車に乗り込み、会社でひたすら会議や計算に没頭する、そういう生活が本当に自分にとってやり甲斐のあることだとは思えず、あのキンシャサのような、貧しく激しい生活環境でも、生の人間がたくましく生きる世界に魅力を感じました。
 大阪で鬱々として、通勤する日が続きましたが、生まれて間もない次男が、6ヶ月目でもクビが座らない、寝返りも打てないので、病院で診察してもらったところ、医師は子供を裸にして片足を持って吊るし、ぐったりとたれている状態を見て、これは重症の脳性麻痺だと診断しました。あっと驚きましたが、嘆いても始まらず、よし、日本では面倒だから、この子を連れてアフリカに戻ろうと考えました。たまたま、尼崎に訓練所を紹介され、そこに毎日通い、手足の麻痺を回復させる為に激しい訓練を繰り返しました。会社にはこういうわけで毎日、半分しか出勤出来ないと申し出て、許可をもらいました。訓練所では多くの障害児が通って訓練を受けていました。赤ん坊を裸にして、机の上で仰向きにおき、体を押さえ込んで押しつけ、手足を一つずつ解放すると、赤ん坊は苦しいから手足をけり出して抵抗しようと、運動するのです。その時の赤ん坊の叫びや、悲鳴は壮絶で、いかにも赤ん坊をいじめつけている様で、切ないものでした。ここに1年近くも毎日通い、アフリカ行きは少し先に延ばしました。毎日、欠かさず、訓練に来る私に、そのこ理学療法士の先生は、あなたは立派だ、いつも親が子供を訓練に連れてきても、親が長続きせず、子供は回復せずに結局施設に入る。いったん、子供が施設に入ると親は、自分の目の届かないところに子供がいるから、もう、真剣に子供のことを考えない。いくら、施設を充実させても、子供を本当に救えるのは親の愛情だけだといいました。結局、1年半くらいの訓練ののち、ようやく子供の手足の機能が回復してきて、訓練所には週に2回程度いけばいいことになりました。



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〈笑顔があふれるすばらしいご家族なのです。〉




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 走る 新着ブログの『実写版 汚主婦返上』こういうブログの活用法もあるのだと感心。今後が楽しみです。自分の家が片付いていくような爽快感を味わえます。でも現実のわが家は・・・。サア、掃除しよっと!

タンザニアのウミガメ

3. ダレサラ-ム時代

 1977年頃、日本でアフリカが注目されてきたときに、会社はタンザニアに事務所を出した方がいいかどうか調べるために調査団をタンザニアに送ることとなり、私もそのメンバーに入りました。タンザニア政府の役所に行き、いろいろの状況を聞き、また、町では主要な会社・工場を訪ねて、景気の見通しを聞いて情報を集めて、あとで東京で総合して、店を出すかどうか決めるのです。タンザニアの副大統領に会うためにザンジバル島に行き、その時に海岸で泳いだところ、私は水中に大きなウミガメをみました。水がきれいでそこに大きなウミガメが泳いでまるで水族館のような景色です。私はなんとしてもここに来て住みたいものだと思いました。調査が終わり東京に帰り、店を出すかどうかの検討会では手を尽くして、是非ダレサラームに店を出すべしとの意見を具申し、強引に開店の方向に皆を誘導しました。商売もある程度は期待できましたが、何しろあのウミガメです。ああいう亀が自然に見られるような海岸があるなら、是非行きたいものだと思い、それで頭が一杯になりました。仕事は何とかあるだろうと適当に考えていました。それで、私が中心になり、ダレサラームに店を出す計画書をまとめ、会社の役員会で説明し、ようやく賛成を取り付けました。そうなると誰がそこに赴任するかとなり、私は当然、私自身が行くのだと信じて、私が行くといいますと、当時の上司が、君、会社で自作自演はまずいな、というではありませんか。私は、いや、自作自演だからこそいいのですと反論しました。それでも社内では他の候補者がでて、私がどうなるかわからない情勢となったため、私はライバルの候補者を捜し出し、ダレサラームは生活環境が悪くマラリヤ、結核等の疫病が多く、かなりの危険があるから、いかない方がいい。自分は店の設立調査をした責任があるから行ってみると話して、説得し辞退してもらいました。

 ダレサラームには他の同僚と共に赴任し、最初は、住宅も事務所もホテルでしたが、三菱商事がダレサラームに人を二人も送って店を出したということが他の日本の商社に刺激を与え、私がダレサラームについてわずか半年後には三井、丸紅、伊藤忠など大手の商社が人を出して開店しました。狭いダレサラームの町に急に日本人がふえて、集まると、お互いに顔を見ながら、ここはどういう仕事があるのだと訝ったりしていました。三菱が店を出したからには何か仕事があるのだろうと思ってでてきたのです。それから今では25年が経ちましたがダレサラームでは日本の商社で日本人が滞在しているのは三菱商事だけであとはすべて、事務所も閉鎖するか、あっても日本人はおらず、名前だけの事務所となっています。タンザニアではニエレレ大統領というアフリカでも屈指のリーダーが、植民地から独立後、厳しい社会主義の体制をしき、当時の共産主義のソ連、中国、北朝鮮の強い影響を受けていました。土地もビルも皆、国有化され、国語はスワヒリ語だけで英語も認められません。長らくタンザニアに住んで、タンザニアの経済をささえたインド人も大半は国を去り、欧米の企業も次々と店じまいをしていました。日本政府はニエレレ大統領のアフリカ全体に対する大きな影響力をみて、タンザニアがアフリカの発展のコアになると考え、ここで日本が積極的に取り組みを進めれば、アフリカ全体に効果があるとし、タンザニアへの開発援助を強化し、ダレサラームでの活動を強化したわけです。でも実際の町は社会主義体制ですから、ものも少なく、娯楽もありません。町の中心にある大きな店も私ははじめて行ってみたとき中に大きな棚があちこち並んでいるので、ここは棚を売っている家具屋だと思いましたが、あとで、それは棚にのせる商品がないために棚だけがあるのだとわかりました。私は初代の駐在員として来たのですが事務所もないし、家もないので、ホテルで2部屋をかりて事務所と寝室にしました。年中暑く湿気も高くちょうど日本の夏をもう少し暑くした気候です。停電、断水、電話の普通は当たり前で、そこで寝泊まりし、仕事をするのはなかなか大変でした。それでも海が近いのが救いで、海岸の市場から魚を買ってきてホテルで炭火で魚を焼いてそのフロアー全体に煙が行って苦情を持ち込まれたりしました。
 ダレサラームでも柔道を始めようと思い、新聞に広告を出し、有志を集め、道場に使う場所を探したところ、CCMというタンザニアの唯一の政党の事務所が持っている集会所の一部をかりることが出来ました。町の中央にあり、CCM党の催し物がよくあるところで人も集まりやすいところでした。タンザニアでは事務所は通常、朝7時から始まり午後2時で終わります。ですから、事務所が終わるとほぼ毎日私は柔道に行きました。部員は12歳くらいの子供から20歳くらいまでの少年が中心で、全部で100人くらいですが、狭い道場でしたので3組に分けて交代で稽古をするしかありません。それでも皆が熱心で、礼儀からはじめ、体操、乱取り、寝技など日本でやるのと同じような稽古に励みました。体格がよく体力がありますから、めきめきと強くなるものも出て、私も油断すると投げられました。
 柔道の稽古にはいつも見物人が多いですが、注意して見ているといつも、黒いベンツで来て、熱心に最後まで見ている人がいました。そこで友達にあれは誰かと聞いたらマルチェラという有名な政治家で今は農業大臣だといいます。彼の子供がいつも柔道に来ていたので、それを見ていたわけです。このマルチェラとの出会いが私に大きな影響を与えました。タンザニア人は総じてやさしく、控えめで、あまり活発ではないのですが、マルチェラ氏はかつては国連大使として、国連総会の場で日本政府のアフリカ政策の無策を糾弾し当時の日本の外務省が震え上がったといわれ、世界的に注目されているアフリカの政治家です。私は柔道の縁で彼の自宅によく出入りするようになり、彼とその家族と親しくなりました。夫人はタンザニアでも有数の弁護士として活躍していましたが、実に謙虚な人で、私はお百姓をして鶏や牛と生活するのが一番の願いといつもいっていました。
 1980年頃タンザニアは厳しい旱魃に見舞われ、主食のトウモロコシが立ち枯れて国民の食料の確保が出来なくなり、社会不安がおきました。マルチェラは農業大臣として、食料の調達の責任者です。私が呼ばれて相談を受けました。当時、日本では豊作が続き、古々米が何百万トンも貯蔵されて、一部は家畜の飼料にされるとの噂が出るほどの状況でした。その話をマルチェラにすると是非そのお米をもらいたい。日本にいきたいがどうすればいいかとのことです。私もそういうことにはなれていなかったのですが、本社に連絡し、当時の経団連のアフリカ委員会の会長である河野文彦氏、この方は当時の三菱重工の会長でしたが、に相談することにしました。マルチェラは東京に行き、河野氏に面談し、タンザニアの状況を説明して協力を乞いました。河野氏は、僕はもう、年だから今の政治家はあまり知らない、鈴木君にでも会ってみたらどうかとのことで、その場で鈴木善行首相に電話で話してくれました。マルチェラは鈴木首相に会うと、タンザニアは家畜の飼料はたくさんあるからそれと日本の古々米とを交換していただきたいと懇請しました。マルチェラはアフリカに冠たる政治家で貫禄負けはしません。首相に、あなたは昔農業大臣だったこともあり、いま首相をやられている。私も今は農業大臣だがそのうちに首相をやるかもしれないといいました。このご恩は決して忘れない。是非タンザニアにお米の援助をしてくださいと願い、後に焼く15万トンのお米が船に積まれ、それがタンザニアの食料危機を救いました。そのころから日本政府のタンザニアに対する援助が活発になり、私の方でもいろいろ手伝って仕事が出来ました。
 ある時、日本政府の援助の肥料が船に積まれて到着し、それを祝って、私がダレサラームのホテルで、引き渡しのパーティーを催しました。そこにはタンザニア政府側から農業大臣のマルチェラ氏をはじめ政府関係者が出席し、日本側も大使をはじめ大使館員やダレサラームに在住の邦人も出席しました。席上、私が話をはじめ、これは日本政府がタンザニアに贈る肥料であり、三菱商事が契約に基づいて、納品します。これがタンザニアの食料の増産に役立つことを願っていますと挨拶しますと、その話の終わらないうちに、日本の大使が、すでに、お酒がまわっていたのですが、ちょっとまて、三菱、三菱とえらそうにいうが、これは日本政府のお金で日本政府が贈るものである。三菱など、ほんの一つのsmall companyだと、言おうとして、酔いのせいか誤って、Mitsubishi is only one small countryといいました。
 すかさずそこでマルチェラが話を遮り、ほら大使、あなただって、三菱はsmall countryだといっているではないですか。少なくとも一国ですからあなたの権限外です。だいたい、日本大使館にいって話を聞くより三菱に相談した方がいつも親切に教えてもらえて情報もたくさんあると言いました。それをきいて激こうした大使は、近くにいた日本大使館員に、君がしっかりしていないからこういうことを言われるのだといって、いきなりその大使館員の顔を殴りつけました。大使館員は鼻血を出しました。その事態をみて、マルチェラは警備員を呼び、暴れる大使を会場の外に出すように命じました。
 日本からの米の船は毎月ダレサラームの港に入り、この仕事は総額がかなりの金額になりました。それでも、この仕事ではいっさいのリベートもコミッションもなく、非常にきれいに契約が履行されました。よく、援助の仕事は裏があって、政治献金やリベート、口利き料、果ては談合などいろいろと悪く言われますが、マルチェラ氏はいっさい私利私欲を持たずに、政治的にはいつもnational innterestを考えていました。その風貌も茫洋としており、私は、これは西郷隆盛のアフリカ版だなと思ったものです。最近、数年前ですが、同氏の次男、私が柔道を教えた子ですが、突然死亡しました。食中毒といわれましたが、変死との噂もあり、政治的な背景があって、食物に毒を入れられたとも言われます。葬式が終わってかなりたってから私は1人でマルチェラ氏の家に行きました。家に近づくと、いろいろのことを思い出して、涙が出て止まりません。不本意でしたがそのまま、マルチェラ氏に会いました。マルチェラ氏は私を見ると、泣くことはない、自分は決して悲しくない。いいかね、清水、人間はたとえ毒を盛られても、神様が生かそうとおもう人間なら死なない。イッピーは神様の思し召しで今は神様と共にいるだけだ、なにも悲しむことはないと、にこにこと言いました。この端睨すべからざる人物の言葉にはいつもながら驚きます。飾りもはったりもなにもなくいつも人の心に残ることを話します。来年はタンザニアで大統領選挙が予定され、同氏も立候補すると言われています。アフリカにはこういういわば、ホンモノの人間が時々いてその人達に出会うことが、アフリカでの楽しみの一つでした。



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〈清水さんがキリマンジャロで御来光を見た時にもらしたひとこと。人づてにそれを聞いた実家のお姉さんが筆を執り、葬儀後横浜の家に送ってきたものだそうです。『感動にひれ伏した』、そんな瞬間に出会ってみたいものです。〉



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 走る 新着ブログの『スパイダーウーマンが空を飛ぶまで』、この人の豊かでしなやかなイマジネーション、イイ感じです。さーて、私も負けないでイマジネーションかき立てて仕事しよ~っと。今日は入社希望社の面接2件と設計2プラン、それからスケジュールの整理です。

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 ダレサラームのわが柔道クラブは、ダレサラームの名物になり、ダレサラームの港祭りなどがあるといつも港での仮設の道場で段取りや試合をしました。三菱の会社に無理を言って、30人くらい乗れるバスを買い、いつもそこに柔道メンバーと畳を積んで、あちこちの会場に移動したものです。ある時、一度ケニアに行って柔道の試合をやりたいということになり、私もケニアではいくつかの柔道場があり、日本からの数人の海外青年協力隊の指導者がいることも知っていましたのでいい機会だから、何とか遠征しようと決めました。皆が貧乏ですから飛行機で行く資金がなく、陸路を行くにも、当時は前の東アフリカ3国の協力体制が崩れて、国境はお互いに閉鎖していました。それで人も車も国境を通れないのですが、タンザニアの内務省に事情を説明し特別通行許可をもらいました。長い陸路をバスで30人くらいで深夜もノンストップで走り、途中では暗闇に多数のキリンの群が道路を横切ったり、象の群れが出てきて車が動けなくなったりしました。ダレサラームからナイロビまではざっと1、500km位ありますから、どこか途中で一泊するのが普通です。でも30人全員が貧しく、また私もとても30人のホテル代を払うほどはお金がありません。ですから、途中で何回か休憩はしても、決して泊まらず、食事もバナナやパパイヤですませ、ナイロビには翌日につきました。
 ダレサラームの柔道クラブのメンバーは全員が生まれてから海外は勿論、隣のケニアでも初めてです。ないないづくしのダレサラームと違い、ナイロビの町はどの店にもモノがあふれていました。それで私は全員に言いました。一つは、モノを絶対に盗らないこと。どんな小さなモノでも盗まないこと。宿はYMCAの大部屋に全員で泊まりました。ナイロビの日本人から差し入れが来ましたが、いつも古着や余り物で、もう少しいいものをくれたらいいのにと恨めしく思いました。タンザニアから来たというとそれだけで哀れに思われたのです。いくつかの柔道場を訪ねて、合同稽古をし、最後にナイロビの郊外で、刑務所の管理者を養成する学校の柔道場で共同でナイロビの柔道クラブの混成チームと親睦試合をすることになりました。協力隊の専門家が教えていますから、なかなか、技が多彩で、立ち技ではケニアの方が強いと見られました。ところが試合になると、タンザニアは寝技に強いため、
もつれ込んでは押さえ込んだり、絞め技で相手が気を失うことまであり。タンザニアが圧勝しました。ケニアの選手は、あんな、自分たちが知らない技を使うのは卑怯だと騒ぎ、もめたのですが、ケニアの選手が寝技をやっていないのが悪いので、タンザニアの勝ちとなりました。
 そこを去るときにケニアの代表が来て、今回は親睦試合ゆえこの試合の結果は絶対に公表はしたいでくれとのことでした。我がチームは全員がバスでナイロビの中心街に行き、皆がなにかを土産に買いたいと言うので、あるところでバスを止め、全員に一つだけ欲しいモノを買ってあげるから、これから1時間の間に店を見て、欲しいモノを決めてこいと言って皆をおろしました。やがて1時間後に帰ってきて欲しがるモノは運動靴でした。皆が運動靴を欲しがるのは不思議でしたが、誰にとってもナイロビのいい靴が欲しかったのでしょう。みなが運動靴を買いました。ダレサラームに帰ると、柔道で遠征グループがケニアに勝ったという噂が広がり、ラジオが放送し、新聞にものりました。ケニアでは公表しないとのことでしたが、政府の文化スポーツ省がそんなことはかまわないと、大きく新聞に載せました。
 当時のタンザニアは大変貧しく、靴を履いていない子供が多かったです。衣類も粗末でぼろをまとっている姿です。日本からの古着を送ってもらってはよく皆に配りました。日本からの古着は女性の服が多いですが、それを仕立てなおして、男性が着ていました。私たち外国人も、パンやお米、砂糖のような基本的なモノも買えないことがよくありました。
 当時、タンザニアの建設省から三菱商事が大量の建設機械やトラックの注文を受けました。それもダレサラームを200キロ位南下した、ジャングルの中に届けるのが条件でしたから、軍隊から特殊な運搬船をかりて、インド洋を南下して、苦労して陸揚げし、ブルドーザーやホイールローダーを先頭に道のないところを切り開きながら終日かけて目的地に進み、建設省のキャンプに機械を届けました。その後、ダレサラームで契約完了の条件として、建設省の本省から、確かに機械を受け取ったとの確認の書類をもらわないといけないので、役所に行くと、係の役人の秘書の女性が、なかなか手紙をタイプしてくれないのです。大して忙しそうでもないのに、行くたびに、忙しいから明日きてくれといわれたり、また不在のことが多く無駄に日が過ぎました。そこであるときに彼女にいったい何が忙しくて私の手紙が遅れているのだと問うと、あなたは知らないのか、今、町にはトウモロコシの粉がなくて、私の家族はウガリ(トウモロコシの粉でこれが主食)が食べられない。子供は毎日、空腹で泣いているし、赤ん坊はマラリヤで高熱を出しているし、とても仕事どころではない。あなたの手紙のタイプはしばらく待って欲しいとのとこです。そこで私は早速、翌朝にトウモロコシの粉とミルクを持って、彼女の事務所に行き、それを渡して、手紙を作ってもらいました。それは賄賂でも、付け届けでもなく、やはり人間のつきあいで、お互いの友情の証なのですね。そういった信頼関係がいったんできてしまうと、今度は頼まなくても、あちらから助けに来てくれます。私はいままでどれだけアフリカ人に助けられたかしりません。仲間を助けるとなると、自分の身の危険を顧みない勇気を発揮します。
 話は後日私がナイロビに住んでいる時のことですが、私のナイロビの家には、タンザニア時代から私を慕ってついてきた柔道の弟子が離れに何人か住んでいます。彼らはダレサラームではなかなか仕事が見つからず、私についてナイロビで暮らし、柔道をしたり、事務所の手伝いをしています。ダレサラームでは貧しく、学校もいけなかったので、私がナイロビで学校に通わせて英語などの勉強をさせていました。ある時私が寝ていると、どうも屋根の上あたりで人の歩くようなミシミシという音がします。はてなと思い、すぐにこれは泥棒か強盗だなと思いました。それですぐに非常ベルを押しましたがどうやら電線が切れているらしく鳴りません。そこで思い切って窓を開け、大声でタンザニアの連中の寝ている離れの方に叫びました。そこまで40メートル位もありますので相当に叫ばないと届きません。おーい、ドロボーだと叫ぶと、それと同時にパーン、パーンと銃の音が近くでします。これはピストルを持った強盗だとわかりましたが、部屋に入って来るまでは、まだ鉄柵の窓や扉がありますからもう少し時間がかかります。そこで一番奥の部屋に入って、窓からこっそりと庭をみるとうっすらとした明かりのもとで数人の賊が走りまわっていて、その向こうからタンザニアの連中が何人か、走りながら飛び出して来たのです。それで、賊はまたパーンと銃を発しましたが、皆が追っかけあいになり、そのうち賊が逃げてしまいました。しばらく様子をみてから、外に出てタンザニアの連中をみると皆、パンツ一枚で裸足で飛び出して、ピストルにもひるまず賊を退治してくれたのでした。そりゃあ、もう、20年も私が育ててきた子供達ですからうれしかったです。彼らは普段は私をfather、fatherと呼びますが、その時はおやじの一大事と思ったのでしょうね。 柔道クラブのメンバーは十代の少年が多いですが皆が普段はトウモロコシの粉でつくった主食とあとはバナナ、マンゴーなどの果物です。鶏や牛肉をあまり食べられないので、時々、うちでバーベキューををしました。1回のバーベキューで使う肉が40キロ位にもなります。柔道のメンバーは今日はバーベキューだとなると前日から何も食べずに来ます。1人で肉の1キロは簡単に食べます。ダレサラームではドロボー、強盗も時々来ました。私がロンドンに出張して家族だけが家にいたとき、昼間に銃を持った5人組の強盗が入り、家内も子供達も銃を向けられ、床に伏せている間に貴重品などをごっそりと盗られました。泥棒との攻防はアフリカの生活を通じ常にありますが、要するに、泥棒が欲しがるモノを持っていると泥棒が来るので、最後は盗られていいものしか持たないようにしました。まあ、お金とかモノがとられるのはしかたないと、さとるようになりました。


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〈池づくりに合わせてガーデンリフォームさせていただいた庭です。ここで、毎年夏にキリマンジャロ仲間が集まってガーデンパーティーが開かれます。主催者は逝ってしまいましたが、今年も先日行われました。今後もずっと続きそうです。〉



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 走る

日本人はマネー教

 ダレサラームでは当時、ガソリンも配給制に近く、特に日曜日の午後はドライブが禁止されました。ガソリンを節約するためです。でも海が近くにあり、そこでは、魚もロブスターやウニなどもふんだんにとれました。小さなヨットを自宅の庭において、海まで運んだものです。海は珊瑚礁で透き通る美しさです。水中めがねをつけて少し泳いでいると突然魚の群に囲まれて怖くなることがあるほど魚はおおかったです。水際に立っても魚が足にぶつかるのがわかります。
 また、電気が不自由で、夜の停電は当たり前、ついている時でも電圧が不安定で、電気が明るくなったり暗くなったりで、安定しませんから、本などよみづらいのです。当時、子供には私が勉強を教えていましたが、夜は電気が不安定なため、毎朝、4時過ぎに起きて、黒板を使って教えました。日本人学校は補習校なので授業は午後だけで、午前中はイギリス系のInternational Schoolにいっていました。このInternational Schoolでも英国やフランスからの先生達が柔道を習いたいといい、毎週2回、夕方、教えにいきました。勿論生徒達の柔道クラブもあって、それが終わると先生達の時間でした。やはり、イギリス人やフランス人は腕力がすごく、教えるのに苦労をしましたが、先生も生徒も、とにかく柔道や日本の文化に非常に興味を持っているのに感心しました。柔道が縁でいろいろの人と親しくなることが出来、このアフリカの果てで、けっこう楽しい友達がたくさん出来ました。日本ではもう、あまり人気のない柔道が外国人にどうしてこんなに人気があるのか不思議に思いました。ある時、そのフランス人の教師が私にいいました。自分は日本が好きだ、それは禅と柔道があるからだといいました。
 アフリカではボランティア活動が盛んです。タンザニアでは、私の家内はダレサラームでイギリス人のボランティアグループに加わり、重い障害を持った人たちを海岸で遊ばせてやる活動をしたり、町から何十キロも遠い、奥地にライ病患者の施設があり、そこには、学校の校長先生等と出かけていました。一般に欧米人のボランティア活動は奉仕の精神が徹底しており、とにかく貧しい人、困難な状況にある人たちを献身的に助けていますが、日本人のボランティア活動は売名行為に堕落したり、また寄付を集めた金儲けに走っているのが少なくありません。欧米人はキリスト教の精神に基づき行動しているのに対し、日本人は精神的なバックボーンがないためではないかと思います。一度インド人がいいました。イギリス人はキリスト教、インド人はヒンズー教、パキスタン人はイスラム教を信じるが、日本人はマネー教を信じるねと。日本人、日本の会社などがすべての物事をあまりにもお金儲けというか金銭的な利益の尺度で測るようになっていると思われます。
 タンザニアでは国民1人の年間収入の平均値は4万円くらいですから、世界でも極貧国のランクに入ります。人々は履き物もなく、衣服もわずかで、勿論お金はありません。仕事もなく、ブラブラしている人があふれているのですが、それでもあまり不自由には見えません。私が田舎道を車でいき、かなり奥にいくと、道が狭くて凸凹で進むことも戻ることも出来なくなると皆が出てきて車を持ち上げて向きを換えて押し出してくれます。そういう人達の生活を見ていると、人間はこれで十分幸せで、多分、今の私達に負けずに幸せなのだと思います。いまだに土でおまんじゅううのように家の型を作り、牛の糞を厚く塗って固めた家の中に電気もなく、水道もなく、大勢の子供の家族が住んでいます。こういう人々に自動車や加工食品などを紹介して、欲しがらせることから、間違いは始まるのでしょう。当時のタンザニアの大統領はニエレレという哲学者でアフリカの第一の精神的なリーダーでした。いつも人民服を着て草履履きで、アフリカの独立の為に生涯を捧げた政治家でした。ある時、世界銀行の総裁がダレサラームに来て、演説し、これからタンザニアの生活をよくする為に、世界銀行がお金をかしてやるから、条件がある。もっと、外国からの輸入を進めるように輸入制限を撤廃せよ、食料や生活物資の値段を政府がコントロールせずに自由化せよ、鉄道や、住宅の国有を止めよ、病院も私立の病院を認めよと、いろいろの条件を付けました。社会主義の国ですから、いろいろアメリカとは違います。その世銀の総裁の演説にこたえてニエレレはいいました。何が世界銀行だ、いつからあなたは世界を支配していいことになったのか。ここは自分たちアフリカ人の国である。必要なことは自分で決める。お金はいかにもない。お金はなくても平気だ。自分達はいつまでもこのまま、また森に帰ってお金がなくても生活は出来る。本当はお金を貸せないと困るのは世界銀行のほうだろう。お金をかりなければタンザニアはアメリカから自動車を輸入は出来ないし、そうなると困るのはアメリカの方だろうといい放ちました。
 タンザニアでは日本からの援助でいくつもの開発プロジェクトが展開しています。その一つにキリマンジャロの麓での稲作プロジェクトがあります。キリマンジャロの豊富な地下水を利用して日本と同じ水田を作りそこに日本の稲作を行い、成功しました。地域の農民はかなりの収入が出来、これは日本からの成功したプロジェクトとしてよく紹介されます。ただ、ダレサラーム大学のタンザニア人の教授は、この貴重な水資源を大量に使い、水田で日本のようなおいしいお米を作る稲作より、あまり水を使わないアフリカ本来の陸稲にすべきではないかといっていました。やはりアフリカではアフリカのやり方があるのだと思えます。親友のアフリカ人がいいました。みんな外国人はいろいろ考えて、お金やモノや人を送ってくれて、本当にご苦労だが、あまりお節介はしなくていいのだけどねと。
 1982年に私はダレサラームでの駐在生活を終えて、家族と日本に帰りました。ダレサラームでは貧しいながらも、幸せに暮らす人々にあい、美しい海と、広大なサバンナに囲まれて、我がアフリカでもっとも楽しい時を過ごしました。


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〈アフリカの庭と同じように実のなるものを植えたいということで、ブドウとミカン、他にもいろいろと実をつけています。〉



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 走るこのシリーズ、長い読物はどうかなと思いつつ始めましたが、多くの方に好評なのでホッとしています。あと数回続きますのでよろしくお願いします。
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