島 耕作さんがついに社長になられたそうで、そのことがワイドショーで取り上げられているのを見て力石の葬儀を思い出しました。あしたのジョーの力石徹です。あれ以来じゃないですかね、漫画の中の人が 実在の人物扱いでワイドショーネタになったのって。『社長 島耕作』、すごいですよね、いや、すごいってのは課長から社長にまで登り詰めた島さんじゃなくて、作者の弘兼憲史さんのこと。実に連載25年目だそうです。長い長い、25年間も1人の人物像を魅力的に創造し続けることって・・・、すごいのひと言です。
Before 12
After 12
この『25年やり続ける』ということで中学2年の夏休みを思い出したので、今日はそのことを。
腎臓を悪くして一年間の運動禁止を言い渡された私は卓球部を辞めて美術部へ、その時の顧問が今井広勝先生といいまして、美術の教師であり、その時点でけっこう著名な彫塑の作家でもありました。作家年鑑みたいな本で、先生の作品(高さ30センチくらいの胸像)が270万円と書いてありました。岡本太郎みたいな、常にあっち側の世界をただよっているような雰囲気の人でしたので職員室ではやや変人扱いされていた感じで、でもその先生が私に興味を持ったらしくて(何か波長が合ったのでしょう)、美術に関すること以外にも「これおもしろいよ」と、禅宗のお坊さんの本をくださったり、私のスケッチブックの1ページを「こりゃすばらしい」と言ってベリッと切り取って持っていって、後日それが教職員組合かなんかの小冊子の表紙に使われていたりしました。
Before 13
After 13
中2の夏休みに「アトリエに遊びに来なさい」と誘われて、電車で1時間かけて長岡市の先生のご自宅に。そこにあるアトリエが衝撃的で、庭とアトリエが一体になったような、粘土と油絵の具の香りと作品群で目眩がするほどのエネルギーに満ちているアトリエ、そしてそれ以上にその庭、当時、庭になんて全く興味がなかったいわふち少年でしたけど、花咲き乱れる庭がある暮らしが強烈に記憶に焼き付いています。私の家や近所では庭イコール畑という田舎の中の田舎でしたから、そこからしたら洗練された都会というイメージだった長岡市の住宅地で、その中でも先生のお宅の庭はひときわ美しく、さすがは芸術家だなあと思ったものです。私と同年代の息子さんが寛斎の作務衣を着ていたのもおどろきで、(そんな中学生いませんよね)かっこよっかた~。創造というのは学校の授業で絵を描くことではなくて、こうして生活を組み立てる時に発揮されるべきものなのだという感慨、もしかしたら私にそれを感じさせたくて招いて下さったのかもしれないなあと、後年そう思いました。
そのすばらしい庭を眺めるアトリエで、先生が大好きだと言う由紀さおりのLPを聞きつつ、豆を挽いて(生まれて初めてでした)入れて下さったコーヒーをいただきながら「どうしたら先生みたいに絵や粘土をやりながら暮らせるようになるんでしょうか、やっぱ勉強して美大とか行かなければ無理なんでしょうか」と聞きました。するとその答えは「ただ好きなことをやっていればいい、それだけ。夢中で好きなことをやること。ただし、それを25年やり続けることだよ」。
あれから38年が過ぎました。けっこう純粋だった少年は、先生の言葉に従い、好きなことばっかりを夢中でやってきました。そして私が造園や設計にかかわるようになってからは、気が付けばもう22年。先生の言っていた25年に近付いてきました。現在の仕事や暮らしをあの日の私がどう評価するかは別として、あの言葉が頭の隅っこにこびり付いていたおかげで(せいで、かもしれませんけど)エキサイティングなここまでの道のりだったことは確かです。人生を変える今井先生との出会いであり、言葉だったのです。ですから子どもたちにもよく言います「好きなことだけやっとけ」、わたしがそれを言うと「はいはい、そゆことばっか言ってちゃダメだよ」という反応、私を反面教師にしてみなさんがんばっているようです。私としてはホントにそれでいいと思っているんですけどねえ。
さっ、今日も雨にも負けず(それにしても雨の多い年です。バランスとって空梅雨になってくれると現場がはかどって助かるんですが、まあ期待するとそうならないというマーフィーの法則になってしまうといけないので・・・)鬼のように設計に集中します。
Before 12
After 12
この『25年やり続ける』ということで中学2年の夏休みを思い出したので、今日はそのことを。
腎臓を悪くして一年間の運動禁止を言い渡された私は卓球部を辞めて美術部へ、その時の顧問が今井広勝先生といいまして、美術の教師であり、その時点でけっこう著名な彫塑の作家でもありました。作家年鑑みたいな本で、先生の作品(高さ30センチくらいの胸像)が270万円と書いてありました。岡本太郎みたいな、常にあっち側の世界をただよっているような雰囲気の人でしたので職員室ではやや変人扱いされていた感じで、でもその先生が私に興味を持ったらしくて(何か波長が合ったのでしょう)、美術に関すること以外にも「これおもしろいよ」と、禅宗のお坊さんの本をくださったり、私のスケッチブックの1ページを「こりゃすばらしい」と言ってベリッと切り取って持っていって、後日それが教職員組合かなんかの小冊子の表紙に使われていたりしました。
Before 13
After 13
中2の夏休みに「アトリエに遊びに来なさい」と誘われて、電車で1時間かけて長岡市の先生のご自宅に。そこにあるアトリエが衝撃的で、庭とアトリエが一体になったような、粘土と油絵の具の香りと作品群で目眩がするほどのエネルギーに満ちているアトリエ、そしてそれ以上にその庭、当時、庭になんて全く興味がなかったいわふち少年でしたけど、花咲き乱れる庭がある暮らしが強烈に記憶に焼き付いています。私の家や近所では庭イコール畑という田舎の中の田舎でしたから、そこからしたら洗練された都会というイメージだった長岡市の住宅地で、その中でも先生のお宅の庭はひときわ美しく、さすがは芸術家だなあと思ったものです。私と同年代の息子さんが寛斎の作務衣を着ていたのもおどろきで、(そんな中学生いませんよね)かっこよっかた~。創造というのは学校の授業で絵を描くことではなくて、こうして生活を組み立てる時に発揮されるべきものなのだという感慨、もしかしたら私にそれを感じさせたくて招いて下さったのかもしれないなあと、後年そう思いました。
そのすばらしい庭を眺めるアトリエで、先生が大好きだと言う由紀さおりのLPを聞きつつ、豆を挽いて(生まれて初めてでした)入れて下さったコーヒーをいただきながら「どうしたら先生みたいに絵や粘土をやりながら暮らせるようになるんでしょうか、やっぱ勉強して美大とか行かなければ無理なんでしょうか」と聞きました。するとその答えは「ただ好きなことをやっていればいい、それだけ。夢中で好きなことをやること。ただし、それを25年やり続けることだよ」。
あれから38年が過ぎました。けっこう純粋だった少年は、先生の言葉に従い、好きなことばっかりを夢中でやってきました。そして私が造園や設計にかかわるようになってからは、気が付けばもう22年。先生の言っていた25年に近付いてきました。現在の仕事や暮らしをあの日の私がどう評価するかは別として、あの言葉が頭の隅っこにこびり付いていたおかげで(せいで、かもしれませんけど)エキサイティングなここまでの道のりだったことは確かです。人生を変える今井先生との出会いであり、言葉だったのです。ですから子どもたちにもよく言います「好きなことだけやっとけ」、わたしがそれを言うと「はいはい、そゆことばっか言ってちゃダメだよ」という反応、私を反面教師にしてみなさんがんばっているようです。私としてはホントにそれでいいと思っているんですけどねえ。
さっ、今日も雨にも負けず(それにしても雨の多い年です。バランスとって空梅雨になってくれると現場がはかどって助かるんですが、まあ期待するとそうならないというマーフィーの法則になってしまうといけないので・・・)鬼のように設計に集中します。