畳とタイルが段差なく続くことで、外がグッと近い場所に感じられるようになりました。これなら「気持ちいい天気だから、ちょっと外でお茶にしましょうか」と、すんなりとそこに行けます。
このように部屋と庭の段差をなくすことの効果は絶大なのです。
庭を「そこに出て過ごす場所」というふうにイメージできない大きな原因が、この部屋と庭との段差なんですね。
あなたの庭の地面を持ち上げることをイメージしてみてください。今回のように部屋と平らにしなくても、段差が20センチ以内なら同じ効果が得られます。
奥様から感じる生命エネルギーの美しい燃焼。
奥様はわが家の近所にお勤めで、ノアの散歩でよくお会いします。その度に、ノアも奥様も、瞬時にして再会を喜び合い、同じようにピョンピョン飛んではしゃぎ回ります。
どっちがイヌなのか見分けがつかないような、奥様のその軽やかで俊敏な動きこそが 「生命エネルギーの美しい燃焼」なのです。
うれしさを全身で現すクセ、考え込まずに身体が先に動き出すクセ。例えば道を歩いていてゴミが落ちていたとして、それをスッと拾う人がいます。周囲からは、その人がゴミを拾ったことに気がつかないほど、とても自然に身を屈めて、また何事もなかったように歩いています。自然と身体が動くクセがついている、そういう人の生命は必ず美しく燃焼しています。
世の中を見回して、イキイキと暮らしている人、充実した人生を送っている人の共通点が「いそがしく動き回っている」ということ。
身体を動かさない仕事、例えば文筆業の人であっても、じっと座りっぱなしの人というのはいなくて、取材に走り回り、出版社に出かけ、サイン会、講演会と動き回りながら、その合間を縫って、寸暇を惜しんで次の執筆に当たっています。村上春樹のようにジョギングを日課としていたり、時間が空くと百名山を登り続けている作家や、執筆が午前中と決め、午後は畑仕事で汗を流している人もいます。そうやって身体を動かしてバランスを取らないと、動かない仕事である執筆が滞ってしまうことを知っているのです。だから芥川賞作家でも、引きこもりっぽく青白い顔をした人などはいなくて、一般人よりもよく日に焼け、好奇心に瞳を輝かせたエネルギッシュな顔つきをしています。
専業主婦であっても、この体を動かすクセがついている奥様は、いつも周囲を明るくするような輝きを放っているものです。
思考は身体を動かしながら。
軽やかに動く人の思考は軽やかになります。反対に、肩を落としてトボトボと歩きながらの思考は、どう頑張っても希望がわいてくる展開にはなりませんよね。思考とはそういうもので、身体の動きや姿勢によって変化するのです。
体調でも変わります。体調がいいときには、いたって楽観的です。
楽観的だと用心深い思考ができないもので、ついつい調子に乗って暴飲暴食してしまったり、考えががさつになって、他人を傷つけてしまうこともあり、要注意なのですが、まあ体調万全なら思考も健全でいられます。
反対に夜中に胃が痛くて目が覚めたときなど、ぼくの思考はネガティブの極地まで落ち込んで「・・・もうダメかもしれない」となります。いつもまたすぐに眠くなって、朝起きると体調は戻っているんですけど、胃痛のときには元気なときとは別人の、悲観的な自分がいます。
人は風邪をひくと弱気になって、人生観まで変わってしまう。つまり、人の思考などというものはただの風邪の症状である。 藤原伸也
いくらものごとを深く考え込んで頭でっかちになってみても、その頭は身体の上に載っているのですから、身体の状態と動かし方次第で変化する、たよりないものなのです。
となると、思考先行の思考は意義が薄くなりますね。行動先行の思考で、かつ、その行動が健康的であることが、まともな思考の条件となります。
あなたが、どうも人生が思うようにいかない、何をやってもうまくいかないとき、あるいは思春期のお子さんが目標を見失ったり、何かに挫折して何日もふさぎ込んでいるときには、迷うことなく身体を動かすことです。スポーツでも、旅でも、庭仕事でも、なんでもいいからとにかく身体を動かして、汗をかき続けているうちに、体調が整い、やがて思考が健全に整ってゆきます。悩みは嘘のように解決するか消え去るのです。
幸せになるためには思考が必要ですが、不幸もまた思考から生み出されます。
不幸を招く不健全な思考は排除すればいい。クドクドとそんなことに時間を費やす必要はないのです。
幸福を呼び込むのは健全な思考。思考を健全に保つためには身体を健全に活動させ続けること。
思考などというものは、体調次第で揺らいでしまう頼りないものですから、頼りない思考を続けるよりも、頼りになる身体を維持することの方が先決です。
軽やかで俊敏な奥様の動きが、生命エネルギーの美しい燃焼を現している。
明日に続きます。