矢嶋さんちの草花をご覧いただきながら、徒然なるままに。
テレビでやってたんですけど、最近は小学生までスケジュール帳を持ち歩いているそうです。けっこう塾や習い事をやっているらしく、スケジュール帳無しには暮らせなくなっていると言います。
ぼくの子ども時代には考えられない事態になっているんですよねえ。小学生なのにスケジュールが入っているなんて、ありえないかったでしょそんなこと。
来る日も来る日もひたすらボーッと雲を眺めていたぼくには、なかなか受け入れがたいことです。いいんでしょうかねえそんなんで。
・・・まあいです。スケジュール帳を持たずに子ども時代を過ごしたぼくらが生み出した社会がこれですからね。
原発とか、どうします。二酸化炭素は60%以上削減しないと、子どもたちが暮らしていける環境を残すこともできない。
いやいや今日はそういう話じゃなくて、スケジュールということです。
会社勤めの方はスケジュールって大事ですよね。専業主婦であっても、けっこう予定を入れながら暮らしているものです。もちろんぼくもそうです。
ここ数週間は特に、連日予定が入っていて、それをこなすことで毎日が過ぎていきます。
スケジュールが詰まっていると、リズミカルにものごとをこなしていけます。
心地いいんですよねスケジュールに従って動き回るって。達成感や、何となく有能感も味わえるし。
ところが、ひとつ困ったことが起こります。
スケジュールに従って動いていると、設計が進まないのです。
設計する時間もスケジュールに組み込めばいいって思うでしょ。それがうまくいかないんですよ。
設計をスケジュールにいれると、とたんに時間に追われる感覚になってしまって、そうなると設計はにっちもさっちもいかない。庭を思い描くって、そういうもんなんです。
時間に追われながら庭を設計することなんてできない。
これは、どうやったら中身の濃い設計を数多くこなせるかと、何年も試行錯誤した末に見えてきたことです。庭の設計とスケジュール管理は馴染まないのです。
ぼくがわがままだって事じゃないんですよ。もちろんぼく自身は、超が付くわがままですけど、設計がスケジュール管理に馴染まないということの原因はぼくのわがままではなくて、ぼくが思い描く庭がスケジュール管理しながら暮らすことと対極にあるものだからだと思っています。
スケジュールに従って暮らすことの対極に、ぼくが思い描く庭があります。
日々効率を追求し、期間を隙間なく埋めていくように仕事をし、家事をこなし、スケジュールに従って人と会ってはそのあらかじめ決め込んだ時間をより充実させようとし、さらに摂取カロリーを管理したり、通勤時間もボーッとすることなくツイッターをチェックしたり。
いつの頃からですかねえ、こんなに目まぐるしい暮らしが標準化したのは。
そういう日常の中にあって、スケジュール帳に書き込まれないのが庭のことです。
「21日 AM 7:30〜朝花ガラを摘む」とか「30日 PM 6:00〜雑草取りとモロヘイヤの収穫」なんて書かないですよね。わからないですからね、植物の成長具合なんて。どう考えてもスケジュール管理には馴染みませんし、そんなふうに庭と付き合っても、あまり楽しい感じがしません。
庭だけは、日々のスケジュールと別世界に存在しています。
だから庭が必要なんです。そういう庭があることで、バランスが保たれるのです。
社会の効率化が進めば進むほど、反対側に庭を置くことが必要になります。
効率化の極みにいる人、何らかの社会的成功をおさめている人には、昔から、こんなに世の中が忙しくなる前から、そういう庭が存在していました。
政治家、実業家、作家などの著名人が愛した庭って、よくあるでしょ。あれです。
それが一般人にも必要になってきたんだと、早く気付いた人が得しますよ。
非効率な庭でくつろぐ時間を持てば、さらに効率を追求していく伸び代が生まれます。
効率化を追求するための反対側の重りとして庭を捉えるなんて、何となく、この話自体が庭と馴染まないことではありますけど、よくよく考えると、庭はそういう役も果たすのです。
あとはその人の人生観の問題で、効率を追って頑張り続ける自分と、くつろげる庭で我に返ったときの自分と、どっちが本来の自分なのかをハッキリさせた方がいいのです。いずれを選ぶにしても、設定を明確にした方が庭が価値を持ちますので。
頑張るための庭か、庭があるから頑張れるのか。
ぼくですか?ぼくは効率を追って頑張り続ける自分が本来の自分で、庭もそのために存在しているのだと捉えています。意外でしょ、こんないつもボーッと庭のことを夢想しているのに。
そこで話の最初に戻って、あの問題が生じる。
仕事を効率化したいのに、その仕事が効率とは対極にある庭づくりなもので、スケジュール管理すると描けなくなるし、効率化を狙うと中身が薄くなるし・・・。この自己矛盾。
でもそこで、ぼくの思考はシンプルに整理されます。
効率を追うことが仕事ではなくて、庭を生み出すことが仕事。
なんの仕事でもそうで、効率追求が仕事になってしまって、本来の仕事の意味が分からなくなっているってことあるでしょ。例えば原発。
人の幸せのために必要な電力を生み出すのに、自分たちで始末できない材料を使うことの愚かさ。
効率追求しているうちにわけが分からなくなって、仕事が世の中のためじゃなくて、自分たちの収入のためになっているってことです。
その設定のブレで、どれだけの人が苦しんでいるかを感じてほしいんだけどなあ。人の痛みを感じ取る感覚が麻痺してるんだろうなあ。
東電のお偉いさんと、関連企業のトップと、すべての政治家の暮らしに「非効率で美しい庭」があったら、原発再稼働なんてことは話にものぼらなくなりますよ。
効率追求しているうちに、本来の意義を見失っていることを、庭は気付かせてくれます。
・・・勘のいい方はお気づきだと思います。
今日は徒然なるままに、設計が遅れていることの言い訳を書き連ねました(たまには言い訳もさせてください。弱音を吐いているんじゃないから、まあいいでしょ)。なっがーい言い訳。
いやはや描いても描いても先が見えなくて、気が遠くなりそうです。でも、ちゃんと、ひとつひとつ丁寧に設計していますので、どうかご辛抱ください。
あなたのお庭のプランがどのくらいに上がるかは、すいません、今のところ見当がつきません。
たっっっっぷりと言い訳したところで、今日も設計に没頭します。
こんなに長々と記事書いてないで、さっさと設計してちょうだい!という妻の声が聞こえてきそうですけど、でも、このルーティンをこなさないと描けないんですよ。
もともと、とても頑固に非効率な思考回路なもんで。あぁ、この頭、シャープでクールな脳みそとすげ替えたい。でも、そうしたら、シャープでクールな庭を描いちゃうんだろうなあ。いやですよね、そんな庭。
はい、ここまで。ぐだぐだ言ってないで、さっ、設計設計!
テレビでやってたんですけど、最近は小学生までスケジュール帳を持ち歩いているそうです。けっこう塾や習い事をやっているらしく、スケジュール帳無しには暮らせなくなっていると言います。
ぼくの子ども時代には考えられない事態になっているんですよねえ。小学生なのにスケジュールが入っているなんて、ありえないかったでしょそんなこと。
来る日も来る日もひたすらボーッと雲を眺めていたぼくには、なかなか受け入れがたいことです。いいんでしょうかねえそんなんで。
・・・まあいです。スケジュール帳を持たずに子ども時代を過ごしたぼくらが生み出した社会がこれですからね。
原発とか、どうします。二酸化炭素は60%以上削減しないと、子どもたちが暮らしていける環境を残すこともできない。
いやいや今日はそういう話じゃなくて、スケジュールということです。
会社勤めの方はスケジュールって大事ですよね。専業主婦であっても、けっこう予定を入れながら暮らしているものです。もちろんぼくもそうです。
ここ数週間は特に、連日予定が入っていて、それをこなすことで毎日が過ぎていきます。
スケジュールが詰まっていると、リズミカルにものごとをこなしていけます。
心地いいんですよねスケジュールに従って動き回るって。達成感や、何となく有能感も味わえるし。
ところが、ひとつ困ったことが起こります。
スケジュールに従って動いていると、設計が進まないのです。
設計する時間もスケジュールに組み込めばいいって思うでしょ。それがうまくいかないんですよ。
設計をスケジュールにいれると、とたんに時間に追われる感覚になってしまって、そうなると設計はにっちもさっちもいかない。庭を思い描くって、そういうもんなんです。
時間に追われながら庭を設計することなんてできない。
これは、どうやったら中身の濃い設計を数多くこなせるかと、何年も試行錯誤した末に見えてきたことです。庭の設計とスケジュール管理は馴染まないのです。
ぼくがわがままだって事じゃないんですよ。もちろんぼく自身は、超が付くわがままですけど、設計がスケジュール管理に馴染まないということの原因はぼくのわがままではなくて、ぼくが思い描く庭がスケジュール管理しながら暮らすことと対極にあるものだからだと思っています。
スケジュールに従って暮らすことの対極に、ぼくが思い描く庭があります。
日々効率を追求し、期間を隙間なく埋めていくように仕事をし、家事をこなし、スケジュールに従って人と会ってはそのあらかじめ決め込んだ時間をより充実させようとし、さらに摂取カロリーを管理したり、通勤時間もボーッとすることなくツイッターをチェックしたり。
いつの頃からですかねえ、こんなに目まぐるしい暮らしが標準化したのは。
そういう日常の中にあって、スケジュール帳に書き込まれないのが庭のことです。
「21日 AM 7:30〜朝花ガラを摘む」とか「30日 PM 6:00〜雑草取りとモロヘイヤの収穫」なんて書かないですよね。わからないですからね、植物の成長具合なんて。どう考えてもスケジュール管理には馴染みませんし、そんなふうに庭と付き合っても、あまり楽しい感じがしません。
庭だけは、日々のスケジュールと別世界に存在しています。
だから庭が必要なんです。そういう庭があることで、バランスが保たれるのです。
社会の効率化が進めば進むほど、反対側に庭を置くことが必要になります。
効率化の極みにいる人、何らかの社会的成功をおさめている人には、昔から、こんなに世の中が忙しくなる前から、そういう庭が存在していました。
政治家、実業家、作家などの著名人が愛した庭って、よくあるでしょ。あれです。
それが一般人にも必要になってきたんだと、早く気付いた人が得しますよ。
非効率な庭でくつろぐ時間を持てば、さらに効率を追求していく伸び代が生まれます。
効率化を追求するための反対側の重りとして庭を捉えるなんて、何となく、この話自体が庭と馴染まないことではありますけど、よくよく考えると、庭はそういう役も果たすのです。
あとはその人の人生観の問題で、効率を追って頑張り続ける自分と、くつろげる庭で我に返ったときの自分と、どっちが本来の自分なのかをハッキリさせた方がいいのです。いずれを選ぶにしても、設定を明確にした方が庭が価値を持ちますので。
頑張るための庭か、庭があるから頑張れるのか。
ぼくですか?ぼくは効率を追って頑張り続ける自分が本来の自分で、庭もそのために存在しているのだと捉えています。意外でしょ、こんないつもボーッと庭のことを夢想しているのに。
そこで話の最初に戻って、あの問題が生じる。
仕事を効率化したいのに、その仕事が効率とは対極にある庭づくりなもので、スケジュール管理すると描けなくなるし、効率化を狙うと中身が薄くなるし・・・。この自己矛盾。
でもそこで、ぼくの思考はシンプルに整理されます。
効率を追うことが仕事ではなくて、庭を生み出すことが仕事。
なんの仕事でもそうで、効率追求が仕事になってしまって、本来の仕事の意味が分からなくなっているってことあるでしょ。例えば原発。
人の幸せのために必要な電力を生み出すのに、自分たちで始末できない材料を使うことの愚かさ。
効率追求しているうちにわけが分からなくなって、仕事が世の中のためじゃなくて、自分たちの収入のためになっているってことです。
その設定のブレで、どれだけの人が苦しんでいるかを感じてほしいんだけどなあ。人の痛みを感じ取る感覚が麻痺してるんだろうなあ。
東電のお偉いさんと、関連企業のトップと、すべての政治家の暮らしに「非効率で美しい庭」があったら、原発再稼働なんてことは話にものぼらなくなりますよ。
効率追求しているうちに、本来の意義を見失っていることを、庭は気付かせてくれます。
・・・勘のいい方はお気づきだと思います。
今日は徒然なるままに、設計が遅れていることの言い訳を書き連ねました(たまには言い訳もさせてください。弱音を吐いているんじゃないから、まあいいでしょ)。なっがーい言い訳。
いやはや描いても描いても先が見えなくて、気が遠くなりそうです。でも、ちゃんと、ひとつひとつ丁寧に設計していますので、どうかご辛抱ください。
あなたのお庭のプランがどのくらいに上がるかは、すいません、今のところ見当がつきません。
たっっっっぷりと言い訳したところで、今日も設計に没頭します。
こんなに長々と記事書いてないで、さっさと設計してちょうだい!という妻の声が聞こえてきそうですけど、でも、このルーティンをこなさないと描けないんですよ。
もともと、とても頑固に非効率な思考回路なもんで。あぁ、この頭、シャープでクールな脳みそとすげ替えたい。でも、そうしたら、シャープでクールな庭を描いちゃうんだろうなあ。いやですよね、そんな庭。
はい、ここまで。ぐだぐだ言ってないで、さっ、設計設計!