ぼくの仕事の主軸は庭の設計です。これが楽しくてしかたがありません。
好きなことを仕事にできている、仕事を大好きになれていることの幸せ。
いろんな事情でそうなれない人も多い中、とても恵まれた環境にあると思っています。
今日は葉っぱを並べてみます。
葉は光合成をしてエネルギーを発生させる器官、
それが何でこんなに美しいのか。
花と共闘して虫を惹き付けているのか、
あるいは逆に害虫を遠ざけているのか、
とは言うものの、毎日朝から晩まで設計ばかりをしているわけではなく、他の業務やプライベートにも時間を使っています。
以前はそうじゃない時期もありました。早朝に出社して製図台の前に座ると、ほぼそのままの姿勢で終電まで座り続けるという日々で、帰宅するともう何をする気力も残っていなくて寝るだけみたいな。
でも今はまったくちがいます。10年20年と経つうちに、自然とできあがった行動パターンでいち日を過ごしています。
朝庭に出て、今日集中することを三つ決める。
ひとつに集中しながら次の集中すべき課題があると、目の前への集中力が増します。

例えば「設計」「プレゼンテーション」「読みかけの本を読み切る」とか、「設計」「撮影」「たっぷりと犬の散歩」とか、「設計」「芝刈り」「事務処理」とか。
その三つのことの隙間隙間を使ってこのブログの原稿を書き、本屋に行き、犬と遊び、料理をし、掃除をし、フェイスブックをチェックし、そして朝夕の2回、必ず庭に出て時間を過ごしています。
まったく隙間がありません。隙間無く、ボーッとすることなく何かをしているこの行動パターンだと、不思議と疲れを感じないんです。

祖父がそういう人でした。まあ一日中何かをしていて、ボーッとしているということがない。周囲の人間には、時にはそれが気ぜわしく感じられて、嫌がられたこともありました。
ぼくはその祖父の影響を強く受けていると自覚しています。気ぜわしい祖父が大好きだったわけです。
幼心に、祖父の姿から感じ取っていたことは「軽やかな集中力」だったような気がします。
コロコロと転がり続けるような、ひとつところにとどまることなく、淀むことなく流れるような感じです。

幼少期のそんな記憶もあり、ぼくは今「集中」に関するひとつの結論を持っています。
集中を高めるためには、集中すべきことをひとつに絞ってはいけない。
これはぼく的には世紀の大発見です。

「日に三つの事柄に集中する」この行動パターンになってから、おもしろい感慨を得るようになりました。
集中はリラックス。
次の課題を踏まえて「◯◯時までにこの設計を仕上げるぞ!」と集中しているとき、まったく疲れを感じないある種のトランス状態まで集中力が高まります。すると開放感のような、爽快感のような、「疲労」とは逆の感覚に包まれます。
朝から晩まで根を詰めて設計していた頃には感じたことのない、仕事をしながら休んでいるような感じ、そういう時の設計がまた、い〜い具合に仕上がるのです。
仕事でも何でも短期集中!
そもそも人の集中力って90分が限界だという説もありますから、かつてのぼくのような仕事の仕方はだめ、ダラダラと長い時間やっていても成果には繋がりません。

どういう行動をとると自分のコンディションを高く維持できるのかは千差万別、人それぞれだと思いますが、ひとつのことの集中にいち日を使おうとするのではなく、いくつかの集中課題を用意するという複層的集中術もぜひお試しください。
集中無くして成果無し。

せっかくの今日という日を充実させるために、早朝に庭に出て(これがけっこう大事なポイントだと思っています)、今日集中することを複数思い描いてみましょう。
それが習慣化したら、確実にいち日の濃度が増します。
きっとあなたは自分でイメージしたことのないほどの、成果と充足感を味わえると思いますよ。
一昨日の関内ホールで行われた「テミヤンまつり」の感動がさめません。
なぜテミヤンの歌がこんなに響くのか、それはその歌詞に家族愛という、ぼくの庭づくりと共通するテーマを感じるからかもしれません。
人ひとりの人生には、いくつもの大きなテーマが存在します。
一度きりの人生をどう使うのか、どのような物語を描いてゆくのか。
「人生に正解などない。その人が正しいと思えばそれが正解」という考え方もあるでしょう。
でもぼくは思います。多くの選択肢があり描き方がある中で、家族愛を育むことを中核に据える生き方こそが正解なんじゃないかと。
その証拠に、いろんな波風が立つ中で、風雪に耐えながら、それでも家族愛を貫いた人たちにはまぎれもない幸せな人生がありますからね。
そこだけはぶれない方がいい。家族の幸せのために自分の時間を使う生き方、そのための夢実現であることを忘れない生き方が、きっとサムシンググレートが望む命の使い方なんじゃないかなあ。
こうして夜の庭で(寒さに耐えながら)生命科学の世界を探求していると(そのての本を読みあさっています)、「生物は遺伝子を運ぶ舟である」という記事つによく出くわします。つまり遺伝子存続のために我々は生かされているという考え方です。
生命科学以外の分野も巻き込んで、異論反論渦巻いているわけですけど、ぼくはその論に正当性を感じます。
ぼくという舟は、親から手渡された海図に従って、順調な航海を経て、子どもたちに(世界中の子どもたちも含めて)、その幸せへと至るための海図、親から学び受け継いだ「幸せに暮らすための知恵とお作法」を手渡さなければなりません。そう思っています。
テミヤンの曲に込められたメッセージには、まぎれもなくその海図があります。
テミヤンの曲をBGMにしながら航路を進めば大丈夫。
ありがたい、本当にありがたいミュージシャンです。
家族愛を人生の中核に置くということを、もう一度確認してみてください。
好きなことを仕事にできている、仕事を大好きになれていることの幸せ。
いろんな事情でそうなれない人も多い中、とても恵まれた環境にあると思っています。
今日は葉っぱを並べてみます。
葉は光合成をしてエネルギーを発生させる器官、
それが何でこんなに美しいのか。
花と共闘して虫を惹き付けているのか、
あるいは逆に害虫を遠ざけているのか、
日を受けること以外の役割がありそうですね。
自然界の造形には、すべて理由があります。
いわふち ひでとしという葉っぱは美しいか?
そのカタチの理由は?

自然界の造形には、すべて理由があります。
いわふち ひでとしという葉っぱは美しいか?
そのカタチの理由は?

以前はそうじゃない時期もありました。早朝に出社して製図台の前に座ると、ほぼそのままの姿勢で終電まで座り続けるという日々で、帰宅するともう何をする気力も残っていなくて寝るだけみたいな。
でも今はまったくちがいます。10年20年と経つうちに、自然とできあがった行動パターンでいち日を過ごしています。
朝庭に出て、今日集中することを三つ決める。
ひとつに集中しながら次の集中すべき課題があると、目の前への集中力が増します。

その三つのことの隙間隙間を使ってこのブログの原稿を書き、本屋に行き、犬と遊び、料理をし、掃除をし、フェイスブックをチェックし、そして朝夕の2回、必ず庭に出て時間を過ごしています。
まったく隙間がありません。隙間無く、ボーッとすることなく何かをしているこの行動パターンだと、不思議と疲れを感じないんです。

ぼくはその祖父の影響を強く受けていると自覚しています。気ぜわしい祖父が大好きだったわけです。
幼心に、祖父の姿から感じ取っていたことは「軽やかな集中力」だったような気がします。
コロコロと転がり続けるような、ひとつところにとどまることなく、淀むことなく流れるような感じです。

集中を高めるためには、集中すべきことをひとつに絞ってはいけない。
これはぼく的には世紀の大発見です。

集中はリラックス。
次の課題を踏まえて「◯◯時までにこの設計を仕上げるぞ!」と集中しているとき、まったく疲れを感じないある種のトランス状態まで集中力が高まります。すると開放感のような、爽快感のような、「疲労」とは逆の感覚に包まれます。
朝から晩まで根を詰めて設計していた頃には感じたことのない、仕事をしながら休んでいるような感じ、そういう時の設計がまた、い〜い具合に仕上がるのです。
仕事でも何でも短期集中!
そもそも人の集中力って90分が限界だという説もありますから、かつてのぼくのような仕事の仕方はだめ、ダラダラと長い時間やっていても成果には繋がりません。

集中無くして成果無し。

それが習慣化したら、確実にいち日の濃度が増します。
きっとあなたは自分でイメージしたことのないほどの、成果と充足感を味わえると思いますよ。
一昨日の関内ホールで行われた「テミヤンまつり」の感動がさめません。
なぜテミヤンの歌がこんなに響くのか、それはその歌詞に家族愛という、ぼくの庭づくりと共通するテーマを感じるからかもしれません。
人ひとりの人生には、いくつもの大きなテーマが存在します。
一度きりの人生をどう使うのか、どのような物語を描いてゆくのか。
「人生に正解などない。その人が正しいと思えばそれが正解」という考え方もあるでしょう。
でもぼくは思います。多くの選択肢があり描き方がある中で、家族愛を育むことを中核に据える生き方こそが正解なんじゃないかと。
その証拠に、いろんな波風が立つ中で、風雪に耐えながら、それでも家族愛を貫いた人たちにはまぎれもない幸せな人生がありますからね。
そこだけはぶれない方がいい。家族の幸せのために自分の時間を使う生き方、そのための夢実現であることを忘れない生き方が、きっとサムシンググレートが望む命の使い方なんじゃないかなあ。
こうして夜の庭で(寒さに耐えながら)生命科学の世界を探求していると(そのての本を読みあさっています)、「生物は遺伝子を運ぶ舟である」という記事つによく出くわします。つまり遺伝子存続のために我々は生かされているという考え方です。
生命科学以外の分野も巻き込んで、異論反論渦巻いているわけですけど、ぼくはその論に正当性を感じます。
ぼくという舟は、親から手渡された海図に従って、順調な航海を経て、子どもたちに(世界中の子どもたちも含めて)、その幸せへと至るための海図、親から学び受け継いだ「幸せに暮らすための知恵とお作法」を手渡さなければなりません。そう思っています。
テミヤンの曲に込められたメッセージには、まぎれもなくその海図があります。
テミヤンの曲をBGMにしながら航路を進めば大丈夫。
ありがたい、本当にありがたいミュージシャンです。
家族愛を人生の中核に置くということを、もう一度確認してみてください。