雑草だらけの庭を何とかしたい、カーテンを開けられない暮らしを改善したい、もっと庭を楽しみたい、そう思いながら何年経っても具体的な行動に出られない人がいます。
断続的にぼくのところに来ては「どうすればいいかわかりました。やってみます!」と言って帰るんですけど、何度もそれを繰り返すばかりで・・・。
理想の庭への思いはあるのに一歩が踏み出せない。というか、ぼくには何となく、「踏み出すことよりも、踏み出そうとしている自分の方がすき」というふうに映ります。
そういうことってありますよね。わかるんですけど、そのままでは庭を楽しむ暮らしへと辿り着くことはできませんよね。
理想の庭をイメージできたとしても、何年経ってもそれを実現できない人がいる。
まあいいんです、庭なら。
でもそれがもっと重大な問題の場合、自分と家族の人生にかかわるような局面に立たされているのに、それでもなかなかその問題を打開するための行動をとれない人がいます。
端から見たら「なぜいつまでも」と思うことですから、友人からの親身なアドバイスもあるでしょうし、問題によっては弁護士や医師などの専門家に相談することもできるわけです。でも動こうとしない。
いるでしょ、そういう、まるでそのつらい状況に居座りたいかのように見える人。
これが典型的な、不幸をこじらせてしまうタイプなのです。
自らが動き出さない限り、不幸の渕から這い上がることはできない。
つらつらとそんなことを考えているときにフェイスブックで見つけた、吉元由美さんの文章です。
水晶の写真とともにアップされていました。
こんな不思議で美しい結晶ができるまで、どれだけ多くの化学反応と年月を要したことでしょう。
人生の折り返し地点を過ぎて、人生時間の夕方に近づいている身としては、いま、自分という人間がどのくらいの「結晶」を創れているのかを、ふと考えてしまいます。
すべて自分の中にあり、自分のまわりで起こることも心の投影、自分が引き寄せていることですから、社会のせいでも、親のせいでも、人のせいでもない。
だから、心を見つめることが解決への道なのですが、心を見つめることは時につらいことでもあるので、悩みの原因を他に向ける。
その刃を他人に向けてしまうのです。
「私ってかわいそう」
「かわいそうな私」「被害者の私」を創ることで、「かわいそうな状況にいる私」が満足するので、「かわいそうな状況」をどんどん引き寄せてしまう。
自分の人生を、悲劇のヒロインの物語にしてしまうのです。
この悪循環の渦から飛び出すには、自分自身が「かわいそう殻」を剥いでいくこと。
これが「変容へのチャレンジ」なんですね。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
人生の折り返し地点をすぎ、人生時計も夕方近くなり、ぼやぼやしている場合ではないとあたふたしながら、こぴっとゆっくりしたいとも思うのでした。
まったくもって、おっしゃる通りだと思いました。
ただただボーッと時を過ごしているのではなく、チャンスも危機も感じ取らなくてはなりません。
特に危機の時です。人生に何度か訪れる危機に対して逃げ腰で愚痴るばかりでは、今ある幸せを護ることができないどころか、さらにつらい状況へと落ちて行ってしまいます。
運命は、前向きな人にはとても優しく、後ろ向きな人にはことのほか厳しい。
しかも、人生は思いのほか短い。
じっと動こうとせずに、不幸をこじらせたままでいる人の姿は悲しいものです。
逃げないで、愚痴らないで、前を向いて、力強く、「変容へのチャレンジ」を続けていきましょうね。
昨日と違う今日の自分を生み出し続けること、変わり続けること、それを繰り返し積み重ねていきましょう。
いつか美しい結晶となる、そんな日をイメージしながら。
吉元由美さんの新刊です。
これから夜の庭で、じっくりと読ませていただきます。
断続的にぼくのところに来ては「どうすればいいかわかりました。やってみます!」と言って帰るんですけど、何度もそれを繰り返すばかりで・・・。
理想の庭への思いはあるのに一歩が踏み出せない。というか、ぼくには何となく、「踏み出すことよりも、踏み出そうとしている自分の方がすき」というふうに映ります。
そういうことってありますよね。わかるんですけど、そのままでは庭を楽しむ暮らしへと辿り着くことはできませんよね。
でもそれがもっと重大な問題の場合、自分と家族の人生にかかわるような局面に立たされているのに、それでもなかなかその問題を打開するための行動をとれない人がいます。
端から見たら「なぜいつまでも」と思うことですから、友人からの親身なアドバイスもあるでしょうし、問題によっては弁護士や医師などの専門家に相談することもできるわけです。でも動こうとしない。
いるでしょ、そういう、まるでそのつらい状況に居座りたいかのように見える人。
これが典型的な、不幸をこじらせてしまうタイプなのです。
水晶の写真とともにアップされていました。
こんな不思議で美しい結晶ができるまで、どれだけ多くの化学反応と年月を要したことでしょう。
人生の折り返し地点を過ぎて、人生時間の夕方に近づいている身としては、いま、自分という人間がどのくらいの「結晶」を創れているのかを、ふと考えてしまいます。
すべて自分の中にあり、自分のまわりで起こることも心の投影、自分が引き寄せていることですから、社会のせいでも、親のせいでも、人のせいでもない。
だから、心を見つめることが解決への道なのですが、心を見つめることは時につらいことでもあるので、悩みの原因を他に向ける。
その刃を他人に向けてしまうのです。
「私ってかわいそう」
「かわいそうな私」「被害者の私」を創ることで、「かわいそうな状況にいる私」が満足するので、「かわいそうな状況」をどんどん引き寄せてしまう。
自分の人生を、悲劇のヒロインの物語にしてしまうのです。
この悪循環の渦から飛び出すには、自分自身が「かわいそう殻」を剥いでいくこと。
これが「変容へのチャレンジ」なんですね。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
人生の折り返し地点をすぎ、人生時計も夕方近くなり、ぼやぼやしている場合ではないとあたふたしながら、こぴっとゆっくりしたいとも思うのでした。
ただただボーッと時を過ごしているのではなく、チャンスも危機も感じ取らなくてはなりません。
特に危機の時です。人生に何度か訪れる危機に対して逃げ腰で愚痴るばかりでは、今ある幸せを護ることができないどころか、さらにつらい状況へと落ちて行ってしまいます。
運命は、前向きな人にはとても優しく、後ろ向きな人にはことのほか厳しい。
しかも、人生は思いのほか短い。
じっと動こうとせずに、不幸をこじらせたままでいる人の姿は悲しいものです。
逃げないで、愚痴らないで、前を向いて、力強く、「変容へのチャレンジ」を続けていきましょうね。
昨日と違う今日の自分を生み出し続けること、変わり続けること、それを繰り返し積み重ねていきましょう。
いつか美しい結晶となる、そんな日をイメージしながら。
吉元由美さんの新刊です。
これから夜の庭で、じっくりと読ませていただきます。