古代ギリシャに由来する三段論法の代表的な言い回しです。
1(大前提)ソクラテスは人間である。
2(小前提)全ての人間は必ず死ぬ。
3(結論)ゆえにソクラテスは必ず死ぬ。
これを使って庭の有用性を論証しようと、昨晩庭の書斎にて1時間ほどを費やしました。ダメでした。そもそも大前提が立てられない。庭は〇〇である、と言い切ることができないのであります。これが家(建物)だったら、大前提「家は安全な暮らしに不可欠な場所である」と言い切れる。次に小前提「安全とは幸福の基本である」と来て、結論は「ゆえに幸福の基本は家である」と、家の有用性をアピールすコマーシャルが出来上がるのですが。
庭は〇〇である。〇〇は「幸福な暮らしに欠かせない場所」なのか・・・そう断言できるようなことではないし、「無いと不自由する場所」でもないし、「園芸を楽しむ場所」でも「昼寝をする場所」でもない。ただしこれらはあっさりとひっくり返すこともできる。ある人には無くてはならない場所だったり、園芸を楽しむ場所だったり、昼寝をする場所だったりもする。やれやれ、へなちょこ頭には限界があるのです。
いかにすれば、この概念が曖昧で、現実的にも曖昧な世界を意義ある場所として定め、庭ってどうしたらいいの?と思っている人たちにアピールできるのか。こんな風に、庭で、ある人にとってはどうでもいいことを考えて時を過ごしていること自体、庭の有用性を揺るがすのかもしれない。ただし、これまたひっくり返すことができる。どうでもいいことを考えるのに最適な場所は、リビングよりも庭なのです。次はトイレ。ひとりきりであることと、そこにいること自体が目的化しているため、すでにニッチを得て今現在の生存意義を果たしている安堵感で思考に空白が生まれ、故にリラックスできている。おまけにトイレではなく庭ならば環境は開放的だし。上空に広がっている空は軽井沢にもハワイのノースショアにもつながっていて、雲がなければそこは紛れもなく宇宙空間でもあるのだ。おお何ということか、空気の流れは地球を隅々まで何万回も巡ってきた風で、それを全身で感じている自分は奇跡に次ぐ奇跡によって存在している奇跡の命だ。
いいぞいいぞ、思考が行き詰まっても庭にいればレジリエンス、アホはアホなりに立派なアホとして復活する。何だろう、この大いなる自己肯定感は。ははは、いいんです勘違いでも。だいたいのことは勘違いであり、ことに苦悩の多くは「悩みたがり」の勘違い癖。その証拠に、もうコロナ報道によって気が滅入る人など皆無だし、庭の捉え方に至ってはさらに顕著なる勘違いの世界です。世の中には庭を楽しむ人と楽しまない人がいるわけで、庭を持っていない人の多くが庭のある暮らしに憧れているのに、庭を有する者の多くは、庭がまるで親の仇の如きストレスの源になってたりする。庭さえあればもっと幸福に暮らせるのに vs 庭さえなければもっと楽に暮らせるのに。故に苦悩は勘違い、ああ勘違い、何でそうなるの?by 萩本欽一。
では逆に、幸福に勘違いはあるでしょうか。あるかもしれないけど、ない、としておいた方がお得ですからそのように定義してしまいます。苦悩はたいがい癖か設定ミスから来る勘違いだが、幸福感は真実なのであると、繰り返しますけどその方がお得ですから。
と、ギリシャ時代におけるイデアへと至る弁証法へのアプローチにヘナチョコにも挫折したアンポンタンがすっくと立ち直ったところで、さらに夜風を楽しみながら時間を使って、違う方法を試みることに。う〜さぶ!今宵の庭の冷え具合は今季最高。おかげで頭が冴え渡ってきた。そうか、論証の仕方が適切じゃなかったのだ。三段論法ではなくパラダイムシフト法で行ってみよう!欽ちゃんのドーンと行ってみよう!パラダイムシフト法、世界が一変する発想で。
「眺める庭」から「過ごす庭」へ。
「植物のための庭」から「人のための庭」へ。
「手入れが楽な庭」から「手入れが楽しい庭」へ。
いいぞいいぞ、これならいくらでも出てくる。
「荒れた庭」から「美しい庭」へ。
「人工芝の庭」から「花いっぱいの庭」へ。
「平面的な庭」から「立体的な庭」へ。
「ストレスの庭」から「癒しの庭」へ。
「休日だけの庭」から「毎夜の庭」へ。
やめられない止まらない。こうなったら庭から離れて日常生活全般をひっくり返してみます。
「否定」から「肯定」へ。
「求める」から「与える」へ。
「義務」から「快楽」へ。
「しかめっ面」から「ほのぼの」へ。
「生真面目」から「木偶の坊」へ。
出てくる出てくる。サラサラと溢れ出してくるこれらはつまり、期せずしてですけど、右側がぼくの自己理想像なんでしょうね。肯定的で、与えていて、快楽主義で、いつもほのぼのしている木偶の坊。いいじゃないですか、そういう人。ことにかの宮沢賢治が世に定義した『木偶の坊』という概念は、これまで何度も悩みたがりな自分を救ってくれました。ああ、清らかに凍った夜風が、この上なく・・・木偶の坊にふさわしき夜。あなたもやってみませんか、これ。あ、木偶の坊じゃなくて「〇〇」から「〇〇」へ。
面白いなあ、ついさっきまで「ソクラテスは人間である」に相当する庭の大前提さえ掴まえられずに唸っていたのに手法を変えたら次々と。要するにですね、これが庭の有用性なのです。
ジョンは神だった。
秀才ポールはやがて神になる。
リンゴはリンゴのままで、さてジョージは?
ひとことで言うなら天使である。
肯定的で、与えていて、快楽主義で、いつもほのぼのしている木偶の坊。
明日11月29日は大天使ジョージ・ハリスンの命日です。
1(大前提)ソクラテスは人間である。
2(小前提)全ての人間は必ず死ぬ。
3(結論)ゆえにソクラテスは必ず死ぬ。
これを使って庭の有用性を論証しようと、昨晩庭の書斎にて1時間ほどを費やしました。ダメでした。そもそも大前提が立てられない。庭は〇〇である、と言い切ることができないのであります。これが家(建物)だったら、大前提「家は安全な暮らしに不可欠な場所である」と言い切れる。次に小前提「安全とは幸福の基本である」と来て、結論は「ゆえに幸福の基本は家である」と、家の有用性をアピールすコマーシャルが出来上がるのですが。
庭は〇〇である。〇〇は「幸福な暮らしに欠かせない場所」なのか・・・そう断言できるようなことではないし、「無いと不自由する場所」でもないし、「園芸を楽しむ場所」でも「昼寝をする場所」でもない。ただしこれらはあっさりとひっくり返すこともできる。ある人には無くてはならない場所だったり、園芸を楽しむ場所だったり、昼寝をする場所だったりもする。やれやれ、へなちょこ頭には限界があるのです。
いかにすれば、この概念が曖昧で、現実的にも曖昧な世界を意義ある場所として定め、庭ってどうしたらいいの?と思っている人たちにアピールできるのか。こんな風に、庭で、ある人にとってはどうでもいいことを考えて時を過ごしていること自体、庭の有用性を揺るがすのかもしれない。ただし、これまたひっくり返すことができる。どうでもいいことを考えるのに最適な場所は、リビングよりも庭なのです。次はトイレ。ひとりきりであることと、そこにいること自体が目的化しているため、すでにニッチを得て今現在の生存意義を果たしている安堵感で思考に空白が生まれ、故にリラックスできている。おまけにトイレではなく庭ならば環境は開放的だし。上空に広がっている空は軽井沢にもハワイのノースショアにもつながっていて、雲がなければそこは紛れもなく宇宙空間でもあるのだ。おお何ということか、空気の流れは地球を隅々まで何万回も巡ってきた風で、それを全身で感じている自分は奇跡に次ぐ奇跡によって存在している奇跡の命だ。
いいぞいいぞ、思考が行き詰まっても庭にいればレジリエンス、アホはアホなりに立派なアホとして復活する。何だろう、この大いなる自己肯定感は。ははは、いいんです勘違いでも。だいたいのことは勘違いであり、ことに苦悩の多くは「悩みたがり」の勘違い癖。その証拠に、もうコロナ報道によって気が滅入る人など皆無だし、庭の捉え方に至ってはさらに顕著なる勘違いの世界です。世の中には庭を楽しむ人と楽しまない人がいるわけで、庭を持っていない人の多くが庭のある暮らしに憧れているのに、庭を有する者の多くは、庭がまるで親の仇の如きストレスの源になってたりする。庭さえあればもっと幸福に暮らせるのに vs 庭さえなければもっと楽に暮らせるのに。故に苦悩は勘違い、ああ勘違い、何でそうなるの?by 萩本欽一。
では逆に、幸福に勘違いはあるでしょうか。あるかもしれないけど、ない、としておいた方がお得ですからそのように定義してしまいます。苦悩はたいがい癖か設定ミスから来る勘違いだが、幸福感は真実なのであると、繰り返しますけどその方がお得ですから。
と、ギリシャ時代におけるイデアへと至る弁証法へのアプローチにヘナチョコにも挫折したアンポンタンがすっくと立ち直ったところで、さらに夜風を楽しみながら時間を使って、違う方法を試みることに。う〜さぶ!今宵の庭の冷え具合は今季最高。おかげで頭が冴え渡ってきた。そうか、論証の仕方が適切じゃなかったのだ。三段論法ではなくパラダイムシフト法で行ってみよう!欽ちゃんのドーンと行ってみよう!パラダイムシフト法、世界が一変する発想で。
「眺める庭」から「過ごす庭」へ。
「植物のための庭」から「人のための庭」へ。
「手入れが楽な庭」から「手入れが楽しい庭」へ。
いいぞいいぞ、これならいくらでも出てくる。
「荒れた庭」から「美しい庭」へ。
「人工芝の庭」から「花いっぱいの庭」へ。
「平面的な庭」から「立体的な庭」へ。
「ストレスの庭」から「癒しの庭」へ。
「休日だけの庭」から「毎夜の庭」へ。
やめられない止まらない。こうなったら庭から離れて日常生活全般をひっくり返してみます。
「否定」から「肯定」へ。
「求める」から「与える」へ。
「義務」から「快楽」へ。
「しかめっ面」から「ほのぼの」へ。
「生真面目」から「木偶の坊」へ。
出てくる出てくる。サラサラと溢れ出してくるこれらはつまり、期せずしてですけど、右側がぼくの自己理想像なんでしょうね。肯定的で、与えていて、快楽主義で、いつもほのぼのしている木偶の坊。いいじゃないですか、そういう人。ことにかの宮沢賢治が世に定義した『木偶の坊』という概念は、これまで何度も悩みたがりな自分を救ってくれました。ああ、清らかに凍った夜風が、この上なく・・・木偶の坊にふさわしき夜。あなたもやってみませんか、これ。あ、木偶の坊じゃなくて「〇〇」から「〇〇」へ。
面白いなあ、ついさっきまで「ソクラテスは人間である」に相当する庭の大前提さえ掴まえられずに唸っていたのに手法を変えたら次々と。要するにですね、これが庭の有用性なのです。
ジョンは神だった。
秀才ポールはやがて神になる。
リンゴはリンゴのままで、さてジョージは?
ひとことで言うなら天使である。
肯定的で、与えていて、快楽主義で、いつもほのぼのしている木偶の坊。
明日11月29日は大天使ジョージ・ハリスンの命日です。