明日から8月、紛れもなく真夏です。ここのところ外仕事と店での設計をてんこしゃんこにこなす日々で、現場作業や置き場で行う資材の下準備などの日は大汗をかくため、3リットルのサーモスをちびちび飲みし、こまめに日陰で休憩しながら猛暑日の日差しを楽しんでいます。だいたい夕方にはサーモスの中身が氷だけになって、その後は蓋を開けっぱにして氷を溶かしては飲む、これがうまいのなんの。片付けを終え、最後の氷を口に頬張って、暑さにへたることなく過ぎたいち日の充足感たるや。そして帰宅したら庭の夜風が待っている。うちの庭は、地形や周囲の建物の影響なのか、街場が無風の日であってもいい風が入ってくるのです。
朝に晩に、風を感じ、季節を感じ、それはイコール自分を感じることなんだよなあ。ああ、庭があるって幸せなことだなあと、その庭時間の幸福感を夜風で精製して抽出したエッセンス、それを次の設計のコンセプトに振りかけ仮想庭を描いてゆく、この理想的な創作パターンが、お客様から「いわふちマジック」と言ったいただける結果の原資なんだろうなあと思っています。つまりは自分が庭をエキサイティングに、ロマンティークに、ある時は軽やかに、またある時は深々と味わう暮らし方の実践が暮らしの糧となっているわけで、巷間言われる「好きなことを仕事にできている幸運」なのでしょう。
幸運、強運、よく親父が言ってたなあ「お前は運が強い」って。運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う。忍ぶ不忍無縁坂、かみしめる様な、ささやかなぼくの母の人生。強運であっても、それは一昔前のトレンドだった、いわゆる成功とか巨万の富を得るとかそういうことではないのだと、かみしめる様なささやかな幸せを築ける人が強運なのだと、そんなふうに思う今日この頃。ことさらに明日から8月という今日は、朝から強くそのことを思うのであります。
八月や六日九日十五日。何だかウクライナのことが、最初とは捉え方が違ってきた自分を感じていて、それが正しいのか、あるいはそうじゃないのかは別として、プーチンはただの誤発、間違った引き金であって、その後に両軍が繰り広げていることのどこにも正義や正当性などない最悪な事態が果てしなし。ただの理解不能なる集団狂気のトルネードで 、噛みしめるような、ささやかな幸福を実現していた命を奪い続けている。あの狂気はいつまで続くのか。8月に特別な思いを抱くぼくら日本人は、彼らのことをどう捉えれば良いのであろうか。などと・・・
八月や六日九日十五日。少なくとも庭を楽しみ、庭で自分を見つめ、庭に調整され、導かれるように暮らしていれば、きっと狂気は避けられるに違いないと信じているのです。たとえ戦争が起こっても、頭が正常なら正常な選択ができるし、ささやかな幸福を守り抜くことができるはず。っていうか、人が人として人生を全うするにはそれが不可欠なのだと強く強く。なぜならですよ、正常の基準は政治ではなく自然の中に存在するものだから。ああ、今日もよく頑張ったなあと、夏の夜風を浴びながら。それでも理屈をこねて引き金を弾く者など存在しませんよ。あらゆる犯罪は狂気の果ての悲劇なり。
八月や六日九日十五日。毎年夏になると思い出す、遥かな尾瀬、遠い空。そして祈りと、今日を精一杯頑張って、花咲く暮らしを続けなければという決意。庭ですよ庭。庭は植物のための場所ではなく、雑草取りを繰り返す修行の場でもなく、人が人として正常であり続けることに役立つ貴重な生活空間なのです。狂気は嫌いです。狂気は平気で周囲を、家族を不幸にします。正常でいることが何より大事。女房にもよく言うんですよ、普通に考えようよって。正常とは普通なこと。その普通さは庭が普通に楽しく美しかったらキープできるのだ。
こないだ持ち込まれた相談「終活でね、庭の木を全部抜いてコンクリートにしておきたい」というのがありました。何が終活であるか。おじいさん、失礼ながら、残念ながら、どんな事情があるにせよぼくはあなたに賛同できない。終活とか言っていないで、しっかりと生活しなさいよ。と、言いませんでしたが、やんわりと、その仕事は手を振りながらムーンウォークで後退り。人生の終わりに備えて庭を潰すなんて、一体どんな人生だったんだよと、失礼ながらそう思ってしまうのです。庭が庭として機能しなかった人生、手入れが大変なばかりで少しも庭を楽しめなかった人生って・・・まあ、とてもよくあることではありますが。
朝に晩に、風を感じ、季節を感じ、それはイコール自分を感じることなんだよなあ。ああ、庭があるって幸せなことだなあと、その庭時間の幸福感を夜風で精製して抽出したエッセンス、それを次の設計のコンセプトに振りかけ仮想庭を描いてゆく、この理想的な創作パターンが、お客様から「いわふちマジック」と言ったいただける結果の原資なんだろうなあと思っています。つまりは自分が庭をエキサイティングに、ロマンティークに、ある時は軽やかに、またある時は深々と味わう暮らし方の実践が暮らしの糧となっているわけで、巷間言われる「好きなことを仕事にできている幸運」なのでしょう。
幸運、強運、よく親父が言ってたなあ「お前は運が強い」って。運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そういうことって確かにあると、あなたを見ててそう思う。忍ぶ不忍無縁坂、かみしめる様な、ささやかなぼくの母の人生。強運であっても、それは一昔前のトレンドだった、いわゆる成功とか巨万の富を得るとかそういうことではないのだと、かみしめる様なささやかな幸せを築ける人が強運なのだと、そんなふうに思う今日この頃。ことさらに明日から8月という今日は、朝から強くそのことを思うのであります。
八月や六日九日十五日。何だかウクライナのことが、最初とは捉え方が違ってきた自分を感じていて、それが正しいのか、あるいはそうじゃないのかは別として、プーチンはただの誤発、間違った引き金であって、その後に両軍が繰り広げていることのどこにも正義や正当性などない最悪な事態が果てしなし。ただの理解不能なる集団狂気のトルネードで 、噛みしめるような、ささやかな幸福を実現していた命を奪い続けている。あの狂気はいつまで続くのか。8月に特別な思いを抱くぼくら日本人は、彼らのことをどう捉えれば良いのであろうか。などと・・・
八月や六日九日十五日。少なくとも庭を楽しみ、庭で自分を見つめ、庭に調整され、導かれるように暮らしていれば、きっと狂気は避けられるに違いないと信じているのです。たとえ戦争が起こっても、頭が正常なら正常な選択ができるし、ささやかな幸福を守り抜くことができるはず。っていうか、人が人として人生を全うするにはそれが不可欠なのだと強く強く。なぜならですよ、正常の基準は政治ではなく自然の中に存在するものだから。ああ、今日もよく頑張ったなあと、夏の夜風を浴びながら。それでも理屈をこねて引き金を弾く者など存在しませんよ。あらゆる犯罪は狂気の果ての悲劇なり。
八月や六日九日十五日。毎年夏になると思い出す、遥かな尾瀬、遠い空。そして祈りと、今日を精一杯頑張って、花咲く暮らしを続けなければという決意。庭ですよ庭。庭は植物のための場所ではなく、雑草取りを繰り返す修行の場でもなく、人が人として正常であり続けることに役立つ貴重な生活空間なのです。狂気は嫌いです。狂気は平気で周囲を、家族を不幸にします。正常でいることが何より大事。女房にもよく言うんですよ、普通に考えようよって。正常とは普通なこと。その普通さは庭が普通に楽しく美しかったらキープできるのだ。
こないだ持ち込まれた相談「終活でね、庭の木を全部抜いてコンクリートにしておきたい」というのがありました。何が終活であるか。おじいさん、失礼ながら、残念ながら、どんな事情があるにせよぼくはあなたに賛同できない。終活とか言っていないで、しっかりと生活しなさいよ。と、言いませんでしたが、やんわりと、その仕事は手を振りながらムーンウォークで後退り。人生の終わりに備えて庭を潰すなんて、一体どんな人生だったんだよと、失礼ながらそう思ってしまうのです。庭が庭として機能しなかった人生、手入れが大変なばかりで少しも庭を楽しめなかった人生って・・・まあ、とてもよくあることではありますが。
大汗かいた夜に、庭で聴きたい夏の名曲。