今年の秋はいつもの秋より、短くなりそうな、そんな気がして。夜の庭でパソコンページにこの一節を書いたのが10月10日、野田で暮らしている息子の誕生日でした。息子はぼくの誕生日が近づくと「お父さん、欲しいものある?」とメールをくれて、ぼくは遠慮なく、カニ、とか、肉、とか、野田のホワイト餃子(開店前に並ばないと入手できない、日本で一番おいしい代物)とか返信すると、丹念に上物を選んで宅急便に乗せてくれる。全くもって、好もしい青年に育ってくれたものだと、感心と不思議が半々になるのです。それはもちろん幸せな感情で、送られてきた好物は、すぐに食べてしまうのが惜しくて冷凍庫に入れ、ちびちびと解凍してはつまみにする。あるいは孫たちに食べさせたくなり娘のところに持っていくか。息子がイメージしているであろう、歓喜してバクバク食べる勇猛な父の姿を空振りさせているのかもな、などと思いつつも、離れて暮らす者同士に、同士と思っている最愛の身内は上手に理解してくれるであろうと、まあ、親の甘えかもしれませんが。甘えさせてもらえる立場になったのだなあという感慨を味わいつつ。
今年の秋はいつもの秋より、短くなりそうな、そんな気がした夜風の予感は的中し、秋の情緒を楽しむことなく昨日からは冬の風。誰も気づいていないと思うけど、今年はマツムシがほとんど鳴かなかった。あの灼熱の影響なのでしょう。クマ目撃の多発も、後を絶たない「包丁のような物」による殺傷事件も、あの灼熱の影響なのでありましょう。ノ、ヨウナモノ。
あの夜、ぼくは息子に宛てて、誕生祝いのメールすら送らないまま、そろそろ寝ようかなと迷っていました。理由は、なんとなく恥ずかしかったから。昭和の親父が絶対にしないことだから。言わなくたってわかるだろ、そんなこと。当たり前だろそんなこと、と。
この頃の家族はそうではないわけで、フランス人の如くに愛情表現を欠かさないし、仲良く暮らす、朗らかに過ごすことは家庭人のお作法となっている。気づけばそんな世の中に進化しました。おもはゆいとはこのことで、そのお作法について行けていない、行けていない親父に成り下がってしまったのかもしれません。かもしれないじゃないくて、そうなってしまった。やれやれ、ってやつです。反省し、改善すべきなのか、あるいは昭和を貫いたまま朽ちてゆくのが老人の役回りなのか、わかりませんけど。
チチオヤノ、ヨウナモノ。
まあ、いいですよね、さして特殊なことでもないし。素直に言葉を使って伝える、喜ばしい、かつては幻想だった世界へと進化した反作用なのか、現実的な世の中には「・・・の、ようなもの」がいたるところに散乱しているのです。「家族のような集合体」、「幸福のような時間」、「庭のような場所」、ありとあらゆる物事を否定的に捉えては、だから自分は不幸だったのであると嘆き続けている「すでに終わっているような老人(絶対に避けたい近未来の自分)」。
いかん。遺憾に存じます。命とは、人生とは、家族とは、庭とは、もっともっと遥かにもっと、ドラマチックで感動的なものなのだ。などと「父親、のような者」が叫んだところで、ねえ、意味ないじゃ〜ん。つまりは「の、ようなもの」とは時代に置き去られた状態なのでしょう。起き去られたら、あらゆるものが、旬をとっくに過ぎた、「の、ようなもの」になってしまう。秋が短かったように感じる現象も、体感に伴う思考が鈍かったか、遅かったか、薄かったか、ということなのでしょう。猛暑によって山の食料が不足すれば、命懸けで、子連れで郷に入り込むクマ必死さに比べ、「人のような者」たちが上げる命の炎の何とか弱いことであるか。
チチオヤノ、ヨウナモノ。ノヨウナモノを取り払って、息子たち世代が身につけているお作法に準じなきゃね。老兵は大いに愛を語るべし、消え去る前に。フランス人のように。じゅって〜〜〜〜む。
若い頃よりも時の経過を早く感じるのは老化現象である。ジャネーの法則。
ジャネーの法則・・・人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する。10歳児の1年は0.1、60歳の1年は0.0167ですから、還暦親父は少年の6倍速で時間を体感していることになります。では、なぜそんなことが起こるのでしょう。生物学者は「時計遺伝子の老化」であると説き、心理学者は「人は新たな経験から生まれている実感を得る。だから経験値が積み上がった老人には100日生きても、それを1日にしか感じられないのだ」という説を唱える。
人生の秋を迎えた我が心身。長かろうと、短かろうと、我が人生に悔いはなしと言えるように。そのために必要なことなど100年前から知っている(つまり、遺伝子に組み込まれているのでしょう)。それは変化することなのです。大事なのは変化し続けることなのであ〜る。庭を美しく保つコツと同じく。「音楽が続く限り、踊り続けるんだ。しかも誰もが感心するくらい上手に」羊男の言う通りなのであります。
では、今日も美しい炎を上げて、設計設計また設計。ダンス・ダンス・ダンス。
優一朗よ、誕生日おめでとう。ずいぶん遅くなってしまったが、とにかくおめでとう。君ももうすぐ父になるんだし、ますます張り切って、どこまでもジャネーの法則に抗い、美しく燃焼するのだぞ。
じゃあね〜〜〜。
今年の秋はいつもの秋より、短くなりそうな、そんな気がした夜風の予感は的中し、秋の情緒を楽しむことなく昨日からは冬の風。誰も気づいていないと思うけど、今年はマツムシがほとんど鳴かなかった。あの灼熱の影響なのでしょう。クマ目撃の多発も、後を絶たない「包丁のような物」による殺傷事件も、あの灼熱の影響なのでありましょう。ノ、ヨウナモノ。
あの夜、ぼくは息子に宛てて、誕生祝いのメールすら送らないまま、そろそろ寝ようかなと迷っていました。理由は、なんとなく恥ずかしかったから。昭和の親父が絶対にしないことだから。言わなくたってわかるだろ、そんなこと。当たり前だろそんなこと、と。
この頃の家族はそうではないわけで、フランス人の如くに愛情表現を欠かさないし、仲良く暮らす、朗らかに過ごすことは家庭人のお作法となっている。気づけばそんな世の中に進化しました。おもはゆいとはこのことで、そのお作法について行けていない、行けていない親父に成り下がってしまったのかもしれません。かもしれないじゃないくて、そうなってしまった。やれやれ、ってやつです。反省し、改善すべきなのか、あるいは昭和を貫いたまま朽ちてゆくのが老人の役回りなのか、わかりませんけど。
チチオヤノ、ヨウナモノ。
まあ、いいですよね、さして特殊なことでもないし。素直に言葉を使って伝える、喜ばしい、かつては幻想だった世界へと進化した反作用なのか、現実的な世の中には「・・・の、ようなもの」がいたるところに散乱しているのです。「家族のような集合体」、「幸福のような時間」、「庭のような場所」、ありとあらゆる物事を否定的に捉えては、だから自分は不幸だったのであると嘆き続けている「すでに終わっているような老人(絶対に避けたい近未来の自分)」。
いかん。遺憾に存じます。命とは、人生とは、家族とは、庭とは、もっともっと遥かにもっと、ドラマチックで感動的なものなのだ。などと「父親、のような者」が叫んだところで、ねえ、意味ないじゃ〜ん。つまりは「の、ようなもの」とは時代に置き去られた状態なのでしょう。起き去られたら、あらゆるものが、旬をとっくに過ぎた、「の、ようなもの」になってしまう。秋が短かったように感じる現象も、体感に伴う思考が鈍かったか、遅かったか、薄かったか、ということなのでしょう。猛暑によって山の食料が不足すれば、命懸けで、子連れで郷に入り込むクマ必死さに比べ、「人のような者」たちが上げる命の炎の何とか弱いことであるか。
チチオヤノ、ヨウナモノ。ノヨウナモノを取り払って、息子たち世代が身につけているお作法に準じなきゃね。老兵は大いに愛を語るべし、消え去る前に。フランス人のように。じゅって〜〜〜〜む。
若い頃よりも時の経過を早く感じるのは老化現象である。ジャネーの法則。
ジャネーの法則・・・人生のある時期に感じる時間の長さは年齢の逆数に比例する。10歳児の1年は0.1、60歳の1年は0.0167ですから、還暦親父は少年の6倍速で時間を体感していることになります。では、なぜそんなことが起こるのでしょう。生物学者は「時計遺伝子の老化」であると説き、心理学者は「人は新たな経験から生まれている実感を得る。だから経験値が積み上がった老人には100日生きても、それを1日にしか感じられないのだ」という説を唱える。
人生の秋を迎えた我が心身。長かろうと、短かろうと、我が人生に悔いはなしと言えるように。そのために必要なことなど100年前から知っている(つまり、遺伝子に組み込まれているのでしょう)。それは変化することなのです。大事なのは変化し続けることなのであ〜る。庭を美しく保つコツと同じく。「音楽が続く限り、踊り続けるんだ。しかも誰もが感心するくらい上手に」羊男の言う通りなのであります。
では、今日も美しい炎を上げて、設計設計また設計。ダンス・ダンス・ダンス。
優一朗よ、誕生日おめでとう。ずいぶん遅くなってしまったが、とにかくおめでとう。君ももうすぐ父になるんだし、ますます張り切って、どこまでもジャネーの法則に抗い、美しく燃焼するのだぞ。
じゃあね〜〜〜。
離れて暮らす息子に、
贈る。
頑張れよ。
贈る。
頑張れよ。