3. ダレサラ-ム時代

 1977年頃、日本でアフリカが注目されてきたときに、会社はタンザニアに事務所を出した方がいいかどうか調べるために調査団をタンザニアに送ることとなり、私もそのメンバーに入りました。タンザニア政府の役所に行き、いろいろの状況を聞き、また、町では主要な会社・工場を訪ねて、景気の見通しを聞いて情報を集めて、あとで東京で総合して、店を出すかどうか決めるのです。タンザニアの副大統領に会うためにザンジバル島に行き、その時に海岸で泳いだところ、私は水中に大きなウミガメをみました。水がきれいでそこに大きなウミガメが泳いでまるで水族館のような景色です。私はなんとしてもここに来て住みたいものだと思いました。調査が終わり東京に帰り、店を出すかどうかの検討会では手を尽くして、是非ダレサラームに店を出すべしとの意見を具申し、強引に開店の方向に皆を誘導しました。商売もある程度は期待できましたが、何しろあのウミガメです。ああいう亀が自然に見られるような海岸があるなら、是非行きたいものだと思い、それで頭が一杯になりました。仕事は何とかあるだろうと適当に考えていました。それで、私が中心になり、ダレサラームに店を出す計画書をまとめ、会社の役員会で説明し、ようやく賛成を取り付けました。そうなると誰がそこに赴任するかとなり、私は当然、私自身が行くのだと信じて、私が行くといいますと、当時の上司が、君、会社で自作自演はまずいな、というではありませんか。私は、いや、自作自演だからこそいいのですと反論しました。それでも社内では他の候補者がでて、私がどうなるかわからない情勢となったため、私はライバルの候補者を捜し出し、ダレサラームは生活環境が悪くマラリヤ、結核等の疫病が多く、かなりの危険があるから、いかない方がいい。自分は店の設立調査をした責任があるから行ってみると話して、説得し辞退してもらいました。

 ダレサラームには他の同僚と共に赴任し、最初は、住宅も事務所もホテルでしたが、三菱商事がダレサラームに人を二人も送って店を出したということが他の日本の商社に刺激を与え、私がダレサラームについてわずか半年後には三井、丸紅、伊藤忠など大手の商社が人を出して開店しました。狭いダレサラームの町に急に日本人がふえて、集まると、お互いに顔を見ながら、ここはどういう仕事があるのだと訝ったりしていました。三菱が店を出したからには何か仕事があるのだろうと思ってでてきたのです。それから今では25年が経ちましたがダレサラームでは日本の商社で日本人が滞在しているのは三菱商事だけであとはすべて、事務所も閉鎖するか、あっても日本人はおらず、名前だけの事務所となっています。タンザニアではニエレレ大統領というアフリカでも屈指のリーダーが、植民地から独立後、厳しい社会主義の体制をしき、当時の共産主義のソ連、中国、北朝鮮の強い影響を受けていました。土地もビルも皆、国有化され、国語はスワヒリ語だけで英語も認められません。長らくタンザニアに住んで、タンザニアの経済をささえたインド人も大半は国を去り、欧米の企業も次々と店じまいをしていました。日本政府はニエレレ大統領のアフリカ全体に対する大きな影響力をみて、タンザニアがアフリカの発展のコアになると考え、ここで日本が積極的に取り組みを進めれば、アフリカ全体に効果があるとし、タンザニアへの開発援助を強化し、ダレサラームでの活動を強化したわけです。でも実際の町は社会主義体制ですから、ものも少なく、娯楽もありません。町の中心にある大きな店も私ははじめて行ってみたとき中に大きな棚があちこち並んでいるので、ここは棚を売っている家具屋だと思いましたが、あとで、それは棚にのせる商品がないために棚だけがあるのだとわかりました。私は初代の駐在員として来たのですが事務所もないし、家もないので、ホテルで2部屋をかりて事務所と寝室にしました。年中暑く湿気も高くちょうど日本の夏をもう少し暑くした気候です。停電、断水、電話の普通は当たり前で、そこで寝泊まりし、仕事をするのはなかなか大変でした。それでも海が近いのが救いで、海岸の市場から魚を買ってきてホテルで炭火で魚を焼いてそのフロアー全体に煙が行って苦情を持ち込まれたりしました。
 ダレサラームでも柔道を始めようと思い、新聞に広告を出し、有志を集め、道場に使う場所を探したところ、CCMというタンザニアの唯一の政党の事務所が持っている集会所の一部をかりることが出来ました。町の中央にあり、CCM党の催し物がよくあるところで人も集まりやすいところでした。タンザニアでは事務所は通常、朝7時から始まり午後2時で終わります。ですから、事務所が終わるとほぼ毎日私は柔道に行きました。部員は12歳くらいの子供から20歳くらいまでの少年が中心で、全部で100人くらいですが、狭い道場でしたので3組に分けて交代で稽古をするしかありません。それでも皆が熱心で、礼儀からはじめ、体操、乱取り、寝技など日本でやるのと同じような稽古に励みました。体格がよく体力がありますから、めきめきと強くなるものも出て、私も油断すると投げられました。
 柔道の稽古にはいつも見物人が多いですが、注意して見ているといつも、黒いベンツで来て、熱心に最後まで見ている人がいました。そこで友達にあれは誰かと聞いたらマルチェラという有名な政治家で今は農業大臣だといいます。彼の子供がいつも柔道に来ていたので、それを見ていたわけです。このマルチェラとの出会いが私に大きな影響を与えました。タンザニア人は総じてやさしく、控えめで、あまり活発ではないのですが、マルチェラ氏はかつては国連大使として、国連総会の場で日本政府のアフリカ政策の無策を糾弾し当時の日本の外務省が震え上がったといわれ、世界的に注目されているアフリカの政治家です。私は柔道の縁で彼の自宅によく出入りするようになり、彼とその家族と親しくなりました。夫人はタンザニアでも有数の弁護士として活躍していましたが、実に謙虚な人で、私はお百姓をして鶏や牛と生活するのが一番の願いといつもいっていました。
 1980年頃タンザニアは厳しい旱魃に見舞われ、主食のトウモロコシが立ち枯れて国民の食料の確保が出来なくなり、社会不安がおきました。マルチェラは農業大臣として、食料の調達の責任者です。私が呼ばれて相談を受けました。当時、日本では豊作が続き、古々米が何百万トンも貯蔵されて、一部は家畜の飼料にされるとの噂が出るほどの状況でした。その話をマルチェラにすると是非そのお米をもらいたい。日本にいきたいがどうすればいいかとのことです。私もそういうことにはなれていなかったのですが、本社に連絡し、当時の経団連のアフリカ委員会の会長である河野文彦氏、この方は当時の三菱重工の会長でしたが、に相談することにしました。マルチェラは東京に行き、河野氏に面談し、タンザニアの状況を説明して協力を乞いました。河野氏は、僕はもう、年だから今の政治家はあまり知らない、鈴木君にでも会ってみたらどうかとのことで、その場で鈴木善行首相に電話で話してくれました。マルチェラは鈴木首相に会うと、タンザニアは家畜の飼料はたくさんあるからそれと日本の古々米とを交換していただきたいと懇請しました。マルチェラはアフリカに冠たる政治家で貫禄負けはしません。首相に、あなたは昔農業大臣だったこともあり、いま首相をやられている。私も今は農業大臣だがそのうちに首相をやるかもしれないといいました。このご恩は決して忘れない。是非タンザニアにお米の援助をしてくださいと願い、後に焼く15万トンのお米が船に積まれ、それがタンザニアの食料危機を救いました。そのころから日本政府のタンザニアに対する援助が活発になり、私の方でもいろいろ手伝って仕事が出来ました。
 ある時、日本政府の援助の肥料が船に積まれて到着し、それを祝って、私がダレサラームのホテルで、引き渡しのパーティーを催しました。そこにはタンザニア政府側から農業大臣のマルチェラ氏をはじめ政府関係者が出席し、日本側も大使をはじめ大使館員やダレサラームに在住の邦人も出席しました。席上、私が話をはじめ、これは日本政府がタンザニアに贈る肥料であり、三菱商事が契約に基づいて、納品します。これがタンザニアの食料の増産に役立つことを願っていますと挨拶しますと、その話の終わらないうちに、日本の大使が、すでに、お酒がまわっていたのですが、ちょっとまて、三菱、三菱とえらそうにいうが、これは日本政府のお金で日本政府が贈るものである。三菱など、ほんの一つのsmall companyだと、言おうとして、酔いのせいか誤って、Mitsubishi is only one small countryといいました。
 すかさずそこでマルチェラが話を遮り、ほら大使、あなただって、三菱はsmall countryだといっているではないですか。少なくとも一国ですからあなたの権限外です。だいたい、日本大使館にいって話を聞くより三菱に相談した方がいつも親切に教えてもらえて情報もたくさんあると言いました。それをきいて激こうした大使は、近くにいた日本大使館員に、君がしっかりしていないからこういうことを言われるのだといって、いきなりその大使館員の顔を殴りつけました。大使館員は鼻血を出しました。その事態をみて、マルチェラは警備員を呼び、暴れる大使を会場の外に出すように命じました。
 日本からの米の船は毎月ダレサラームの港に入り、この仕事は総額がかなりの金額になりました。それでも、この仕事ではいっさいのリベートもコミッションもなく、非常にきれいに契約が履行されました。よく、援助の仕事は裏があって、政治献金やリベート、口利き料、果ては談合などいろいろと悪く言われますが、マルチェラ氏はいっさい私利私欲を持たずに、政治的にはいつもnational innterestを考えていました。その風貌も茫洋としており、私は、これは西郷隆盛のアフリカ版だなと思ったものです。最近、数年前ですが、同氏の次男、私が柔道を教えた子ですが、突然死亡しました。食中毒といわれましたが、変死との噂もあり、政治的な背景があって、食物に毒を入れられたとも言われます。葬式が終わってかなりたってから私は1人でマルチェラ氏の家に行きました。家に近づくと、いろいろのことを思い出して、涙が出て止まりません。不本意でしたがそのまま、マルチェラ氏に会いました。マルチェラ氏は私を見ると、泣くことはない、自分は決して悲しくない。いいかね、清水、人間はたとえ毒を盛られても、神様が生かそうとおもう人間なら死なない。イッピーは神様の思し召しで今は神様と共にいるだけだ、なにも悲しむことはないと、にこにこと言いました。この端睨すべからざる人物の言葉にはいつもながら驚きます。飾りもはったりもなにもなくいつも人の心に残ることを話します。来年はタンザニアで大統領選挙が予定され、同氏も立候補すると言われています。アフリカにはこういういわば、ホンモノの人間が時々いてその人達に出会うことが、アフリカでの楽しみの一つでした。



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〈清水さんがキリマンジャロで御来光を見た時にもらしたひとこと。人づてにそれを聞いた実家のお姉さんが筆を執り、葬儀後横浜の家に送ってきたものだそうです。『感動にひれ伏した』、そんな瞬間に出会ってみたいものです。〉



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 走る 新着ブログの『スパイダーウーマンが空を飛ぶまで』、この人の豊かでしなやかなイマジネーション、イイ感じです。さーて、私も負けないでイマジネーションかき立てて仕事しよ~っと。今日は入社希望社の面接2件と設計2プラン、それからスケジュールの整理です。