奥の庭は3つのエリアで構成されています。
ますはメインのバーベキューコーナー。




その壁の後ろ、物置の前が、ご主人手づくりのサブの炉と流し台。

庭用のガーデンシンクはいろいろと販売されていますが、まだなかなか高価です。この場合は機能重視で、シンプルにステンレスの厨房用流し台を選択。
その背後には目の粗い木製パネルを設置しました。洗い場の道具を掛けてもよし、植物をからめてもよし。これが空間を構成するということ。このパネルの高さまで場に厚みが出て、ひとつのエリアとしての認識が生まれるのです。

そして家の裏側は、全面的にコンクリートを打って、フルースペース&ご主人のバスケの練習場です。
大人数のガーデンパーティーでは、イス・テーブルを3セット置けます。

帰郷して思ったあれこれ。昨日は「故郷って有り難いなあ」と書きました。
そのありがたいぼくの故郷に、5年前の今日、2004年10月23日(土)午後5時56分、中越地震が発生しました。亡くなった方68人。道路も線路も池も田んぼも、そして数えきれない数の家も崩れてしまいました。
68人には家族がいて、友だちがいて、地区全体が絶望と悲しみに包まれていました。
家族を亡くした辛さはとても言葉にできませんが、それだけじゃなかった。避難所でおばあちゃんが「じいちゃんの位牌が流されてしまった」と泣き、ぼくと同じくらいの年の女性は「家族のアルバムがなくなってしまったのが切なくて」と泣き、男たちは「家も田んぼも使いもんにならん。どうしたらいいんだか」と肩を落として、やっぱり泣いていました。
あれから5年。ぼくにとってはもう5年ですけど、被災した皆さんにとっては、長くて重くてキツい5年だったと思います。
いちばん被害が大きかった山古志村では、村への道路が全て崩れて村民全員がヘリコプターで救出されました。今ぼくの手元にある「激震魚沼」という被害を記録した写真集をめくると「どう考えても、もう二度とここには人は住めない。山古志村はなくなってしまったんだ」と思ってしまうほど惨憺たる光景が写し取られています。
5年経ち、その山古志村(現長岡市)にも人々が帰って来て、震災前に住んでいた2100人のうち1300人が、家を建て直し、錦鯉の養殖池を復旧して暮らしているといいます。
たくましいものですねえ。みんなで力を合わせて、ほんとによく頑張ったなあと、頭が下がります。山古志名物の牛の角突き(牛相撲)も復活したそうです。
早朝のテレビの「あれから5年」という特集でやってたんですが、その山古志村の人たちが、まだ残っている倒壊した家屋をそのままの状態で保存しようという話が出ているそうです。あの震災を忘れないために。
村民にとって、きっと見るのも辛いであろうその爪痕を保存しようと・・・。
70才くらいの男の人が、農家の人独特の、やわらかい、いい笑顔でこう言いました。
「ただただ切なくて呆然としていたあの日から、一歩ずつ復興に向けて歩んできた、その気持を忘れないために。応援してくれて、助けてくれた全国の皆さんへの感謝を絶対に忘れないために。そうしたいと思ってるんです」
しみました。悲しいこと、辛いこと込みで笑ってる、その人の姿と言葉は、ぼくの中に深く深くしみ込みました。
帰郷して思ったあれこれ、明日も続きます。
ますはメインのバーベキューコーナー。




その壁の後ろ、物置の前が、ご主人手づくりのサブの炉と流し台。

庭用のガーデンシンクはいろいろと販売されていますが、まだなかなか高価です。この場合は機能重視で、シンプルにステンレスの厨房用流し台を選択。
その背後には目の粗い木製パネルを設置しました。洗い場の道具を掛けてもよし、植物をからめてもよし。これが空間を構成するということ。このパネルの高さまで場に厚みが出て、ひとつのエリアとしての認識が生まれるのです。

そして家の裏側は、全面的にコンクリートを打って、フルースペース&ご主人のバスケの練習場です。
大人数のガーデンパーティーでは、イス・テーブルを3セット置けます。

帰郷して思ったあれこれ。昨日は「故郷って有り難いなあ」と書きました。
そのありがたいぼくの故郷に、5年前の今日、2004年10月23日(土)午後5時56分、中越地震が発生しました。亡くなった方68人。道路も線路も池も田んぼも、そして数えきれない数の家も崩れてしまいました。
68人には家族がいて、友だちがいて、地区全体が絶望と悲しみに包まれていました。
家族を亡くした辛さはとても言葉にできませんが、それだけじゃなかった。避難所でおばあちゃんが「じいちゃんの位牌が流されてしまった」と泣き、ぼくと同じくらいの年の女性は「家族のアルバムがなくなってしまったのが切なくて」と泣き、男たちは「家も田んぼも使いもんにならん。どうしたらいいんだか」と肩を落として、やっぱり泣いていました。
あれから5年。ぼくにとってはもう5年ですけど、被災した皆さんにとっては、長くて重くてキツい5年だったと思います。
いちばん被害が大きかった山古志村では、村への道路が全て崩れて村民全員がヘリコプターで救出されました。今ぼくの手元にある「激震魚沼」という被害を記録した写真集をめくると「どう考えても、もう二度とここには人は住めない。山古志村はなくなってしまったんだ」と思ってしまうほど惨憺たる光景が写し取られています。
5年経ち、その山古志村(現長岡市)にも人々が帰って来て、震災前に住んでいた2100人のうち1300人が、家を建て直し、錦鯉の養殖池を復旧して暮らしているといいます。
たくましいものですねえ。みんなで力を合わせて、ほんとによく頑張ったなあと、頭が下がります。山古志名物の牛の角突き(牛相撲)も復活したそうです。
早朝のテレビの「あれから5年」という特集でやってたんですが、その山古志村の人たちが、まだ残っている倒壊した家屋をそのままの状態で保存しようという話が出ているそうです。あの震災を忘れないために。
村民にとって、きっと見るのも辛いであろうその爪痕を保存しようと・・・。
70才くらいの男の人が、農家の人独特の、やわらかい、いい笑顔でこう言いました。
「ただただ切なくて呆然としていたあの日から、一歩ずつ復興に向けて歩んできた、その気持を忘れないために。応援してくれて、助けてくれた全国の皆さんへの感謝を絶対に忘れないために。そうしたいと思ってるんです」
しみました。悲しいこと、辛いこと込みで笑ってる、その人の姿と言葉は、ぼくの中に深く深くしみ込みました。
帰郷して思ったあれこれ、明日も続きます。








































































































































































































そうですかあ、あのとき新潟に行ってくださったんですね。ありがとうございます。ガスは重要なライフラインですからね。もう朝夕は冷え込む時期だったので、心から感謝します。
地震があった中越地方の人たちは、代々豪雪と戦い、春にはその雪解け水の洪水と戦い、冬の3ヶ月仕事ができない分、春から秋は働き詰めで生きて来たので、強い。若い衆からお年寄りまで、押しつぶされても、流されても、たんたんと復旧していくアリのような強さを持っています。その強さを、先日帰郷のおりに実感しました。昨年はまだ残っていた仮設住宅もなくなって、何ごともなかったかのように、笑顔で稲刈りの後片付けや冬支度をしている人たちの姿に「ぼくも横浜でがんばらなきゃなあ」と元気を戴いて帰って来ました。
小千谷へはぜひ遊びにいってください。小千谷そばなら「角屋」がおすすめです。角屋のへぎそば、つなぎに海藻を使った腰の強い正統派のへぎそばです。ひとり3人前くらい食べて満腹で動けなくなるのが新潟の正しいそばの食べ方ですので、ぜひやってみてくださいね。
夏に行くなら、となりの川口町の町営温泉とヤナ場がいいですよ。オートキャンプもできます。冬ならスキーと、やっぱり温泉ですね。自然と人情の他はたいして名物もありませんけど、どの季節に行ってもお子さんは大喜びすると思います。たまに帰ると思いますけど、いいですよねえ、自然の中で暮らすって。