ゆっくりと、先に進んでいきます。
Before 4
After 4
Before 5
After 5
After 4
Before 5
After 5
「どうしたら庭をゆっくりと歩かせることができるか」ということを庭師が考え始めたのは、たぶん室町時代辺りからだと思われます。
自然のままの山野や河原を歩くと、とても歩き辛い。それを解消してスタスタと安全に歩くために石を敷いた通路が造園でいう延べ団です。自然に秩序を与えて人にとって便利な環境にするということです。
ところが庭文化が成熟していくに連れて「自然(宇宙)を感じるための場所」という役割を庭に込めるようになっていきました。
するとこんどは、自然の山野がそうであるように「いかにして歩き辛くするか」と考えるようになっていって、わざとつまずきそうになるような飛び石の配置とか、よっぽど気をつけて歩かないと足を滑らせる丸みを帯びた石を使ったり、京町家のアプローチのように歩きやすいフラットで直線的な通路なら、石の組み合わせで模様を描いて意識を引きつけたり。そういう工夫を積み重ねてきたのです。
そうすることで庭に入った人をできるだけそこに留まらせて、そこで何かを感じさせたいと考えたんですね。人の心に何かを与える、気持をつかまえて揺さぶることが庭の価値であると。
飛び石が右足、左足、右足、左足とリズムよく歩けるようになっていたら、足下を見ながらスタスタ歩きます。そうやって進んでいって、分かれ道に置いている大きめの石が右足で、次の一歩も右、そこでリズムが途切れますから、その大きめな石で立ち止まります。これが踏み分け石です。
そこで立ち止まって顔を上げると、その庭の見せ場があるのです。パーッと視界が開けて、目の前に広がる池の水面に借景の山が映っているとか、そういう仕掛け。そういうのに出くわすと、たまらなくうれしい。ワクワクするんです。江戸時代にその石を配置した庭師の意図が、今もそこを歩く人にまんまと作用していることの素晴らしさに、感動します。
自然のままの山野や河原を歩くと、とても歩き辛い。それを解消してスタスタと安全に歩くために石を敷いた通路が造園でいう延べ団です。自然に秩序を与えて人にとって便利な環境にするということです。
ところが庭文化が成熟していくに連れて「自然(宇宙)を感じるための場所」という役割を庭に込めるようになっていきました。
するとこんどは、自然の山野がそうであるように「いかにして歩き辛くするか」と考えるようになっていって、わざとつまずきそうになるような飛び石の配置とか、よっぽど気をつけて歩かないと足を滑らせる丸みを帯びた石を使ったり、京町家のアプローチのように歩きやすいフラットで直線的な通路なら、石の組み合わせで模様を描いて意識を引きつけたり。そういう工夫を積み重ねてきたのです。
そうすることで庭に入った人をできるだけそこに留まらせて、そこで何かを感じさせたいと考えたんですね。人の心に何かを与える、気持をつかまえて揺さぶることが庭の価値であると。
飛び石が右足、左足、右足、左足とリズムよく歩けるようになっていたら、足下を見ながらスタスタ歩きます。そうやって進んでいって、分かれ道に置いている大きめの石が右足で、次の一歩も右、そこでリズムが途切れますから、その大きめな石で立ち止まります。これが踏み分け石です。
そこで立ち止まって顔を上げると、その庭の見せ場があるのです。パーッと視界が開けて、目の前に広がる池の水面に借景の山が映っているとか、そういう仕掛け。そういうのに出くわすと、たまらなくうれしい。ワクワクするんです。江戸時代にその石を配置した庭師の意図が、今もそこを歩く人にまんまと作用していることの素晴らしさに、感動します。
Before 6
After 6
After 6
というわけで、曽田さんちの家の脇の「通路」を「庭」にするために、真っすぐに歩けないように、足下を見ながらゆっくりと進むように石を配置しました。
明日はテラスに入っていきます。
今日は妻の母の一周忌で姫路に来ています。
お経を読んでくださったお坊さんがこんな話をしてくださいました。
(関西のイントネーションで)ヘソって何でくっついてるか考えたことありますか?目や耳はないと困るけど、ヘソはなくても別に困らへんでしょ。なのにおなかの真ん中に、一生消えることなくついてます。
ヘソはですなあ、あなたが親とつながっていたことの証しなんです。それが機能としては必要なくなっても消えることがないのは、その親とのつながりを、一生忘れることなく生きていきなさいということなんですわ。親にもらった命、育ててくれたことへの感謝をなくさないために、ヘソは一生くっついているんです。
お菓子をもらった子供は「ありがとう」って言いますわな、どこの親でもそういうように育てます。だからみなさんも、命をくれた親に、そのまた親に、「ありがとう」って感謝しながら、命を大切に使い切りましょう。10代さかのぼるだけで1000人以上の人の存在によって今のあなたの命があるんですから。
ヘソはなぜくっついているのか。自分が今あることへの感謝を忘れないためです。
いい話だったなあ。
その話に聞き入りながら、ぼくは谷村新司さんの言葉を思い出していました。
「ありがとう」は「有り難い」ということ。有ることが困難なほどのいいことに感謝するという意味です。もうひとつこんな当て字もあります「在り我問う」、我れが在ることの意味を問う。どのようにして自分はここに在るのかを問うと、そう、ただただ感謝あるのみですよね。
ヘソの話、在り我問う、・・・「感謝」かあ・・・。昔から普通に使っていたこの言葉が、50歳になってから、ぼくの中で質量を持つようになり、ズッシリとしてきました。
仕事でも何でも、調子がいいときに、決まって「感謝」の質量が増大します。右を向いても左を見ても「感謝」の気持でいっぱいになるのです。逆に言うと、「感謝」してると調子が上向きます。
「感謝」は、とても大切で、しかも何か特別な力を持った不思議な言葉なのです。
明日はテラスに入っていきます。
今日は妻の母の一周忌で姫路に来ています。
お経を読んでくださったお坊さんがこんな話をしてくださいました。
(関西のイントネーションで)ヘソって何でくっついてるか考えたことありますか?目や耳はないと困るけど、ヘソはなくても別に困らへんでしょ。なのにおなかの真ん中に、一生消えることなくついてます。
ヘソはですなあ、あなたが親とつながっていたことの証しなんです。それが機能としては必要なくなっても消えることがないのは、その親とのつながりを、一生忘れることなく生きていきなさいということなんですわ。親にもらった命、育ててくれたことへの感謝をなくさないために、ヘソは一生くっついているんです。
お菓子をもらった子供は「ありがとう」って言いますわな、どこの親でもそういうように育てます。だからみなさんも、命をくれた親に、そのまた親に、「ありがとう」って感謝しながら、命を大切に使い切りましょう。10代さかのぼるだけで1000人以上の人の存在によって今のあなたの命があるんですから。
ヘソはなぜくっついているのか。自分が今あることへの感謝を忘れないためです。
いい話だったなあ。
その話に聞き入りながら、ぼくは谷村新司さんの言葉を思い出していました。
「ありがとう」は「有り難い」ということ。有ることが困難なほどのいいことに感謝するという意味です。もうひとつこんな当て字もあります「在り我問う」、我れが在ることの意味を問う。どのようにして自分はここに在るのかを問うと、そう、ただただ感謝あるのみですよね。
ヘソの話、在り我問う、・・・「感謝」かあ・・・。昔から普通に使っていたこの言葉が、50歳になってから、ぼくの中で質量を持つようになり、ズッシリとしてきました。
仕事でも何でも、調子がいいときに、決まって「感謝」の質量が増大します。右を向いても左を見ても「感謝」の気持でいっぱいになるのです。逆に言うと、「感謝」してると調子が上向きます。
「感謝」は、とても大切で、しかも何か特別な力を持った不思議な言葉なのです。