小中学を通して、算数が苦手でした。図形問題だけは大得意でしたが、計算や数式になると、すぐに頭がボーッとしてしまって、計算を放棄したぼくの脳みそは、いつもの果てしない妄想の世界へとワープするのでした。要するにもともと頭脳が理系じゃないんですよね、きっと。
あのころは、算数ができないと頭が悪いという評価でした。いくら運動ができても、絵がうまくても、算数ができない子は頭が悪い子。ぼくは裸の大将みたいに「ぼ、ぼ、ぼくは、頭が、悪いんだなあ」という自覚があり、それがずいぶんと長い間コンプレックスでした。
そのコンプレックスから逃げるように、絵ばかり描いていたようにも思います。ただ絵が好きだったのではなく、絵を描いていればとりあえず劣等感から逃れられる(へたれだったのです)。今振りかえると、たぶんそんなことだったと。

でもねえ、思うんですけど、なんでも夢中でやってるとそこから光が射してくるもんですよね。最初はコンプレックスからの現実逃避のお絵描きだったのが、だんだんそこにのめり込んでいって、夢中になり、気がついたら得意分野になっていたのですから、いわふちと言えば美術みたいな。
その延長線上に今の仕事もあるわけですから、何が幸いするかわからないものです。というか、なんでもいいんですよね、なんでもいいから夢中になれるということが大事。スタートの動機はなんでもいいし、最初は嫌いなことでも、現実逃避でも、何となく始めたことでもいいんです。夢中になること、夢中になるクセみたいなことから道が開けてゆくのだと、経験的にそう思っています。ぼくにほんの少しだけ才能があるとすれば、それは「夢中になるクセ」です。

算数コンプレックスから足を踏み入れた美術系の世界に、やがて夢中でのめり込んでいった過程に、3人の美術の先生の言葉がありました。
最初は小学3年生のとき、学校近くの森に行って木を写生する授業でのことでした。
「木はね、人間には見えないくらいゆっくりだけど、踊っているんだよ。太陽に向かって枝を揺らして踊っているんだ。そういうふうに思って描いてごらん」
たまりませんよね、そんなふうに教えられたら。ぼくはそのときから絵が大好きになりました。絵を描くのにぼくの妄想癖が役立つんですからね。その言葉(概念)がぼくの目にフィルターとして装着されてから、森の木々は、空を見上げて踊る群衆に見えるようになり、木々の歓喜の声も聴こえるようになりました。
余談ですが、このことがあってからぼくの中でもうひとつ変化した感覚があります。「友だちや先生や、自分以外の人も、自分と同じように寂しかったり悲しかったりするんだなあ」と、実感として自分以外の人に自分と同等の感情や人格を認識するようになったのでした。森の木を人格化することで、他者の人格に気がついたわけです。
いわふち少年は、写生授業で、少し人間らしくなったのでした。

そうやってのめり込んでいった絵の世界は、中学生になると本格的な油絵になって、彫刻や彫塑もやるようになって、すっかり美術室がぼくの居場所になりました。もう毎日が楽しくてしかたありませんでした。
が、そろそろ思春期、漠然と、人生について考える時期になっていました。「一生絵を描いて暮らせるわけじゃないから、ちゃんと勉強もしなきゃなあ。でもなあ、絵の方が楽しいんだよなあ」と。
そのときの美術の先生は地元で有名な彫塑の作家で、自宅にアトリエを持っていました。そこに遊びに行ったとき、ぼくの「どうしたら先生のように、絵や粘度をやりながら暮らせるようになるんですか?美術の先生になればいいんですか?オレには無理ですか?」と訊きました。先生の答えは
「いわふち、大丈夫だよ、なんでも25年やり続ければ食えるようになる。絵でやっていきたかったら描き続ければいいだけのことだよ、25年」
中学生のぼくの思考には、それまでそういう選択肢がありませんでした。好きなことやるのは遊んでいることと同じでいけないこと、大人になるということは、嫌いなことも頑張らなければならないということなんだと、そんなふうに考えていたのです。ぼくは気持がパーッと解放されました、「なーんだ、好きなことをやり続ければいいんだ」って。
その先生との出会いはぼくが歩く方向を決定づけました。先生もぼくに興味を持ってくださったのか、美術の話に留まらず、音楽や料理のことや、人生論まで、ずいぶんといろんな話をしてくれて、ぼくに京都のお坊さんの本をくれたりしました。その本「平常心/尾関宗園」にまた大きく影響を受けて、中学生のぼくのピュアさは、ピュアなまんまで人のカタチにでき上がっていきました。
今考えると、その先生との出会いが茨の道のスタートだったわけで、妙にピュアになってしまったおかげでずいぶんと苦労と遠回りをしましたが、それでももちろん大感謝しています。20代、30代、40代、そしてたぶんこれからも、周囲とはちょっと違う、とても自分らしい生き方になっていて、そういう自分が愛おしい、自分大好きになっています。出会いって、ありがたく、そして重大なことです。

もうひとり、高校の美術の先生が、離任式で残していった言葉、これもまた大きかった。
「みなさんの多くは進学や就職で都会へと出て行くと思います。見ず知らずの街のビルの谷間にいるときでも、どうか夕焼けに気づく人でいてください。いつまでも夕焼けに気づく人でいてくださいね」
この言葉はぼくが実際に東京に出てから、時間が経つほどに心にしみ込んできた言葉でした。そして上京から25年が過ぎた今でも、夕焼け空に出会う度に思い出し、自問しています。

話がころころ転がって、美的感受性のことから、ぼくの右脳デッカチ美術系頭がいかにしてでき上がったかということに変わってしまいました。
明日は話を元に戻します。自分に、そして子供たちに、美的感受性を育むにはどうすればいいのか。







































































































































































































