ウッドデッキとは?
何度も何度もデッキがある庭を設計しながら、その都度「ウッドデッキとは?」というとても原初的な問いからその仮想庭を組み立ててゆきます。その理由は・・・私的に考えればぼくがクリエーターだからです。クリエーターとは・・・クリスチャンやその思想の源流にあるユダヤ教的には「造物主・創造主」なわけでして、いやいやとてもとてもそこまで思い上がった自称などできるはずもなく、言わば「職人」あるいは「表現によって糧を得る部類の人」という程度の意味です。社会では少数派のぼくら界隈の価値観は、自分を擦り減らしながら他者に寄与するという、修行の如きマインドで日々を送る以外に自己肯定感を得られない、社会人としてはとても不器用な呪われた領域の住人なのかもしれないなあと、自虐的にそう考えることがあります。
でもね、仕方ないからその(気まぐれな神に与えられた)役割を果たそうと思うのです。そのことでよろこんでくださる人が存在する限りは。いやほんとに、気づくのが遅い気もしつつながら残り時間を徹底的に、稚拙かもしれないけどピュアに庭を生み出していこうと思っている次第。そうそう、孫の美空が英語を習い始めまして、この頃折々で「オー・マイ・ゴッド!」と叫びます。美空よ、ぼくには無邪気で天真爛漫な君がゴッドに思えるよ。
ちなみに美空くん、ゴッドと呼ぶのは直接的過ぎて神様に失礼ということなのか、嘆くだけで終わるような軽さを戒める意味なのか、本場のクリスチャンは「ゴッド」を、音量を控えつつ「ゴッシュ」と言うらしいぜ。オー・マイ・・・・ゴッ・・・シュと。
というわけで、自称クリエーターによって出現したウッドデッキをご覧ください。ウッドデッキとは?という自問への自答がこうなりました。
クリエーターに限らずあらゆる職業に、全ての家庭人に、つまりは地球上のほとんどの人の中にクリエイティビティーが内在されています。しかも普段は意識していないであろうそのことが、メタ的にはかなり重要な「幸福に生きる資質」だと思われます。つまりそれが動物と人の違いであり、ホモ・サピエンスが唯一の人類として生き残った理由なのかもしれないなあとまで思えるから。だからぼくらは、そしてあなたは、暮らしのあれこれを創造主の視点で捉え、利他の愛情に根ざした想像と創造を積み重ねる必要があるんじゃないですかねえ。それを抜きにして、なかなか幸せな家庭は築けない気がするので。
繰り返される忌まわしい事件や芸能人の不祥事は、彼らが人生を賭して見せてくれるしくじり者の様であり、神によるスケープゴード(不運な生贄)なのかもしれません。そうであるなら、じっくりと火炙りにされる苦しみの姿を見届け、あなたが愛する人の幸福を守り育てる糧にしなければならないでしょう。そんな視点からも、ぼくはけっこう真剣に、庭を楽しむ暮らしの組み立てをお勧めしています。なぜなら、多くの犯罪者と社会に適合できず落ちてゆく芸能人に共通して、その人に、庭を楽しむ暮らしは存在していなかった、と、思っているから。幼い日に、あるいは日々の家族団欒の舞台として、花咲く庭で過ごす時間(愛に育まれる時間)があれば、オー・マイ・ゴッシュな出来事は回避できたに違いないと信じているからです。そう言い切れる根拠として、経験的にですが、庭は利己的では美しくも楽しくもならないという、独特の性質を持っていることを知っていますから。
たぶん、ですけど、自分へのご褒美は二の次で、家族のために、やってくる友人のために、道行く人たちのために庭を整える人が正解なんじゃないかなあ、経験的に。
ええっと、つまり、恋は遠い日の花火じゃないし、庭は自分のためだけの場所じゃないし。想像は一瞬の煌めきだし、創造は苦労の積み重ねだし。おお、またもや名言!
小学6年生でこれを繰り返し聴いていたわけですから、
稚拙でピュアな恋愛観が根付いたのは仕方ない。
その根っこはいまだに雑草を蔓延らせているため、
恋するトキメキは習性的になっておりまして、
出会う人出会う人、年齢性別関係なくトキメクことしばしば。
まあ、うれしくありがたいことではあります。
次回はこのデッキのポイントである、空間構成のことをつらつらと。
何度も何度もデッキがある庭を設計しながら、その都度「ウッドデッキとは?」というとても原初的な問いからその仮想庭を組み立ててゆきます。その理由は・・・私的に考えればぼくがクリエーターだからです。クリエーターとは・・・クリスチャンやその思想の源流にあるユダヤ教的には「造物主・創造主」なわけでして、いやいやとてもとてもそこまで思い上がった自称などできるはずもなく、言わば「職人」あるいは「表現によって糧を得る部類の人」という程度の意味です。社会では少数派のぼくら界隈の価値観は、自分を擦り減らしながら他者に寄与するという、修行の如きマインドで日々を送る以外に自己肯定感を得られない、社会人としてはとても不器用な呪われた領域の住人なのかもしれないなあと、自虐的にそう考えることがあります。
でもね、仕方ないからその(気まぐれな神に与えられた)役割を果たそうと思うのです。そのことでよろこんでくださる人が存在する限りは。いやほんとに、気づくのが遅い気もしつつながら残り時間を徹底的に、稚拙かもしれないけどピュアに庭を生み出していこうと思っている次第。そうそう、孫の美空が英語を習い始めまして、この頃折々で「オー・マイ・ゴッド!」と叫びます。美空よ、ぼくには無邪気で天真爛漫な君がゴッドに思えるよ。
ちなみに美空くん、ゴッドと呼ぶのは直接的過ぎて神様に失礼ということなのか、嘆くだけで終わるような軽さを戒める意味なのか、本場のクリスチャンは「ゴッド」を、音量を控えつつ「ゴッシュ」と言うらしいぜ。オー・マイ・・・・ゴッ・・・シュと。
というわけで、自称クリエーターによって出現したウッドデッキをご覧ください。ウッドデッキとは?という自問への自答がこうなりました。
クリエーターに限らずあらゆる職業に、全ての家庭人に、つまりは地球上のほとんどの人の中にクリエイティビティーが内在されています。しかも普段は意識していないであろうそのことが、メタ的にはかなり重要な「幸福に生きる資質」だと思われます。つまりそれが動物と人の違いであり、ホモ・サピエンスが唯一の人類として生き残った理由なのかもしれないなあとまで思えるから。だからぼくらは、そしてあなたは、暮らしのあれこれを創造主の視点で捉え、利他の愛情に根ざした想像と創造を積み重ねる必要があるんじゃないですかねえ。それを抜きにして、なかなか幸せな家庭は築けない気がするので。
繰り返される忌まわしい事件や芸能人の不祥事は、彼らが人生を賭して見せてくれるしくじり者の様であり、神によるスケープゴード(不運な生贄)なのかもしれません。そうであるなら、じっくりと火炙りにされる苦しみの姿を見届け、あなたが愛する人の幸福を守り育てる糧にしなければならないでしょう。そんな視点からも、ぼくはけっこう真剣に、庭を楽しむ暮らしの組み立てをお勧めしています。なぜなら、多くの犯罪者と社会に適合できず落ちてゆく芸能人に共通して、その人に、庭を楽しむ暮らしは存在していなかった、と、思っているから。幼い日に、あるいは日々の家族団欒の舞台として、花咲く庭で過ごす時間(愛に育まれる時間)があれば、オー・マイ・ゴッシュな出来事は回避できたに違いないと信じているからです。そう言い切れる根拠として、経験的にですが、庭は利己的では美しくも楽しくもならないという、独特の性質を持っていることを知っていますから。
たぶん、ですけど、自分へのご褒美は二の次で、家族のために、やってくる友人のために、道行く人たちのために庭を整える人が正解なんじゃないかなあ、経験的に。
ええっと、つまり、恋は遠い日の花火じゃないし、庭は自分のためだけの場所じゃないし。想像は一瞬の煌めきだし、創造は苦労の積み重ねだし。おお、またもや名言!
小学6年生でこれを繰り返し聴いていたわけですから、
稚拙でピュアな恋愛観が根付いたのは仕方ない。
その根っこはいまだに雑草を蔓延らせているため、
恋するトキメキは習性的になっておりまして、
出会う人出会う人、年齢性別関係なくトキメクことしばしば。
まあ、うれしくありがたいことではあります。
次回はこのデッキのポイントである、空間構成のことをつらつらと。