撮影散歩が習慣化して、もう二十年以上になります。
行き先は、住民が草花を慈しむ金沢区の遊歩道や、港南区・栄区に点在する里山。
ほかには仕事で訪れる三浦半島のあちらこちらを歩くこともあります。
里山で感じる「反転」の感覚
行き先は、住民が草花を慈しむ金沢区の遊歩道や、港南区・栄区に点在する里山。
ほかには仕事で訪れる三浦半島のあちらこちらを歩くこともあります。
里山で感じる「反転」の感覚
これらの場所を歩いていると、ある共通点に気づきます。
それは『暮らしの中にある自然』を感じられる、ということです。
僕らはどんな環境や境遇で日々を送っていても、実は自然の真っ只中にいます。
コンクリートジャングルで暮らしていても、渡り鳥が上空から見下ろせばそこはポツンと一軒家のようなもの。
本来は『自然の中に暮らしがある』はずなのですが、里山を歩いていると、それが反転して『暮らしの中にある自然』として肌に伝わってくるのです。
越後育ちとして
それは『暮らしの中にある自然』を感じられる、ということです。
僕らはどんな環境や境遇で日々を送っていても、実は自然の真っ只中にいます。
コンクリートジャングルで暮らしていても、渡り鳥が上空から見下ろせばそこはポツンと一軒家のようなもの。
本来は『自然の中に暮らしがある』はずなのですが、里山を歩いていると、それが反転して『暮らしの中にある自然』として肌に伝わってくるのです。
越後育ちとして
越後の山奥で育ち、今は庭を生業にしているからでしょうか。
そこにある風景に懐かしさと安らぎ、そして何よりの『豊かさ』を感じます。
本来、厳しい自然と隣り合わせの暮らしでは、自然との闘いが基本スタンス。
庭の手入れも、掃除や洗濯と同じく「きちっと暮らさなくては」という生活のお作法になります。
ところが、里山の風景からはその『闘い』を感じません。
もし住人にインタビューをしたら、「闘い? とんでもない」と笑って返されることでしょう。
豊かさの正体は「お天道様」
そこにある風景に懐かしさと安らぎ、そして何よりの『豊かさ』を感じます。
本来、厳しい自然と隣り合わせの暮らしでは、自然との闘いが基本スタンス。
庭の手入れも、掃除や洗濯と同じく「きちっと暮らさなくては」という生活のお作法になります。
ところが、里山の風景からはその『闘い』を感じません。
もし住人にインタビューをしたら、「闘い? とんでもない」と笑って返されることでしょう。
豊かさの正体は「お天道様」
そこにある自然は敵ではなく、家族の暮らしを全力で支えてくれる、ありがたい『環境現象』・・・
いえ、いっそ「神様」と呼ぶ方がしっくりくるような。
お天道様のおかげで、という、かつては都会人も持っていた信仰に近い思考。
それこそが、里山から感じる豊かさの正体ではないか。つらつらと考えるうち、結論はそこへ行き着きました。
お天道様に感謝し、八百万(やおよろず)の神に柏手を打って一日が始まる。
昭和四十年代の田園では、まだ薄暗い時間に田んぼの水調整へ向かうお年寄りが、昇ってきたお日様にそっと手を合わせる光景がありました。
それこそが、文字通り『朝飯前』の一仕事だったのです。
さてと、仕事仕事。お天道様を背に受けて。
いえ、いっそ「神様」と呼ぶ方がしっくりくるような。
お天道様のおかげで、という、かつては都会人も持っていた信仰に近い思考。
それこそが、里山から感じる豊かさの正体ではないか。つらつらと考えるうち、結論はそこへ行き着きました。
お天道様に感謝し、八百万(やおよろず)の神に柏手を打って一日が始まる。
昭和四十年代の田園では、まだ薄暗い時間に田んぼの水調整へ向かうお年寄りが、昇ってきたお日様にそっと手を合わせる光景がありました。
それこそが、文字通り『朝飯前』の一仕事だったのです。
さてと、仕事仕事。お天道様を背に受けて。









































































































































































































