庭、という(日本においては)けっこう意味不明で摩訶不思議な場所。あなたはそうお思いにならないでしょうか。
ほとんどの人にとって庭とは京都の石庭、東京では小石川後楽園や六義園などの大名庭園、他には観光地にあるバラ園やハーブ園を思い浮かべることでしょう。では、あなたの家の庭は?みなさんその場所をどう捉えていいのかわからないか、あるいは「防草シートと砂利で雑草対策をしたから大丈夫」という理解で、そのまま何年でも庭の存在を感じることなく暮らしているわけです。
何%かは、そういう実態に疑問を持つ人が存在していて、そこで次に展開される思考は「どこに木を植えて、花壇を作って、どんな草花を育てようか」となります。ぼくとしては、そこまでたどり着けた人は幸運だと思っています。と言うのは、植栽の相談に来られる人なら少なからず、雑草だらけの庭を単に雑草を防ぐだけでなく、そこを美しい場所に変えたいというイマジネーションをお持ちだからです。
では、植物によって美しく構成された庭の価値とは?草花の存在に生きがいを感じる園芸マニアなら感動が得られるかもしれません。しかしそれ以外の人にとっては、ご近所さんや道行く人と、自分自身に向けて「花咲く美しい暮らしをしています」という感じで、生活上のお作法として庭の草木を手入れされているのでしょう。もちろんそれでいいんです。庭も含めて暮らしを整えることをがいかに大切であるかは言わずもがな、庭が荒れたままで幸せな暮らしを手に入れることは、なかなかに難しいですから。
花の数と幸せは比例する。これはぼくの(自称)名言です。この言葉の信憑性が、たくさんの庭を楽しむ人たちの暮らしに接しながら年々増してゆきます。犬や猫は花に興味を示さないのに、なぜ人はこれほど花が好きなのでしょう。冠婚葬祭に花は欠かせないし、孫のバレエの発表会、演劇・コンサートの際には花束を持参するし、リビングのテーブルやお仏壇に花を飾って生活する人も多くいらっしゃいます。それって何故だと思います?
人は相手への気持ちを託すのに花を使う生物なのです。その性質は猿が人へと進化した時点ですでに備わっていたらしく、驚くことに、発掘されたネアンデルタール人の遺骨に花束が添えられていたそうです。さらに遡った太古の時代から、昆虫と植物は双方の生存をかけて腕を組みました。ですから虫たちが花に夢中になるのは当然として、はてさて、現生人類(ホモ・サピエンス)と花との関係性を築く元となったものは何なのか。蜜や花そのものを食料としたわけではないし、受粉にも関係しないし・・・。
それは愛情表現です。元来ネズミかウサギのように弱々しい哺乳類だった人類は、同族、ファミリーの助け合いを抜きにしては生きてゆくことができませんでした。だから家族や周囲の人たちを大切にした。そこで、直立したことで肥大化した脳内に発生し成長していった、他の生物に類を見ない新たなニューロンネットワークが愛情なのだと考えられます。か弱き二足歩行のサルは、曖昧で独特な愛情という感情を武器としてグレート・ジャーニーを成し、地球上の大半に分布し、やがて地上を支配する生物にまで繁栄しました。
虫嫌いの人は大勢いるのに、花が嫌いという人には会ったことがありません。ただし花に興味がない人はいくらでもいます。雑草が嫌いな人は大勢いるのに、庭が嫌いという人には会ったことがない。しかし、庭に興味がない人はいくらでもいる。ぼくは庭屋なので「いい庭があれば人生は上々」と感じる場面につどつど出会い、故に強くそれを信じています。どんなスタイルの庭であれ、その人にとっての「いい庭」に辿り着くには、人間性豊かなヘルシーな思考と野生味あふれる行動が不可欠で、チコちゃんに叱られてばかりいたら実現できない世界ですから。庭という場所を目の前に、愛情に基づいた思考と行動を発揮できる人は、当然のこと、上々の人生を送ることになるのです。
花の数と幸せは比例する。それは、クドクドとこんなふうに考えてゆくと至極当然なこと。愛ですよ愛。家族や周囲の人や、そして自分への愛情が庭の花数を増やしてゆくのです。
ほとんどの人にとって庭とは京都の石庭、東京では小石川後楽園や六義園などの大名庭園、他には観光地にあるバラ園やハーブ園を思い浮かべることでしょう。では、あなたの家の庭は?みなさんその場所をどう捉えていいのかわからないか、あるいは「防草シートと砂利で雑草対策をしたから大丈夫」という理解で、そのまま何年でも庭の存在を感じることなく暮らしているわけです。
何%かは、そういう実態に疑問を持つ人が存在していて、そこで次に展開される思考は「どこに木を植えて、花壇を作って、どんな草花を育てようか」となります。ぼくとしては、そこまでたどり着けた人は幸運だと思っています。と言うのは、植栽の相談に来られる人なら少なからず、雑草だらけの庭を単に雑草を防ぐだけでなく、そこを美しい場所に変えたいというイマジネーションをお持ちだからです。
では、植物によって美しく構成された庭の価値とは?草花の存在に生きがいを感じる園芸マニアなら感動が得られるかもしれません。しかしそれ以外の人にとっては、ご近所さんや道行く人と、自分自身に向けて「花咲く美しい暮らしをしています」という感じで、生活上のお作法として庭の草木を手入れされているのでしょう。もちろんそれでいいんです。庭も含めて暮らしを整えることをがいかに大切であるかは言わずもがな、庭が荒れたままで幸せな暮らしを手に入れることは、なかなかに難しいですから。
花の数と幸せは比例する。これはぼくの(自称)名言です。この言葉の信憑性が、たくさんの庭を楽しむ人たちの暮らしに接しながら年々増してゆきます。犬や猫は花に興味を示さないのに、なぜ人はこれほど花が好きなのでしょう。冠婚葬祭に花は欠かせないし、孫のバレエの発表会、演劇・コンサートの際には花束を持参するし、リビングのテーブルやお仏壇に花を飾って生活する人も多くいらっしゃいます。それって何故だと思います?
人は相手への気持ちを託すのに花を使う生物なのです。その性質は猿が人へと進化した時点ですでに備わっていたらしく、驚くことに、発掘されたネアンデルタール人の遺骨に花束が添えられていたそうです。さらに遡った太古の時代から、昆虫と植物は双方の生存をかけて腕を組みました。ですから虫たちが花に夢中になるのは当然として、はてさて、現生人類(ホモ・サピエンス)と花との関係性を築く元となったものは何なのか。蜜や花そのものを食料としたわけではないし、受粉にも関係しないし・・・。
それは愛情表現です。元来ネズミかウサギのように弱々しい哺乳類だった人類は、同族、ファミリーの助け合いを抜きにしては生きてゆくことができませんでした。だから家族や周囲の人たちを大切にした。そこで、直立したことで肥大化した脳内に発生し成長していった、他の生物に類を見ない新たなニューロンネットワークが愛情なのだと考えられます。か弱き二足歩行のサルは、曖昧で独特な愛情という感情を武器としてグレート・ジャーニーを成し、地球上の大半に分布し、やがて地上を支配する生物にまで繁栄しました。
虫嫌いの人は大勢いるのに、花が嫌いという人には会ったことがありません。ただし花に興味がない人はいくらでもいます。雑草が嫌いな人は大勢いるのに、庭が嫌いという人には会ったことがない。しかし、庭に興味がない人はいくらでもいる。ぼくは庭屋なので「いい庭があれば人生は上々」と感じる場面につどつど出会い、故に強くそれを信じています。どんなスタイルの庭であれ、その人にとっての「いい庭」に辿り着くには、人間性豊かなヘルシーな思考と野生味あふれる行動が不可欠で、チコちゃんに叱られてばかりいたら実現できない世界ですから。庭という場所を目の前に、愛情に基づいた思考と行動を発揮できる人は、当然のこと、上々の人生を送ることになるのです。
花の数と幸せは比例する。それは、クドクドとこんなふうに考えてゆくと至極当然なこと。愛ですよ愛。家族や周囲の人や、そして自分への愛情が庭の花数を増やしてゆくのです。