新緑の季節。
種田山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」と詠みました。行けども行けども鬱蒼とした植物が立ち塞がり、時に根っこや蔓に足を取られながら歩を進める山道を、彼は涅槃への道程と捉えたのでしょう。世の中に満ち満ちている命たちの力に圧倒されそうな、か弱く情けない自分を励ましたのです。こんなどうしようもない自分であっても、負けてなるものか、負けるわけにはいかないのだ、と。
一般的にこの句は、酔うほどに瑞々しい山の息吹でエナジーチャージをし、山頂を目指す、清々しい励ましの言葉と解釈されているようで、実際にぼくもそうでした。ところが山頭火の事情を知れば真逆なのです。生い立ちと忌まわしき過去の呪縛をどうにもできず、酒に溺れ、友もなく、誰に喜んでもらうことも、自分で自分を褒めることもできずに、こじき同然のみすぼらしい姿であてどなく彷徨っている自分。そんな虫ケラ同然の自分が、他にどうすることもできずにただただ息をしている。本当はもう死んでしまいたい、楽になりたいともがき苦しみながらも「それでも歩くしかないでしょ」と、そういう嘆きとも、踏ん張りともつかない叫び声、あるいは深いため息の描写だということがわかります。
で、それが何か?ええっとですね、何が言いたいのかというと、自然から受ける刺激を圧力に感じる時というのは、無自覚に、心が弱っている可能性があるということ。人はそこで立ち止まり、自然界のパワーを杖にして、森に満ちているフィトンチットによって癒されることで立ちあがろうとする。天命に従って光合成を行い自然界を下支えしている植物群は、そのようにして、人を励ます役割を果たしながら繁栄しています。ただしこれは、自称賢い人類お得意の上から目線で解釈すれば、ですが。どう考えても自分本位で手前勝手な我らホモ・サピエンス的な言い分でして、ぼくらは自然に寄与することなく、一方的に恩恵を受けている。昆虫と同等に、自然界からふんだんに配膳された恩恵を、ただ食い散らかすだけの進化系猿に成り下がっています。ですから、山頭火のように苦悩するのは当然のこと。いわゆるバチが当たったわけです。
いや、べつに山頭火を責めているのではありません。彼は自分ではどうすることもできない、ヒューマンチックな病を持った親によって傷つけられながら成長したのですから。責めるどころか、ズタボロになって這いつくばる彼の周囲に大自然があり、その揺り籠に身を沈めている時だけ自分を回復できたのでしょう。アイム・ジョン・メリック!と叫んだエレファントマンに似て、「分け入っても分け入っても青い山」と。いいんですよ、誰だって不条理に叩きのめされることはあるし、へとへとに疲れる時はあるし、それが続いて病むことだってあるし、遠慮なく自然に身を沈めて癒されましょう。ありがとう森よ、ありがとう道端の雑草よ。しょうがないですよ、(愚かさ込みで)人間だもの。
もしもぼくらが自然に恩返しできるとしたら、それは自然破壊を慎むことではありません。いち日いち日を大切に、丁寧に、健全に、はつらつと生きること。家族を愛し、自分を愛おしみ、仕事に励み、それによって得られる歓喜の時を送ることです。なんだかクリスチャンみたいな言い方でカッコ悪いような、恥ずかしいような、そんな気持ちを振り捨てて、「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」。庭が荒れているなら、自ら花を植えましょう。雑草が嫌なら抜けばいいし、カーテンを開けられないなら目隠しを施せばいいし、花いっぱいの暮らしがしたければ、文句を言っていないでそのようにすればいいだけのこと。
そもそも、あなたはなんでそんなに雑草が気になるのかを、庭に佇んで、ぼーっと考えてみてください。問題の本質は庭ではなく、もしかしたら、過去にあるのかもしれませんから。そうそう、何でもかんでも、今感じている苦労の原因は、もう忘れかけている(あるいは忘れたいのに忘れることができない)過去に起因しているのです。加藤諦三が言っているので、きっとそうなんだと思います。で、加藤先生、じゃあどうすればいいの?先生の回答は「弱い自分、ダメな自分を認めなさい。それができたら明るい未来が待っています」というようなこと。先生の定番の展開です。でもね、先生・・・いやいやこれ以上は申しますまい。当事者の性根の問題ですから。
山頭火の性根は太く逞しい雑草の根っこでした。きっと、思考が病んでいた両親とは別に、祖父母なのか、親戚なのか、ご近所さんなのか、メソメソ泣くしかなかった少年を大きな愛情で包んだ人がいたのでしょう。貧しくても、不遇であっても、理不尽な目に遭っても、大自然のように無言で包んでくれる人がいれば、それが根っこの発育を促進させるのです。人も草花も根っこ次第、根っこは土次第なり。
「分け入っても分け入っても青い山」
この句を清々しく受け取り元気が萌え上がるなら、あなたは大自然のように健康です。健康第一。庭ですよ庭、素敵な庭があれば心の健康を維持することができます。
いやあ、それにしても、種田山頭火って愛おしい人ですね。近年研究が進んで、とても愛すべき人だったという評価が出てきたゴッホに似て。
種田山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」と詠みました。行けども行けども鬱蒼とした植物が立ち塞がり、時に根っこや蔓に足を取られながら歩を進める山道を、彼は涅槃への道程と捉えたのでしょう。世の中に満ち満ちている命たちの力に圧倒されそうな、か弱く情けない自分を励ましたのです。こんなどうしようもない自分であっても、負けてなるものか、負けるわけにはいかないのだ、と。
一般的にこの句は、酔うほどに瑞々しい山の息吹でエナジーチャージをし、山頂を目指す、清々しい励ましの言葉と解釈されているようで、実際にぼくもそうでした。ところが山頭火の事情を知れば真逆なのです。生い立ちと忌まわしき過去の呪縛をどうにもできず、酒に溺れ、友もなく、誰に喜んでもらうことも、自分で自分を褒めることもできずに、こじき同然のみすぼらしい姿であてどなく彷徨っている自分。そんな虫ケラ同然の自分が、他にどうすることもできずにただただ息をしている。本当はもう死んでしまいたい、楽になりたいともがき苦しみながらも「それでも歩くしかないでしょ」と、そういう嘆きとも、踏ん張りともつかない叫び声、あるいは深いため息の描写だということがわかります。
で、それが何か?ええっとですね、何が言いたいのかというと、自然から受ける刺激を圧力に感じる時というのは、無自覚に、心が弱っている可能性があるということ。人はそこで立ち止まり、自然界のパワーを杖にして、森に満ちているフィトンチットによって癒されることで立ちあがろうとする。天命に従って光合成を行い自然界を下支えしている植物群は、そのようにして、人を励ます役割を果たしながら繁栄しています。ただしこれは、自称賢い人類お得意の上から目線で解釈すれば、ですが。どう考えても自分本位で手前勝手な我らホモ・サピエンス的な言い分でして、ぼくらは自然に寄与することなく、一方的に恩恵を受けている。昆虫と同等に、自然界からふんだんに配膳された恩恵を、ただ食い散らかすだけの進化系猿に成り下がっています。ですから、山頭火のように苦悩するのは当然のこと。いわゆるバチが当たったわけです。
いや、べつに山頭火を責めているのではありません。彼は自分ではどうすることもできない、ヒューマンチックな病を持った親によって傷つけられながら成長したのですから。責めるどころか、ズタボロになって這いつくばる彼の周囲に大自然があり、その揺り籠に身を沈めている時だけ自分を回復できたのでしょう。アイム・ジョン・メリック!と叫んだエレファントマンに似て、「分け入っても分け入っても青い山」と。いいんですよ、誰だって不条理に叩きのめされることはあるし、へとへとに疲れる時はあるし、それが続いて病むことだってあるし、遠慮なく自然に身を沈めて癒されましょう。ありがとう森よ、ありがとう道端の雑草よ。しょうがないですよ、(愚かさ込みで)人間だもの。
もしもぼくらが自然に恩返しできるとしたら、それは自然破壊を慎むことではありません。いち日いち日を大切に、丁寧に、健全に、はつらつと生きること。家族を愛し、自分を愛おしみ、仕事に励み、それによって得られる歓喜の時を送ることです。なんだかクリスチャンみたいな言い方でカッコ悪いような、恥ずかしいような、そんな気持ちを振り捨てて、「暗いと不平を言うよりも、進んで灯りをつけましょう」。庭が荒れているなら、自ら花を植えましょう。雑草が嫌なら抜けばいいし、カーテンを開けられないなら目隠しを施せばいいし、花いっぱいの暮らしがしたければ、文句を言っていないでそのようにすればいいだけのこと。
そもそも、あなたはなんでそんなに雑草が気になるのかを、庭に佇んで、ぼーっと考えてみてください。問題の本質は庭ではなく、もしかしたら、過去にあるのかもしれませんから。そうそう、何でもかんでも、今感じている苦労の原因は、もう忘れかけている(あるいは忘れたいのに忘れることができない)過去に起因しているのです。加藤諦三が言っているので、きっとそうなんだと思います。で、加藤先生、じゃあどうすればいいの?先生の回答は「弱い自分、ダメな自分を認めなさい。それができたら明るい未来が待っています」というようなこと。先生の定番の展開です。でもね、先生・・・いやいやこれ以上は申しますまい。当事者の性根の問題ですから。
山頭火の性根は太く逞しい雑草の根っこでした。きっと、思考が病んでいた両親とは別に、祖父母なのか、親戚なのか、ご近所さんなのか、メソメソ泣くしかなかった少年を大きな愛情で包んだ人がいたのでしょう。貧しくても、不遇であっても、理不尽な目に遭っても、大自然のように無言で包んでくれる人がいれば、それが根っこの発育を促進させるのです。人も草花も根っこ次第、根っこは土次第なり。
「分け入っても分け入っても青い山」
この句を清々しく受け取り元気が萌え上がるなら、あなたは大自然のように健康です。健康第一。庭ですよ庭、素敵な庭があれば心の健康を維持することができます。
いやあ、それにしても、種田山頭火って愛おしい人ですね。近年研究が進んで、とても愛すべき人だったという評価が出てきたゴッホに似て。